診察まで3か月待ちは当たり前!? 「発達障害」になりたい人たちが増加。その実態とは?

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公開日:2018/8/1

『「発達障害」と言いたがる人たち』(香山リカ/SBクリエイティブ)

 近年ようやく発達障害が一般化したことで、人々の理解が増えた。生きづらさを抱える彼らのもとに暮らしやすい社会が訪れるのではないかと感じていた。

 しかし最近では少々おかしなことが起きているらしい。たとえば、典型的な「部屋が片付けられない」悩みに関して、「冬物のコートがいまだに出しっぱなし」「昨晩の食器がまだ台所に残っている」程度ならば、誰にでもありがちだ。この誰にでもありがちなことを「発達障害のせいではないか?」と疑い、病院に駆け込む人が増えているというのだ。

 それを受けて医者も問診を重ねるのだが、どうも疑わしくない。そこで医者が「あなたは発達上の問題があるとは思えません」と告げると、患者は安堵するどころか、「じゃあなぜ片付けられないのですか? 私がだらしないとでも言いたいんですか?」と怒ってくる。

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 なんと、発達障害という診断結果を求めて病院を訪れる人がいるのだそうだ。……ありえない。

 この出来事は、『「発達障害」と言いたがる人たち』(香山リカ/SBクリエイティブ)で紹介されているエピソードだ。

 本書は、精神科医であり様々なメディアで活躍する香山リカ先生が、このような人々が増える原因が何なのか解き明かそうと書き上げた1冊。なぜ発達障害になりたがる人がいるのか。その理由が本書から見えてきた。

■30年前は発達障害の定義さえ定まっていなかった

「なぜ発達障害になりたがる人がいるのか」という本論に行く前に、本書より発達障害が抱える複雑な問題を取り上げたい。

 そもそも発達障害は見えづらい障害だ。違和感を覚えながらも患者本人がなかなか気づけず、社会生活を始めて数年経ってようやく医療機関に訪れることが少なくない。だが、もっと問題なのは、医者側としても診断しづらいことだ。

 本書では、発達障害が先天性の障害として認められた医療の歴史を説いている。詳細は割愛するが、簡潔に述べると、医学者たちが「自閉症」の存在を知ったのがここ50年のこと。発達障害に至っては、30年前までその定義さえ定まっていなかった。

 このため医学が発達した現在になっても医療現場は未だ混乱している。精神科医が主に使うアメリカ精神医学会が発行する「DSM」診断ガイドラインは、改訂されるたびに発達障害に対する考え方や分類の仕方が大きく変わるという。精神科医でも内容についていくのに必死だそうだ。

■完治する治療法が確立されていない

 また、医者側の発達障害に対する見解も統一されていない。人の内面や考え方というのは、体の障害や内臓の病気と違って見えづらいので、どうしても主観が入った状態で診断してしまう。

 たとえば、空気が読めなくて社会生活に苦しむ人が受診してきた。それを受けてある精神科医は「それは発達障害ですね」とすぐに診断する一方、別の精神科医は「それは個性の範囲ではないですか?」と告げる人も……いるかもしれないそうだ。

 この文章を読む限り、「後者の精神科医は今すぐ辞めろ!」と言いたくなるだろう。しかし前者の精神科医も良いとは限らない。「過剰診断」という言葉があるように、本来ある程度一般的な生活が送れたであろう人も、その診断によって「発達障害」というレッテルが貼られる可能性があるのだ。

 発達障害は、ADHDに対して効果のある薬は存在するものの、いまだ完治する治療法が確立されていない。その診断を受けても、暴れまわったり排泄ができなかったりするほどの重い障害でなければ、具体的な社会支援が得られないこともある。

 こういった複雑な事情が生きづらさを抱えた人々の苦しみを倍増させ、その声がメディアに届く。その声をメディアで聞いて、また別の生きづらさを抱えた人々が診察にくる。本書を読む限り、負の連鎖が生まれていることは間違いない。

■なぜ発達障害になりたがる人がいるのか

 ここまでの経緯を踏まえて、本書では最終章で「なぜ発達障害になりたがる人がいるのか」について答えを出している。

 まず、発達障害という診断が下されることで何かしらの解決策を求めている人々がいる。会社の業務や生活に支障が出ている場合、発達障害と認定してもらうことで生活が劇的に変わることを望んでいるのだ。しかし前述の通り、劇的に改善したり完治したりする薬は存在しない。このような現状があるため、もし本当に発達障害だったとしても、それを患者に告知するべきか悩む医者もいるのだそうだ。

 次に、生きづらさを抱える人々は、自己肯定感を著しく損なっている。「なぜみんな当たり前にできることが私だけできないの?」「どうして人付き合いでいつもこんな苦しい目に遭うの?」。そんな体験から自身を激しく責め、心も体もボロボロになる。そんな人々は「隠れADHD」などの診断名をもらうことで、「私が悪いわけではなかったんだ」と自尊感情を回復できる。自分の心を取り戻し、「まずはできることから始めよう」と前向きに新しい生活をスタートさせられるのだ。

 そして最後に、発達障害を「個性」だと勘違いする人々も……なかにはいるらしい。最近では著名人が発達障害であることを告白したり、「有名な経営者がADHDだ」と話題になったり、この障害が何か特別な才能につながっていると考える人もいるそうだ。本書はこの部分について慎重に述べているのだが、なんともいえない感情がわきあがる。

 発達障害は、見えづらく理解しにくい障害だ。また、それを取り巻く社会的な要因も重なって、関わる人々全員が迷い戸惑いながら答えを探している状況にある。

 この記事では取り上げることができなかったが、本書では「育て方の問題で発達障害が“後発”する可能性はない」「子どもの発達の遅れを医療機関で診断して良い結果につながった有力な証拠はない」「製薬会社やスマホゲームなど、発達障害のグレーゾーンにいる人々を食い物にするビジネス」などについても紹介している。特に、「自分の育て方のせいで子どもが発達障害になったかも」と苦しむ親御さんにぜひ読んでほしい。

 これだけ複雑な問題を抱える発達障害は、これからもしばらく社会でくすぶり続けるだろう。彼らに必要なのは、診断名じゃない。心を支え、その人らしい暮らしを送るための支援だ。この本を読んでなんとも歯がゆい気持ちになるのは、きっと筆者だけではないだろう。

文=いのうえゆきひろ