自己啓発ビジネスの“不都合な真実”が明らかに…! 今こそ聞いてほしい哲学のはなし

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公開日:2019/5/7

『自己啓発をやめて哲学をはじめよう その絶望をどう扱うのか』(酒井穣/フォレスト出版)

 自分を高みに連れて行ってくれる…ような気がする自己啓発書やセミナー。この類には精神性の高いワードがずらりと並び、読めば読むほど徳を積んで、世界に対する新しい答えを見つけた…ような気分になれる。

 しかし『自己啓発をやめて哲学をはじめよう その絶望をどう扱うのか』(酒井穣/フォレスト出版)では、自己啓発ビジネスの類を真っ向から否定している。自己啓発本をどれだけ読んでも金持ちになれないし、ときにはセミナーに通った分だけ“カモ”としてお金を巻き上げられることもあるそうだ。

 自己啓発の真の意味は「自らの意思で勉強すること」。キラキラしたワードが並ぶ書籍を読むことや、学歴のある素晴らしそうな人に憧れてセミナーに足を運ぶこととは意味が違う。筆者は本書を読んで「うぐぅ」と言葉にならない呻きが漏れ出た。

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 もう眉唾モノの自己啓発には騙されない。怪しげなセミナーと縁を切る良い機会かもしれない。本書より自己啓発ビジネスの不都合な真実を暴き、絶望に立ち向かう哲学を手に入れる方法を少しだけご紹介したい。

■「自己啓発ビジネスは貧困ビジネス」という実態

自己啓発ビジネスというのは、非常によくできた、歴史のある貧困ビジネスです。

 この目の覚める強烈な一文は、本書の「はじめに」に記されている。自己啓発書やセミナーは、自分を高みに連れて行ってくれる存在ではない。人の弱みにつけこんだ貧困ビジネスだ。本書はそう指摘する。耳が痛い。

 代表的な自己啓発ビジネスの1つに、「適応機制」という人間の特徴を活かしたマーケティング手法がある。これは、本当に望むものが入手できないとき、その対象を「つまらないもの」としたり、ほかに「より大切な何か」を定義したりして、そちらに意識をそらすことだ。たとえば好きな人に告白して失敗したとき、「あの人はつまらない人だ」と忘れようとする行為が適応機制だ。

 この人間の特徴を利用し、「お金にとらわれない、精神的に豊かな生活」といった、中身がなくて響きの良い言葉を売り文句とするビジネスがいくつも誕生している。このキラキラした自己啓発に見覚えのある人がきっと多いだろう。とても心惹かれるワードだったが…そうか…騙されちゃいけないのか…。

 では、貧困ビジネスに引っかかりやすい人は誰か。それは普通の一人よりも危機に敏感で、自尊心が満たされていない人だ。最近では政治や経済、自身の将来に対する不安を抱える人が増え、それにつけいるように自己啓発の需要も増している。

 自己啓発ビジネスを仕掛ける側は不安を抱えている人を囲い込み、自己啓発らしきものを教え込むことで、外部の一般人を「わかっていない人々」と見下す文化を形成する。そうして“カモ”となった人の承認欲求を満たす。まるで新興宗教のような悪徳で精密な仕掛けが自己啓発ビジネスに隠されているのだ。

■自己啓発で金銭的な成功が得られない不都合な理由

 2017年末に仮想通貨が大流行したとき、「仮想通貨で儲ける方法」といった情報商材があちこちで誕生した。これに心惹かれた人が実に多かっただろうが、少し常識的に考えてみたい。お手軽にお金を儲ける方法を知っている人が、それを他者に“有料”で公開するのはおかしな話だ。自分で実行すればいくらでもお金が入ってくるはずだからだ。

 自己啓発ビジネスでも同様のことがいえる。たとえば「現世での成功といったことから自由になる」という謳い文句は、一見、金銭的な豊かさを否定して高い精神性を説くように聞こえる。しかしこれらもまた「現世での成功に執着する人」をターゲットにして、書籍やセミナーといった情報商材として公開されている。結局はビジネスのネタであり、自己啓発は真の意味でインチキなのだ。

 どれだけ真剣に自己啓発を進めても、金銭的な成功はもちろん、高い精神性も実現されない。この不都合な真実をかき消すように、最近では自己啓発ビジネスを仕掛ける側が学歴の“権威”にこだわるようになった。「この人は東大出身なのか! そんな人がこんな徳の高いことを告げている。きっと間違いない!」。そんな安心感を誘う。

 それでもまだあなたは自己啓発の類を信じるだろうか? わらにすがるように、怪しげな書籍やセミナーに手を出すだろうか?

■自己啓発は自分の内側に興味を持ち、哲学は自分の外側に興味を持つ

 しかし社会や将来に対する不安があるから自己啓発に手を出していた背景があるのに、もしそれを一気に手放すと、えも言われぬ“絶望”が心の中でゆっくりと頭をもたげる。

 将来、職を失って路頭に迷わないか?
 同じような毎日を過ごして、私の人生はこのままでいいのか?
 ずっと今のような毎日を生きて、最期はどうなってしまうんだろう?

 目をそむけたくなるような絶望が心を埋め尽くしたとき、果たしてどうすればいいのか? 著者は断言している。哲学だ。

 哲学と聞くと非常に難しくややこしくカタクルシイ学問をイメージするが、こう表現すればどうだろうか? 哲学とは、「外の世界」を探求しようとする行為だ。

 とても残念な事実だが、筆者も含めてこの世の多くの人は、中身が豊かではないし、立派な人物でもない。自己啓発ビジネスでは、中身のない自分に何度もダイブさせ、嫌でもその事実を気づかせる。そして自己啓発によって提供した高尚な目標に向かわせ、できなければ「まだステージが低い」という言葉でえぐり、「成功者は成功するまであきらめない」というとんでもないロジックを展開してしばりつける。

 ところが皮肉なことに北野武や黒澤明のような偉大な人物は、ストレートに表現すると、役に立たない知識をきっと大量に持ち合わせている。イチローに至っては野球一色だ。しかしこの役に立たない知識こそが自身の内側を豊かにして、その人だけの哲学を形成する。自分の外側にある世界に好奇心を示せないと、自分の心は豊かにならないのだ。

 だからこそ哲学が必要だ。中身が豊かでも立派でもない自分という「大罪」を忘れるために、自分を忘れ、外の世界に興味を持つ。たとえば料理の世界に魅入られたとき、その間は自身の大罪を忘れている。料理の世界に深入りするだけ、自身の心も豊かになる。もしかすると野球一色に染まったイチローのように、偉大な道が開けるかもしれない(もちろん心が豊かになるだけで終わることもある)。

 哲学はこの世の真理を探究する学問だ。外の世界に興味を持ち、どこまでも深く潜っていく学問だ。私たちに必要なのは自己啓発ビジネスではない。哲学なのだ。

■本書が出版された経緯

 なぜ著者は自己啓発ビジネスに警鐘を鳴らす本を書いたのか。その理由が「はじめに」にある。

実は、私が本書を書くことを決意したのは、私の大切な友人の1人が、自己啓発の世界から戻って来られなくなったからです。

 著者は自己啓発で友人を失った。偶然にも本書の編集者も同じ体験をしていた。本書には2人の悲しみと怒り、そしてこれ以上、自己啓発ビジネスに溺れる人が増えないでほしいという願いが込められているように感じる。

 自分を学び高めるはずの自己啓発ビジネスの本質は、不安に駆られた人々の心につけいり、さらに不安をあおってお金を巻き上げる貧困ビジネスだ。自己啓発なのに、人を狂わせてしまう。

 もし心の中で不安が大きくなって仕方がなくなったときは、自己啓発ではなく哲学を始めてみよう。きっと真の意味で心の豊かさをもたらしてくれるはずだ。本書はその手伝いをする存在であり、怪しい自己啓発と縁を切る第一歩となってくれるはずだ。

文=いのうえゆきひろ