戦争と歴史には敵味方、軍、民、各自の論理が存在する

公開日:2012/4/26

「民」の論理、「軍」の論理

ハード : PC/iPhone/iPad/Android 発売元 : 講談社
ジャンル:教養・人文・歴史 購入元:eBookJapan
著者名:小田実 価格:864円

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政治運動家で小説家である小田実の評論。小田実全集の1冊。
刊行が1978年で、時代を感じるが、「文明」「正義」に対する考え方、世界の動き、人間の動き、政治学など著者の意見は現在でも通じると考える。

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著者が訪米した時、「トリニティ」と呼ばれた爆発実験地がすでに、「アメリカ合衆国陸軍試験本部白色砂地ミサイル発射場」となり、「立ち入り禁止」となっていた。その付近の住民は保守主義者で、ルーズベルト、ケネディ、カーターなどのリベラル思想は全てダメだという。なぜダメかというと、奴らは人間を平等にしているからだという。つまり、リベラル思想は彼らの既得利益を奪うのである。そこらへんの当時の事情がまことに判りやすく語られている。

また第二次大戦中、トルーマン大統領のヒロシマに原子爆弾を落とす最終決定のくだりも興味深い。当時、最高の政策決定者であるはずのルーズベルトは原子爆弾投下決定の理由のひとつに、助言者たちの委員会が、そう進言してきたからだと主張した。著者は、これを責任分散だという。責任が分散された情況でありながら、実行されたという経緯が恐ろしい。

「文明」「正義」に関して、著者の論調は特に手厳しい。
第二次世界大戦ほど、人間の歴史を特徴づける一次的倫理判断の完璧な例であったものはないという。第一次大戦が「文明」対「文明」の戦争であったのに対し、第二次世界大戦は「文明」対「野蛮」の戦争であったのだ。この戦争は、全ての善、正義が一方にあり、全ての悪が他方にあった。無論、正義を持つのはアメリカである。何にしろ、敵はアウシュビッツで虐殺を行なった者、南京で虐殺を行なったといわれている者なのだから。戦後、日本の戦争が文明国同士の戦争ではなく、勧善懲悪の戦争という図式になってしまったことは、考えさせられてしまう。

著者は言う。日本人の肌がもし白いものであったら、広島市と長崎市に原子爆弾が投じられることはなかったと。
戦時中、アメリカ合衆国の西部で日系人だけが強制収容所に入れられた。ドイツ系、イタリア系の人々には、そのようなことはしなかった。あの戦争自体、有色人種に対する差別を根底に含んでいたのだという。

戦争という行為にも、論理が存在するのは当然である。だが軍には軍の、民には民の言い分がある。その言い分を著者なりに説いたものが本書だといえよう。


文明、正義、戦後世界など著者の論点であるキーワードが並ぶ目次

著者が記しているように数行のまえがき。そのまえがきにも著者の想いが凝縮されている

原爆を積載した爆撃機が出撃したテニアン島の地図 (C)Hyun Soon-Hye 2011