バッハはロックだ! モーツァルトはスウィングだ!
公開日:2012/5/11
同じ花でも、ヨーロッパと日本とでは、かたち、匂い、すべて同じだろうか。同じ音楽でも、ヨーロッパで演奏される音楽と日本のそれとは同じだろうか。もし違うとしたら、どこがどのように違うのだろう。両者の違いに音楽の本質をさぐる。
革命と音楽、音楽と政治、十二音音楽について、音楽と脳の関係、西洋音楽と邦楽の違い、音楽の今後、演奏家への提言など内容は多岐にわたる。サカナクションやブルーハーブは出てこないけれど、ピンク・フロイドやマイルス・デイヴィスが出てきたり、通読に音楽に関する専門知識は必要なく、ややこしい専門用語に躓くこともない。音楽は読むものではなく聴くものと思い、当然音楽書が汗牛充棟なはずもない浅薄な一読者は、全体をどのように読んだか。
キーワードは、アフタービートとスウィング。前者については、バッハの時代から西洋音楽は、ロックと同じように二拍子なら一拍目が弱拍、二拍目が強拍のアフタービート(バックビート)であること(日本の民謡は前拍のオンビート)。行進曲で左足から踏み出すのは、利き足の右足が、強拍、つまりアフタービートに対応するためという解説には目から鱗がドサッと落ちた。後者については、スウィングはジャズ独自の音楽的特性ではなく、アフリカ系米国人演奏家達の本来拍節的規則性を持たなかった音楽に、スウィングという規則性を持ち込んだのは西洋音楽で、スウィングしないクラシック音楽は有り得ず、モーツァルトにスウィングが重要とまでいう。日本人のクラシック演奏家はこのスウィングが苦手で、日本人演奏家は譜面を正確に弾くのは上手いとの揶揄もここから生まれる。
このようにアフタービートとスウィングをおもな理由に、同じ音楽の花でも、ヨーロッパと日本とでは微妙に異なり、ここに音楽の本質があると読んだ(スウィングは撓み[たわみ]、撓みの連続から拍節が生まれると表現されている)。
では副題にある「クラシックに狂気を聴け」の狂気とはなにか。「規範や常識や理知では説明できない情動」「極端な、しかし人間の本能的激情」とある(第2章「革命と音楽」ロマンティックから)。演奏者も聴くほうももっと過激にスウィング! こう換言、単純化するのは乱暴だろうか。
最後の第六章「音楽と政治」に、ベートーベンの「第九」、その終楽章(有名な歓喜の歌)に関する記述がある。いうまでもなく日本での「第九」は「忠臣蔵」「有馬記念」と並ぶ師走の定番。その終楽章がなぜ日本人に好まれるのか、その秘密が書かれている。
「西洋音楽論」目次から
時代の異なる二人のヴァイオリニストが演奏したバッハ作品の波形。西洋音楽はアフタービートの証明
ハイネの詩を例に、「狂気」とは
調性音楽=階級性の音楽。無調の十二音音楽=階級性解体の音楽という
スウィングしないクラシック音楽は有り得ない!