日本のスポーツノンフィクションを変えた、記念碑的名作

小説・エッセイ

公開日:2012/8/6

スローカーブを、もう一球

ハード : PC/iPhone/iPad/Android 発売元 : KADOKAWA / 角川書店
ジャンル:小説・エッセイ 購入元:BOOK☆WALKER
著者名:山際淳司 価格:567円

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スポーツノンフィクションの名作。いや、名作などという言葉では追いつかないな。スポーツノンフィクションを語るとき必ず引き合いに出される、ひとつのモニュメントとも言える作品集だ。初版は1981年。入手は難しかった。著者の山際氏は、1995年に46歳という若さでこの世を去っている。新作が読めないなら、せめて既刊の佳作を広く勧めたい──それが今年6月に文庫の新装改版が発売、そして同時に電子書籍になった。これは嬉しい。

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掲載されているのはぜんぶで8編。「八月のカクテル光線」は1979年夏の甲子園での星稜対箕島(と書いただけで「ああ、あれか!」とすぐに思い出す人も多いだろう)、「江夏の21球」は昭和54年の広島対近鉄の日本シリーズでの出来事(これもタイトルだけであの場面を思い出すファンは多そうだ)といったメジャーな出来事がある一方で、独学でボート競技でのオリンピックを目指した青年の「たった一人のオリンピック」、プロ入り後打撃投手に転向した投手を描く「背番号94」、ボクサーの美意識を追求した「ザ・シティ・ボクサー」、スカッシュの10年連続日本チャンピオンを追った「ジムナジウムのスーパースター」、超スローカーブを武器にした高校球児の表題作、そして棒高跳びがテーマの「ポールヴォルダー」と、そのモチーフは幅広い。

ちょうどオリンピックの年だし高校野球の時期だしと迷ったが、ここはやはり「江夏の21球」を取り上げよう。昭和54年の広島対近鉄の日本シリーズ第7戦(つまり最終戦)9回裏、広島の抑え江夏はノーアウト満塁のピンチを迎える。誰もが近鉄の逆転勝利を確信した。そんな中、江夏は21球でこのピンチを切り抜ける。そのとき江夏が1番気にしていたのは、広島のブルペンがリリーフの準備に動いたことだという。俺に任せたんじゃないのか、信用してないということか──。そんな江夏に衣笠が近寄り、声をかける。その衣笠の一言で江夏は冷静になり、あの劇的な幕切れを迎えるのだ。

このあたりの心理描写にはゾクゾクする。心理だけでなく、どういう球種を何を狙って投げたかという記述など、野球ファンにはたまらない。その場面をありありと思い出す。たとえ当時見ていなくても、情景が思い浮かぶだけの臨場感がある。

どの作品もそうだが、山際淳司の文章は、過剰な感情移入がなく、実にスマートに、淡々と情景を描写するタイプのものだ。書き手の主観や主張を極力交えず、上からの分析や押しつけもない。ただそこで起きたこと、あったことを、丹念な取材の末にフェアにスマートに綴っていく。書き手が必要以上に取材対象に食い込まない「節度」があるのだ。ルポというよりも、一遍の小説を読んでいるかのような文章が、山際氏の持ち味だった。

スポーツと言えば汗と涙と努力と根性──そんな考えが一般的だった昭和に、本書の登場は衝撃的だった。こんなスポーツノンフィクションがあるのかと、当時の若者を中心に爆発的な人気を呼んだ。いろいろなタイプのスポーツノンフィクションが出てきたのは、これ以降のことだ。ロンドンオリンピック、夏の高校野球、今年もいろんなドラマがあるが、山際氏ならどう書いたろう。そう思わずにはいられない。


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