「本当の自分」なんていない!?

更新日:2018/8/14

私とは何か 「個人」から「分人」へ

ハード : PC/iPhone/iPad 発売元 : 講談社
ジャンル: 購入元:電子文庫パブリ
著者名:平野啓一郎 価格:648円

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私とは何か。ふとした瞬間になんとなくそんなことを疑問に思ったりしないだろうか? 例えば、仕事終わりの帰り道なんかに、「会社での私と、家での私、どちらが本当の私だろう?」とか、学校の友人関係の中で「A子ちゃんといる時と、B子ちゃんといるときなら、どちらがキャラを作らずに話せているだろう」とか、はたまた自分自身のことでなくてもTwitterやFacebookを見ていて「あいつはTwitterでは過激なことを言うけど、現実だとそうでもないよなー。一体どっちが本当のあいつなんだろう?」とか。

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私たちは、確固とした自我のある「本当の自分」がいて、その上で、人付き合いの中で「キャラ」を変えたり、「外向きの私」を演出したりしていると思いがちだ。

しかし、そもそもの話、「本当の自分」などいるのだろうかと疑問を呈するのが本書だ。

「“本当の自分/ウソの自分”というモデルを、一度、徹底して考え抜いた末に、私はやはり、この発想自体にムリがあるのだと、ようやく自分自身で実感するようになった。」と語る著者の平野啓一郎は、「個人」という枠の中では捉えられない概念を「分人」と提唱する。そして、昨今の人間関係や個人の問題を「分人」という枠の中で整理していこうとする。

そもそも、わたしたちが普段意識することなくもっている「個人」という概念、著者はそれも明治時代に海外から輸入されたものであるという。

「今でこそ、当たり前になっているが、明治になって日本に輸入された様々な概念の中でも、“個人individual”というのは、最初、特によくわからないものだった。その理由は、日本が近代化に遅れていたから、というより、この概念の発想自体が、西洋文化に独特のものだったからである。」

そうした「よくわからない」発想だった「個人」を、日本はいかに取り入れて発展していったかを語る一方、そうした枠の中でつくられた「本当の自分」というモデルでは捉え切れないものがあると分析する。

「私たちは、たとえばどんな相手であろうと、その人との対人関係の中だけで、自分のすべての可能性を発揮することは出来ない。(中略)だからこそ、どこかに“本当の自分”があるはずだと考えようとする。しかし、実のところ、小説に共感している私もまた、その作品世界との相互作用の中で生じたもう一つ別の分人に過ぎない。決してそれこそが唯一価値を持っている自分ではなく、学校での顔は、その自分によって演じられ、使い分けられているのではないのだ」

そこで、複数の人の前で、複数の「分人」を持ちながら生活しているというモデルを持ち出し、具体的なエピソードも交えながら、このモデルから人のコミュニケーションの仕組みについて解説していく。恋愛からストックホルム症候群まで、「分人」という観点からの分析を見ると、思わず首肯しながら納得してしまう。つい、自分とまわりの関係はうまくいっているだろうかや、自分はどんな分人を抱えているのかなど、考えさせられてしまう1冊だ。

平野啓一郎が提唱するこの「分人」という概念、実は初出はこの新書からではない。2009年に発刊した小説『ドーン』の中で、小説の設定のひとつとして使われている言葉が始まりだ。

本書では、この「分人」という発想に至るまでの流れを、自身の作品を書く上で考えたことを明かしながら、説明する。よって、この新書は、「分人」という発想を提唱する本であると当時に、小説家、平野啓一郎の自著解説の本であるとも捉えることができるのだ。
デビュー作の『日蝕』から『ドーン』に至る遍歴、そこには平野啓一郎が常に一貫して「わたし」というものを熟考する歴史そのものがあり、明治よりはじまる近代文学の流れ(「私とは何か」の流れ)とも接続することのできる思想がある。思えば、平野啓一郎は近代文学の歴史を再追認するようにして小説を書き、その土台を元にして『ドーン』という未来の話を想像した作家だった。本書をガイドブックにして、平野啓一郎の小説集をひとつの思考の流れとして読みなおすこともまた、貴重な読書体験となるはずだ。


個人とは? 分人とは?

分人としてのコミュニケーションのあり方とは?

著者の感じた疑問から語られる様々な現象

他者が不在になると、その人に対応した分人はどうなる?

分人という発想から語られる様々な現象