『働くおっぱい』第6回「ウケる喘ぎ声」/紗倉まな

エンタメ

公開日:2018/10/5

 日本人女性の声は先進国の中でもとりわけ高いそうだ。

 とあるネット記事を読んで「へえ」と思わず声が出た。この、寝転びながら発する私の声はとりわけ高いこともなく、通常運転時は基本的に低い。

 記事に書いてあった「若い女性は平均350~400ヘルツ」「女性らしさを求められる→声が高くなる」、そして「日本独自の女性に求められてきた社会的価値観が影響している」という仮説(定説?)は、外に出て誰かと話しているとき、つまり「外向け」用の声の高さを指しているのだろう、と思っている。

 それにしても、350ヘルツってどんなもん?と当然ながらその周波数がパッと頭に出てこないので、YouTubeで探してみたところ、うん、なんだか高音なモスキート音……だった。

 どこで平均をとったのか、誰の声をサンプルにして調査したのかはわからないけれど、この記事を読んでいて、一つのことに気が付く。そして、以前自分の身に起きたとある「謎の出来事」が、「なるほど」と納得できる着地点を見つけたのだ。

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 その出来事は二年前、スペイン・シッチェスで起きた。裸の男性たちがビーチでゆらゆらと歩いている姿を眺めることのできる、崖の上で開催されたシッチェス映画祭に、なんと自分が出演している映画が出展されることとなり、セレモニー(らしきもの)に出席することになったのだ。

 潮風にさらされながら聳え立つ教会を越えて、広場に出る。街路にはオープンテラスが並び、スペインの人たちが陽気に出迎えてくれる。

 普段からそうなのかどうかは比較する参考がないのでわからないけれど、街中に出ている屋台で、クエンティン・タランティーノが印刷されたポスターが売られ、それを買おうかどうか吟味している人がいて、映画祭の盛り上がりを垣間見ることができた。そして夕方になると、どこからともなく人々が流れ出てきて、ハロウィンコスプレのように着飾り、街を闊歩するのだ。数人の背の高いスクリームたちとすれ違って「ぎゃっ!」と叫んだ。

 パエリアを貪りながら「スペインいいわ~~最高だわ~~」と浸っていた初日の深夜。挨拶の為、劇場の舞台に登壇をすることになった。

 監督、出演していた俳優さんの挨拶が済み、私が「オラ~~」と声を発したとき。会場の、なんとも「違和感のある」歓迎ぶりに困惑した。

 どんな「違和感」かと言えば、私が話すたびに、どっ、と笑いが起きるのだ。ちなみに監督や俳優さんのあいさつでは、「フ~~~!!」と口笛を吹いたり手を上げたりの盛り上がりはあったけれど、それとはまったく異なるものだった。異国の地の、笑いの基準が分からずに戸惑いながらも、私は数時間前に叩き込んだ稚拙なスペイン語でそのまま自己紹介を続ける。しかしながら一言一言の句読点が打たれるたびに、まるで最強のコメディアンを見ているかのような笑いが爆発するように連なって、気持ちがいいのか悪いのかよくわからない感情を突き付けられた。

 壇上を降りると、スタンバイ場所で構えていたスペイン人の通訳さんが「ばっちりじゃないですか」とグーサインを見せてくれるも、その目の端にはうっすらと涙が。……おやおや? もしかしてスペインの方は、私の顔が丸すぎて金玉とでも思ったのかな? なんてその日は特に気にすることもなくホテルへ戻り、食事を済ませて爆睡した。

 翌日、取材が入っていた。インタビュアーさんが遅れてやってきて、「スミマセンー」と開口一番、片言の日本語で謝罪され場が和む。しかし取材が始まる直前に、両手を広げるジェスチャーでもって、インタビュアーさんが意気揚々と何かを語り始めた。その様子に私が首を傾げていると、通訳さんが予想もしていなかったことを伝えてくれたのだ。

「いやぁ、とっても褒めていますよ」

「……あ、映画ですか?」

 通訳さんの首が横に振られる。NO, NO。

「紗倉さんの昨日の登壇時の声がアニメ声ですごく面白かった、と。いつもそんな感じなんですか? と。みんな笑ってましたよね、と。」

 私は「え?」と驚いてマネージャーの顔を見た。ひょっとこみたいな顔で「え~~不思議だね~」とはぐらかされる。日本ではどちらかというと、声が低い方と言われることの多い私は、そのスペイン人のインタビュアーさんの感想が素直に理解できなかったのだ。

 たしかに、スペイン人女性の会話を聞いていると、その声は、しっかりとした重みをもった色っぽい低さであった。比較してしまえば、登壇時、つまり「外向きの声」というのは多国語とはいえ無意識のうちに高くなっているのだから、私の声は余計に高音に感じられてしまったというのも納得できる。それにしても、アニメ声とな……マジか……。その日、ちょっとしたカルチャーショックを受けたのだった。

 あのとき腑に落ちなかった体験は、日本人の女性の声の高さを述べた記事を読んだとき、妙な納得感をもって思い返された。国際基準で考えてしまえば、その結果は頷けるものであったのだ。

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 ところで、セックスや性の知識は誰かから、特に何かを深く教わることもなく習得してきた。おしべ、めしべ程度の保健体育の授業では、男女の身体の事細かいメカニズムや生理現象にはあまり触れなかったりする。教師の意識なのか、受講側である生徒の恥ずかしさのせいなのか、表面をなぞるだけのような、曖昧な授業内容であった記憶がある。

「俺は加藤鷹のAVを観てゴールドフィンガーになるべく必死に勉強したんだ!」と豪語する殿方や、「無料エロ動画が性の指南本です(ていうか、それを観とけばどうにかなります)」「ネットで調べればいいんじゃね?」と思っている人もいるかもしれないけれど、まぁそれはそうとして。

 逐一、AVの再生画面を止めながら、若しくは本を見開いたり、ネットの文字を目で追いながら、「えっと、性器を挿入するときは……達するときは……」と、棚を組み立てるときみたいに、一つ一つの作業をするにあたって説明書をみたり、確認をしたりすることはあまりないのではないか。きっとこうなんじゃないか。こうしたらいいんじゃないか。束の間に急激に襲ってきた勘に身を委ね、なんとなく動いていたらそれらしい形に収まってきた……という状況は、言い換えれば、「教習所には通ってないけど運転できる状態」でもあったりして、よくよく考えればなんとも不思議に思う。

 生まれた瞬間に産声をあげることだって、息を吸って吐き出すことだって、母や父から教わったわけでもなく、自然と“生物として”私たちは機能させてきた。これとは似て非なることかもしれないが、例えば、複雑に見える人間関係の構築の仕方だって、教習所で学ぶことはなかったけれど、その場の雰囲気や空気を読み取りながら、自然と“学び得たこと”だったりするのではなかろうか。

「声」もそうで、誰かに「外では声を高くしないとだめだよ」と言われたわけでも教えられたわけでもないのに、社交辞令や普段の大人の振る舞いを眺めているうちに、その国民性がナチュラルに叩き込まれてしまっている。声を高くして話すことが「オンオフの切り替え」としてまかり通っているうちに、私という人間も、思いっきり背伸びをしたような声が無意識のうちに発せられるようになった。

 外と家での喋り方の切り替えは、敬語を使うか使わないかの差が男女問わずに絶対的にはあるものの、ちょっとだけヘリウムガスを吸ったような声色の出し方については、女性の方が機敏に対応しているようにも感じる。

「あ、ちょっと電話が…(切り替え)モシモシ~↑↑!?」みたいなの……そうそう、あるじゃないですか。私の中だけでなく、母の中にも祖母の中にもあったはずだ。元来受け継がれてきた女の性の中にいつの間にか含まれてしまった、暗黙の了解案件に悩まされることは多い。

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 その具体例を挙げるに、声に関連して、下品な方向に舵を切らせてもらうことにする。それこそが、AV撮影で発する「喘ぎ声」問題だ。喘ぎ声、実はこれ、私の中でもプチ歴史があるのだ。

 プライベートでのセックスでもささやかな声しか出すことがなかった自分がいざAVデビューし、人に見せるセックスを披露するようになると、「うわ~マグロ~~もっと声出してほしかったな~」「次の作品で成長してなかったらもう買いません」と叩くレビューに遭遇して、変に打ちのめされたことがあった。参考資料(AV)を漁り、いざ他のベテラン枠のAV女優さんや売れている作品内での女優さんの喘ぎ声を聞いていると、甘ったるく撫でつけるような声や、子犬が叫ぶような黄色い声に溢れていて驚いた(これ、決してディスっているわけではなく……この声こそが良いものとして認識されてきた需要と歴史を、しかと身体に取り入れているプロの行為であると私は認識しています)。

 何より、女優さんが各々「思いっきり声を出している」ことが、驚きのMVPだった。

 へえー、こんなに声を出していいのか。そしてこんなに声を出すことが普通なのか……そんな洗礼は、スペインの時以上のカルチャーショックであり、夜な夜な発声練習をしてみたりして、“自分の出せる声はどこまでなのか”を探っていった。

 開放的に声を出したほうが良いということが分かると、そのあと私は、精いっぱい声を出すようになった。出川さん並みに「やばい」を連呼し、卑猥な言葉も述べられるようになったが、私にとっての開放的な喘ぎ声は、かわいらしさの欠片もない咆哮、つまり「浜辺に打ち上げられたトドのよう」に轟くものであった。適度に発すればエロく感じ取ってもらえるけれど、その咆哮を一貫すればドン引きされてしまう……ということもわかった。世間、厳しい。

 子犬、時々トド。一辺倒でなく、適度にナチュラルな声も含ませてみよう。抜きどころを探している殿方の股間を鷲掴みにする喘ぎ声の微調整は、相当に難しく苦戦した。

 これも意識しなければ、本来の「ささやかな喘ぎ声」は一生変わらなかったはずであろうに、人の批評に傷ついて、自分の個性が平均的なものへと調整されることで、「よくありがちな人」へと流れ着く。エロ屋七年目にして、なんだかつまらない女優になってしまったかなぁ、と我ながら思っている次第である。

 メイクは「ナチュラルな方がかわいい」と散々もてはやされて流行ったのに、声に関しては、ナチュラルなモノよりも作り込んだほうが好まれる傾向が強い。「俺は自然な話し方、自然な声が好きなんだ」と発言する人だって、その女性の「素の声」は実際には知らず、そして「自然な声を真似た意識的な声」であっても気が付かないのだ。どちらにせよ、ファンデーションを塗るように、ベースメイクというフィルター加工が声にかかってしまうのは、この地で気持ちよく生きるには自然な流れなのだから、誰かが否定すべきことではないのかもしれない。

 人が心地よく思える声、不快に思う声という種類があることも、国によっても人によってもその美徳は異なることも、正解がないことも事実である。けれど、その人らしさや個性が同調圧力に潰される必要も、平均という基準に足並みをそろえる必要もないと思っている。

 もし、もしだけど。FANZA(旧DMM.R18)レビューに、そんなあたたかい、優しいことを書いてくれるひとがいたら、間違いなく“働くおっぱい群”は全力で「いいね!」すると思う。(いいね!機能はついていないけれどさ…)。

 どなたか、よろしゅう頼みます。

バナーイラスト=スケラッコ

執筆者プロフィール
さくら・まな●1993年3月23日、千葉県生まれ。工業高等専門学校在学中の2012年にSODクリエイトの専属女優としてAVデビュー。15年にはスカパー! アダルト放送大賞で史上初の三冠を達成する。著書に瀬々敬久監督により映画化された初小説『最低。』、『凹凸』、エッセイ集『高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職』、スタイルブック『MANA』がある。

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