小川洋子が綴る「帝劇」の記憶――帝国劇場を舞台にした、唯一無二の物語集【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2026/3/5

劇場という名の星座
劇場という名の星座(Ⓒ小川洋子/集英社)

 皇居の内堀におよそ60年もの間、その姿を映してきた帝国劇場が再開発のため、しばしの眠りについてから1年が経とうとしている。

 1966年に開場し、350を超える演目の舞台を届けてきたその劇場に足を運んだ日の記憶を大切に抱いている人、憧れ続けていたけれど、とうとう行く機会を得なかった人……。
ロビー正面の階段にある電灯装飾“熨斗”、ステンドグラス“律動”、そして舞台――。多くの人々の記憶に刻まれている帝国劇場を舞台にした小説集『劇場という名の星座』(小川洋子/集英社)は、星屑のように散らばるそんな人々の思いと、もう二度と見ることのできないその場所、そこに堆積してきたものを柔らかな物語で繋いでくれる。

 2022年に刊行された舞台にまつわる小説集『掌に眠る舞台』からも読みとることができるように、著者の小川洋子さんは大の舞台好き、ミュージカル好き。帝国劇場の記憶を未来へと繋ぐ本作は、舞台上でスポットライトを浴びる俳優、外からではけっしてわからない舞台を支える裏方をはじめ、様々な関係者への詳細な取材から生まれたという。

 父の遺品から出てきたミュージカル、森繫久彌主演『屋根の上のヴァイオリン弾き』のパンフレット。ページから滑り落ちてきたチケットには1978年12月17日の公演の座席番号が記されていた。だが娘は、盲目であった父が舞台を観に行った姿を想像することができなかった。一緒に挟まれていたのは、帝国劇場案内係からの手紙。冒頭の一編「ホタルさんへの手紙」は、十日前に父を亡くした娘と1800以上ある座席にお客様を案内する新人の二人にスポットライトを当てながら、そこに存在したささやかで慈愛に満ちた交流を描き出していく。

“劇場というところは思いも寄らない仕事に従事している人間が、大勢集まっている場所です”ということが詳らかにされていく8編の物語。その芯にあるのは、帝国劇場で働く人々が抱いている誇り。それはけっして客席からは見えることがない、というよりも、その人たちが見せようとはしない、自分だけが持つ光を封じ込めた影の部分。誰かにとっての特別な一日を支える案内係や売店スタッフ、裏側で上演を支えるエレベーター係、通訳、“稽古ピアノさん”……。そんな人々が物語のなかに登場してくるとき、ページをめくる音すら立ててはいけないような、ひそやかで清々しい緊張感に包まれる。

 俳優やスタッフが劇場に到着したことを、木片をひっくり返し、色で示す“着到板”。その名前を書くことが仕事のひとつである幕内係を描いた一編「スプリングゲイト」では、“特に慎重に、深呼吸をしてから作業に取り掛かるのは、死ぬ役を演じる役者の着到板だった”という彼の思いが抽出される。それは『ミス・サイゴン』のキム役に抜擢された新人女優に、けっして心遣いとは気づかれない温度で注がれていく。

 まるで何事もなかったかのように、けれどいつの間にか何かが変わっている。小川洋子さんがいつも作品に潜ませる、魔法のような瞬間は、帝国劇場という舞台のあちらこちらで、様々な景色を見せてくれる。舞台袖、楽屋食堂、馬小屋……と自在に歩き回り、限られた人にしか気づかれない少年を描いた「内緒の少年」、劇場ロビーに一脚あるという“幸運の椅子”を知るのは売店で働くたった一人の“担当さん”だけ。代々受け継いできたその伝説と、椅子に座った人々のもとに訪れる幸運が綴られる「こちらへ、お座り下さい」……。

 そして作中には、『ラ・マンチャの男』『ローマの休日』『レ・ミゼラブル』をはじめ、劇場で上演された実在の演目が次々と登場してくる。

 自分の世話を必要とする者たちが去り、空洞を抱えていた薬剤師の女性が、ひたすら見守るべき相手として見つけた“プリンス”と呼ぶ俳優。

“今回はどうしても見逃せないわけがあった。『モーツァルト!』は、プリンスが初めて主役として帝劇の舞台に立った演目であり、十二年にわたり五回つとめたモーツァルトの役を、卒業する公演なのだった”。

 その舞台当日が描かれる「一枚の未来を手にする」は、チケットが取れず、それでもその場所にいたくて、夜行バスでやってきた少女、見知らぬ紳士からチケットを譲られた若者という様々な観客の視点から、きっと一生、忘れられないであろう、それぞれの一日が描かれていく。

“そこで時を過ごした人々の記憶が地層となって積み重なり、揺るぎのない威厳を放っている。地層につながる、たった一枚のガラス扉を入るだけで、一面に敷き詰められた絨毯の古代紫に視界が包まれる。その瞬間が、現世との境を踏み越えた証になる”。

 冒頭に著されたその一文はきっと、小川洋子さんから読者へと手渡されるチケット。それは在りし日の、あの帝国劇場へと続いている。

「SPICE」特集・帝国劇場 小川洋子 著「劇場という名の星座」出版記念」
 こちらもぜひ併せて読んでほしい。

文=河村道子

あわせて読みたい

劇場という名の星座