徳川家康が信頼した“インテリ”とは? 天下分け目の戦いを予測した知恵者の存在/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか②

文芸・カルチャー

公開日:2026/2/28

戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(河合敦/ポプラ社)第2回【全7回】

戦うだけが仕事じゃない! 戦国武将も、現代人と同じ悩みを抱えていた。武田信玄は浮気を弁解、織田信長は正倉院の宝物である香木を切り取り、伊達政宗は恋に泣き、高山右近は地位よりも信仰を優先し、茶の湯で政治を操り、南蛮料理に夢中になり、人身売買で財力を築く。戦場以上に熱い、濃厚なドラマを暴く。戦国武将の仕事からオフタイムまで、知られざる素顔をのぞく1冊、ぜひお楽しみください!

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『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』
『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(河合敦/ポプラ社)

知恵で成り上がった戦国武将

徳川家康の信用を勝ち取る

 戦国武将は、戦上手ばかりが主君(大名)に重宝されたわけではない。頭脳で重用された者もいる。そうした〝智将〞がどのような仕事をしていたのか、具体的に徳川家康の寵臣・本多正信を例にとって紹介していこう。

 若い頃の正信は、じつは主君の家康を一度裏切っている。永禄六年(一五六三)に家康の領国(三河国)で一向一揆が起こったとき、一向宗( 浄土真宗)の信者だった正信は、一揆方の参謀として家康に弓を引いたのだ。このため一揆が平定されると、三河から加賀へ逃亡せざるを得なくなった。しかし、まもなくして赦され、徳川家に戻った。家康が関東に移ると民政を担う代官となり、一万石を与えられて大名になった。この頃から家康に大いに信頼されるようになる。

 大名家で力を発揮するには、同僚よりも主君に信頼されなくてはならない。ではなぜ正信は、家康の信頼を勝ち得たのか。おそらくそれは、正信に備わっていた冴え渡る智謀だと思う。一つ具体例を紹介しよう。

 豊臣秀吉が没すると、豊臣政権の五奉行だった石田三成は、自分を恨んでいた七人の武将に襲撃された。このとき家康は三成と対立していたが、三成が中国の毛利家を通じて家康に助けを求めてきたので仕方なく仲介の労を取ってやり、奉行職を辞して佐和山城(三成の居城。滋賀県彦根市)に蟄居させることで事態の収拾を図った。

 ところが、「三成が佐和山城へ戻る途中、敵対する七将が待ち伏せしている」という情報が家康の耳に入ってきた。そこで家康は側近の正信を呼んで、どうするべきかを尋ねた。

 正信は、「あなたに天下を献上してくれるのは三成です。なのに、彼が滅んでしまうと困ります。いまは、主君の豊臣秀頼に背いてまで徳川になびく大名は多くありません。三成は、他人に屈することができない性格。近いうちに必ずあなたに対して兵を挙げるはず。だから生かしておいて、逆らったときに徹底的に武力で叩き潰せば、諸大名は恐れをなして皆、徳川に服属するでしょう」と献策した。家康はその言葉に納得し、次男の結城秀康を三成の護衛として差し向け、佐和山城へ無事に送り届けた。案の定、翌年に三成は挙兵し、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こり、勝利した家康が天下を手にしたのである。

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