“独眼竜”伊達政宗は熱心な教育パパだった…! 父親としての素顔とは/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか③
更新日:2026/3/3
『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(河合敦/ポプラ社)第3回【全7回】
戦うだけが仕事じゃない! 戦国武将も、現代人と同じ悩みを抱えていた。武田信玄は浮気を弁解、織田信長は正倉院の宝物である香木を切り取り、伊達政宗は恋に泣き、高山右近は地位よりも信仰を優先し、茶の湯で政治を操り、南蛮料理に夢中になり、人身売買で財力を築く。戦場以上に熱い、濃厚なドラマを暴く。戦国武将の仕事からオフタイムまで、知られざる素顔をのぞく1冊、ぜひお楽しみください!

子供の非行に悩んだ伊達政宗
一人息子を人質に差し出す
伊達秀宗は、政宗にとっては待望の長男であった。ただ、秀宗は正室・愛姫の子ではなく母は側室だった。愛姫は男児に恵まれず、庶子の秀宗が政宗の後継者となった。
文禄三年(一五九四)、秀宗は政宗に伴われ豊臣秀吉に謁見した。主君に息子を対面させるというのは、嫡男であることを正式に主君が承認することを意味していた。
なお、このとき政宗は、一人息子にもかかわらず、「秀宗をお預けしますので育ててください」と秀吉に頼んだ。つまり、人質に差し出したということになる。
翌年、秀吉は甥で関白の秀次を謀反の疑いで切腹させた。このとき、秀次と親しかった政宗も処罰し、家督を秀宗に譲らせようとしたという。徳川家康の取りなしで事なきを得たが、あやうく引退させられるところだったのだ。
秀吉はやがて、秀宗を元服させて猶子とし、「秀」の一字を与えて、我が子・秀頼の側近に育てようとしただろう。そのまま何もなければ、豊臣政権下で秀宗は仙台藩二代藩主となり、秀頼を支える重鎮になったはず。ところが慶長三年(一五九八)に秀吉が没してしまい、さらに翌年、政宗と正室の愛姫の間に忠宗が誕生したのである。結婚してから二十年以上たっており、おそらく政宗にとって思いもしない出来事だったろう。
伊達政宗は教育パパ
伊達忠宗が無事に成長するかどうかわからないので、秀宗の嫡男の地位がすぐに揺らいだわけではないが、微妙な立場になったのは確かであった。
翌年の関ヶ原の戦いの直前、大坂城にいた十歳の秀宗は、西軍に身柄を拘束され宇喜多秀家に預けられたが、戦いのあとに解放された。慶長七年(一六〇二)、秀宗は伏見城(京都市伏見区)で徳川家康に謁見し、そのまま人質として江戸城へ入った。
政宗は、秀宗の傅役・大和田忠清に「十一箇条の掟書」を与えたが、これは秀宗の教育方針が書かれたもの。
「手習い・読み物を不断に指南せよ、外出は月に一度ほどとせよ、鷹狩りは無用にせよ、鉄砲は無用にせよ、花火も無用、見物に出ること無用、大酒は堅く停止する、安易に人と親しくなってはいけない」(宇神幸男著『シリーズ藩物語 宇和島藩』現代書館)
政宗の教育パパぶりがわかる。さらに政宗は、有能な家臣十五人と側近二十九人を秀宗につけた。そして慶長十三年(一六〇八)には、家康の命で秀宗は徳川の重臣・井伊直政の娘・亀姫を正室に迎えた。
さて、一方の忠宗は無事に成長し、慶長十六年(一六一一)には江戸城で元服、将軍・秀忠から「忠」の一字を賜った(それまでの幼名は虎菊丸)。この段階で十一歳の忠宗が政宗の跡継ぎとなり、秀宗は嫡男の地位から転落したのである。側室の子とはいえ、むごい措置であった。
政宗は大坂冬の陣に秀宗を伴い、戦う前に家康の重臣・本多正純に「秀宗は秀吉の猶子なので跡継ぎにできないため、私が軍功をあげたら彼を大名にしてほしい」と要求した。政宗が強気に出たのには訳があった。関ヶ原の戦い前、政宗は家康から〝百万石のお墨付き〞をもらい、会津の上杉景勝が徳川の領地を攻めるのを東北で防いだ。ところが家康は戦後、その約束を守らなかった。だからその代償として、秀宗の大名取り立てを願ったというわけだ。
そこで家康は慶長十九年(一六一四)、秀宗に伊予宇和島(愛媛県宇和島市)十万石を与え、しかも国持大名の家格(一国を有する大名の格式)を認めたのである。
