“独眼竜”伊達政宗は熱心な教育パパだった…! 父親としての素顔とは/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか③

文芸・カルチャー

更新日:2026/3/3

教育パパ政宗・五箇条の訓戒

 翌慶長二十年(一六一五)、伊達政宗は有能な家来(俗に五十七騎と称する)を長男の秀宗に付随させ、伊予の板島丸串城(宇和島城)へ入れた。

 このおり、教育パパの政宗は秀宗に五箇条の訓戒を与えている。

「一、 両御所(家康、秀忠)に筋道を通すことはもちろん、そのことを決して忘れてはならない。
 二、家臣を大切にするよう。但し、罪は決して許してはいけない。
 三、常に弓矢(武芸)を心がけるのはいうまでもない。
 四、学問のことは口頭で伝える。碁や将棋(などの教養)のことも。
 五、家臣を思いやり、その心を聞き分けること。」(前掲書)

 ただ、本来なら自分が仙台六十二万石の当主になれるはずだったので、宇和島行きは、二十六歳の秀宗にとって不本意だったかもしれない。

息子を勘当する

 宇和島入りの際、伊達秀宗は、準備金として父の政宗から六万両(異説あり)を借りたが、これを返済しようとしなかった。重臣たちも、親子なので金を返す必要はないとか、長期で返済すればよいと考える者も多かった。

 だが家老の山家清兵衛公頼は、宇和島十万石のうち三万石を政宗の隠居料として返済にあてるべきだと主張した。清兵衛は生真面目で政宗の信頼が厚く、秀宗に浪費を諫言したり、政宗に秀宗の行動を報告したりしたので、秀宗は清兵衛を煙たがった。

 そんな清兵衛が元和六年(一六二〇)六月三十日に家族もろとも屋敷で惨殺された。事件の真相は闇の中だが、大坂城の石垣工事をめぐって清兵衛と揉めた桜田元親(玄蕃)の手の者が犯人だったという。だが、玄蕃は処分されなかったので、どうやら清兵衛殺しは怨恨による犯行ではなく、主君・秀宗の上意討ち(主君の命によって罪人を討つこと)だったようだ。しかも秀宗は、この騒動を政宗や幕府に一切報告しなかった。

 このことを政宗が知ると、秀宗の重臣・桑折(石母田)景頼に難詰の手紙を送り、秀宗に勘当を申し渡した。さらには幕府に「宇和島十万石を支配する器量はないので、秀宗から領地を召し上げてほしい」と願い出たのだ。

 幕閣たちは仰天し、老中の土井利勝や秀宗の義父・井伊直孝は、逆に政宗をなだめるほどだった。こうしたこともあり、秀宗は幕府にお咎めを受けず、政宗も勘当処分を解いた。一説には、政宗が激怒して幕府にねじ込んだのは、秀宗の失態を不問に付すための演技ではなかったのか、という説もある。策士の政宗ならやりかねない。

仲良くなった親子

 晩年の伊達政宗・秀宗父子は、たいへん仲が良かったという。寛永七年(一六三〇)から寛永十年にかけてと推定される政宗の秀宗宛ての書状には、「私の秘蔵の香木『柴舟』と大切にしている茶入『小茄子』をお前にあげよう」と記されている。この「柴舟」と「小茄子」は現存している。

 余談だが、山家清兵衛公頼を殺害した桜田玄蕃をはじめ、関係者たちは次々と不慮の死を遂げ、天変地異や飢饉が宇和島の地を襲うようになった。秀宗も中風に倒れ、その長男・宗実は身体が弱く嗣子になれずに三十三歳で没し、二代藩主の期待がかかった次男・宗時も三十九歳で亡くなってしまった。

 続く変異に恐れおののいた秀宗は、承応二年(一六五三)、清兵衛を「和霊大明神」として祀る和霊神社を創建した。神社の祭りは「和霊大祭」と呼ばれ、いまも毎年盛大に挙行されている。

 政宗のような教育熱心な戦国武将は少なかったが、なかなか思ったように子が育ってくれないケースは多かった。

 いつの時代も子供の教育は難しいものだ。だから我が子を名僧に委ねて育てるのが一般的だった。代表的な例として、伊達政宗と虎哉宗乙、上杉謙信と天室光育、今川義元と太原雪斎などがいる。

<第4回に続く>

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