美輪明宏「あのとき一度死んだ命だから」御年90歳、波瀾万丈な人生から導き出した“幸福論”『幸せの大盤振る舞い』
公開日:2026/3/24

「波瀾万丈の人生を送っている私ですら、こんなふうに強く生きていけるんですよ」と語るのは、歌手や俳優、タレントとして70年以上のキャリアを積み重ねてきた美輪明宏。その人生から学んだ“幸福論”をまとめた『幸せの大盤振る舞い』(中央公論新社)が、2026年3月24日(火)に発売された。
絢爛な衣装や神秘的なオーラ……。そうしたイメージが強烈なせいか、美輪明宏を「華やかな芸能人」と見ている人は多いだろう。しかし、その人生はむしろ苦難の連続だった。2歳の時に実母を失い、9歳で継母とも死別。父親は結核に倒れ、10代のうちから家族8人の生活を支える責任を負っていた。
だが仕事はなく、収入もない。おまけに株で騙されるなど、常に金銭的な苦労を強いられながら16歳で歌手デビューを果たす。何があってもステージに立ち続け、大ヒット曲「ヨイトマケの唄」や舞台「毛皮のマリー」で時代を揺さぶってきた。2025年に迎えた90歳は、まさしく七転び八起きの末に到達した節目なのだ。
その節目に送り出したのが、今回の『幸せの大盤振る舞い』。同書には最近までのインタビュー記事に加え、20代以降の対談・随筆・手記が余すところなく収録されている。23歳で「丸山明宏」と名乗っていた頃の言葉から90歳の現在まで、これまでの軌跡を一本の線として読み通せる構成だ。
たとえば第1章に収録された1994年(59歳)のインタビューでは、美輪明宏の“強さ”がうかがえるエピソードが語られている。当時、難病指定の「びまん性汎細気管支炎」を患い、100メートル先の美容院に行くだけで、途中3回も立ち止まらざるを得ない状態だった。
それでもステージでは、1曲12分のシャンソンを細かく刻み、咳き込む隙を悟られないよう歌い切っていたという。6箇所の病院を経てようやく治癒が叶った際、担当医からは「寝ているのが当たり前で、ステージで歌っていたなんて信じられない」と驚かれたそうだ。
そんな明日をも知れぬ命を、なぜ今日まで燃やし続けられたのか。その背景には「焼け野原からの出発」が大きく関わっていた。
美輪明宏は10歳の時に長崎で被爆。友人を失い、故郷も焼け野原になった。何もないところから再び出発した経験があるため、「あのころにくらべれば平気」という思いが心のどこかに残っているのだと語る。作中の「あのとき一度死んだ命だから、『いまはおまけだ』という気持ちがある。そう思っているから、開き直りがあって強いのかもしれません」という言葉からは、字面以上の重みと力が感じられるはず。
ほかにも、1958年に行われた随筆家・幸田文氏との対談「こんなひと」や、1966年に寄稿した作家・三島由紀夫との親交をもとにした随筆「素顔の三島由紀夫氏」など、資料的価値のある読み物が贅沢に収録されている。そして驚くべきことに、今と昔の言葉に込められた信念にはほとんど差がない。その一貫性こそが説得力の根源であり、同書における最大の魅力とも言える。
90年の人生で蓄積され、熟成を重ねた美輪明宏の幸福論が詰まった『幸せの大盤振る舞い』。幸せが見つけづらくなった今の時代だからこそ、愛と真実を語り続けてきた“麗人”の言葉に触れてみてはいかがだろうか。
