【東山彰良最新作】「憶えてないだろうけど、あんたのママだよ」ロックンロールな母とのサイドカーの旅が、少年の人生をずっと支配する【書評】
PR 公開日:2026/3/26

「憶(おぼ)えてないだろうけど、あんたのママだよ」
祖父母と父親、たまにたずねてくる叔父と何不自由なく暮らしてきた少年は、10歳のある日、小学校の校門で女性にこう声をかけられた。少年の名は、久保田炳児(ペイジ)。変わった名前の由来は、レッド・ツェッペリンのギタリスト「ジミー・ペイジ」から来たもので、「ジミ・ヘンドリックス」も候補だったらしい。声をかけてきた女性は、肩くらいまでの髪で、ブルージーンズにゴム長みたいな黒いブーツ。黒いTシャツを着たその体つきはほっそりしていて、マンガみたいなごっついゴーグルを首にかけていた。そして、その女性がもたれかかっていたのは、小舟のような側車がくっついた妙ちくりんなオートバイ。女性はペイジをサイドカーとよばれるそのバイクに乗せて2日間の旅に連れ出す。――ああ、なんて鮮烈な旅なのか。ただ、ペイジはあとから知ることになる。この時、彼女が末期癌に冒されていたということを。この旅がふたりの最初で最後の時間になることを。
『ママがロックンロールしてたころ』(東山彰良/集英社)は、そんな「ママ」との旅の記憶を反芻しながら大人になっていく少年の物語。『流』で直木賞、『僕が殺した人と僕を殺した人』で織田作之助賞、読売文学賞小説賞、渡辺淳一文学賞をトリプル受賞した、東山彰良による傑作だ。
本をひらけば私たちは、どこかメランコリックでアンニュイな空気にたちまち飲み込まれてしまう。突然現れた母親との時間。その記憶はあまりにも強烈で、ペイジだけでなく、読む者の心をも揺さぶる。たとえば「なんで僕たちを捨てて出ていったの?」というペイジの問いに対する、母親の「子供を持つのって値段を知らずに買い物をするようなものなの」という答え。たとえば、浜辺で見つけた瀕死のカラスに何もできないことに感じたペイジの罪悪感と、母親が使った「欺瞞」という言葉。母親の言葉は決してやさしいものではない。むしろ、ときに身勝手で、残酷で、きれいごとでは済まない。だからこそ、そのひと言ひと言が、胸に鋭く突き刺さる。
母親と会った頃、ペイジはロックバンドを組む父親の影響で「天才ギター少年」と周囲からもてはやされていた。その後、彼は青年になり、やがて、夢破れたただの大人になる。人生はどこまでも長い。それでもペイジは、ロックンロールな母親と過ごしたわずか2日間のことを何度も思い返す。どういうわけか、とりわけ愛について考えるとき、「あの人」のことが頭をよぎる。母親との旅を家族に報告したとき、「あいつはポリアモリーなんだ」と漏らした父親。「同時に何人もの人を深く好きになること」を意味するその言葉に、叔父は食ってかかった。「そんなラテン語っぽい名前をつけりゃなんでもまかりとおると思ったら大間違いだからな。だいたい世界のすべてが愛なら、それは愛なんかどこにもねえってことだろうが」——ペイジは叔父の言葉に混乱するが、次第にその意味を理解する。「愛を語るのは、いつだって愛が欠如してるやつらなんだ」。愛という言葉はなんて便利なんだろう。「愛が故」といえば、なんでも愛のせいにできる。人間はいつまでそんなものにふりまわされつづけるのだろう。そういえば「あの人」は愛を言い訳にはしなかった。ペイジがそう考えを巡らすたびに、読み手もハッと息を飲むのだ。
読み終えたあとも、頭の中に、切ない音が鳴り響く。それは、ときにペイジや父親のギターの音色のようでもあり、ときにレコード盤の片面が終わり、針が最後の溝を引っかくやるせないノイズのようでもある。その余韻に耳を澄ませながら、私たちは答えのない問いと向き合わざるを得なくなる。愛とは。生きるとは。死ぬとは。セックスとは。ロックンロールとは。たった2日の母との旅が、その後の人生をずっと支配する。そんな痛みを描いたこの物語は、愛とは何か、簡単な言葉で片付けたくない人、まだうまくわからない人にこそ、読んでほしい。
文=アサトーミナミ
