【又吉直樹インタビュー】同期の芸人・西野亮廣を語る/二人の出会いから新作映画『えんとつ町のプペル』まで【芸人論と創作論:後編】
公開日:2026/4/29

1980年に生まれ1999年に吉本興業の養成所NSCに入所しトップ芸人に昇りつめ、芸能とは異なる世界でも結果を出し続ける二人、又吉直樹と西野亮廣。近いようで遠く、遠いようで近い不思議な距離感で生きる二人が7年ぶりに交わったのは、この3月半ばのこと。又吉の新作小説『生きとるわ』と西野の新作映画『映画 えんとつ町のプペル 約束の時計台~』のプロモーションを兼ねた動画撮影が行われたのだ。会わなくても互いの活動に注目し合い振り返れば同じような傷を背負っていた二人が、楽しくも感傷的な時間を共有した数週間後。西野の新作映画を観てきたばかりという又吉が、「同期の西野くんのこと」を語ってくれた。後編は、西野と又吉の相違点と共通点、そして『映画 えんとつ町のプペル ~約束の時計台~』の感想とそこから広がる物語論など。
西野くんの、優秀だからこその苦悩にようやくみんなが共感してきた
――お二人の対談動画のタイトル(炎上する人しない人・2つの肩書を持つ2人の悩み)ではないですけど、一見、真逆に見えるお二人なのに共通点も多い印象もあるんです。
又吉:世の中の、「こういうことになってますよね」っていう雰囲気で決まっているものを疑うっていうところでしょうね。こっちのやり方のほうがいいんちゃうかなとか、これって無駄なんじゃないかなとか、もっとこうしたいとか。そういうふうに考えてしまう傾向があるっていうところはすごい共通してますよね。そして僕はそれに対する表現にブレがあるのかな、西野くんより、と思うんです。僕は暴論を言ってしまうときがあるんです。西野くんは常識とか世の中の流行というものを疑いつつも、アレンジとかカウンターみたいなものを常識の範疇に収まる形で共感度高くやれている印象があるんです。僕は結構間違える。
――でも炎上するのは西野さんで、炎上しにくいのは又吉さんっていうのは何とも皮肉ですね(笑)。
又吉:それについては、先日の対談の後に考えたんです。めっちゃ大きい視点で言ったら、西野くんが炎上してるのは単純に注目されてるからやと思うんですよね。注目されると、それだけいわゆるアンチというか、「私はそうは思わない」という層にも届いてしまうから。自分のことを好きなお客さんしかいない劇場の中では何を言ってもアンチの湧きようがないじゃないですか。でも対象の規模が大きくなるほど、アンチは増えていくわけですよ。西野くんと僕が大きく異なるのは、まずそこ。
もう一つは、西野くんは自分の考えに対して誠実というか、ちゃんと思っていることを言う。そして、世の中に浸透するまでの時間とか、どれぐらいの人に共感されるかとか、そういうことは後回しにして、まず言う。僕はあえてなんじゃないかなと思うんですけどね。「最初に言った」ということを重要視しているんだろうし、僕もそれに価値がそもそもあると思います。でも、最初に言うことによって賞賛もあるけど、そういう誹謗も同時に付きまとうっていう。でも非難や誹謗中傷以上のメリットみたいなものがあるとは思うんですよね。
――それを認識しつつ、でも又吉さんは口を閉ざすんですね。
又吉:何やろな……。僕は極論を言ったら、面白い作品を作りたいという欲求のほうが大きいんですよね。だからできるだけ作品以外では波風を立てたくないんだと思います。僕の選択がいいと思っているわけでもないんですが。対談で西野くんに言ったんですけど、西野くんと同じようなことを僕も思う。でもそれを言ったら嫌な気分になる人もおるやろな、じゃあ我慢しよう、そう思っていたら西野くんが言って叩かれてる(笑)。それで、「やっぱこういうふうになるんや」って思うことが結構ありますね。
――西野さんは日ごろの発言や行動など生きざま全てを作品と捉えていて、又吉さんは作品を又吉さんご自身より上位に置いている、そんなイメージですかね。
又吉:自分がこれからやろうとしているジャンルに対しての接し方、って言えるのかもしれませんね。正解のない話ですけど、僕は小説を書くときに、他の作家に対する尊敬の念がめっちゃ強いんです。だから、「僕が書いていいのか」ということをまず考えて、書くとなったら「全力を尽くさなあかん」と思うわけです。そのカルチャーというかジャンルが築き上げてきたものからうまみだけをもらうのはダメだと思っていて、僕が小説を書くならば、文芸の世界に税金のようなものを納めなあかんと思っているわけです。だから、芥川賞をいただいたときに、自分もどこかで一回は選考委員をやらなあかんと思いましたし、実際やりました。
――芥川賞の授賞式でも、笑いには走りませんでしたしね。
又吉:若手の頃、ライブで先輩に注意されたことがあるんです。おまえ、一言目から変なことばかり言って頭のおかしいとヤツだと思われてるぞ、って。ちゃんと最初に挨拶して、「普通の考えも持ってますよ」って見せた後にふざけたらもっとウケるからってことなんですけど、変なことを言ってるほうが楽なんですよ。楽なんですけど、芥川賞の受賞式でそれをしたら、めっちゃ汚されたと思う人もおるやろな、僕らの仕事はふざけることやけど、そこはふざけないでいいと思ったんです。なぜなら僕は芥川賞は旅館の一室やと思っているから。
――旅館の一室ですか?
又吉:今日のゲストは僕、だからこの部屋に泊めてもらいますけど、ありがとうございますって感謝して来たときより綺麗にして帰る。そうやって旅館の部屋を守る、そういうことです。その壁に落書きしたり花火するとか、なんぼでも思いつくしやれますけど、そんなことしたとて誰のためにもならんし、次の人のことを考えたら、ね。
――又吉さんらしい筋の通し方というか、誠実な方だなと思います。
又吉:ただね、あれから10年経って、気にしすぎていたかなと後悔している(笑)。もっと自分の感じでやってりゃよかった、礼儀を尽くしすぎたかもなって。礼儀正しくやってんのによそ者扱いされるし、お土産をあげた割に優遇されへんかった(笑)。だけど基本的に僕は、自分が活動しようとする場所でどういう影響があるかとか、みんなが楽しく過ごせたらいいなということは常に考えているので、「ありがとうございます、よろしくお願いします」ということは伝えたいんです。だから面白みがないんですよ、僕のスタンスには。僕は面白い作品ができたらそれをフィルターなしで見てもらいたいというのがあるから、ちゃんとはしている。でも芸人的ではないんです。
――西野さんは芸人的、という解釈なんですね。
又吉:西野くんは絵本でも映画でも、そのジャンルでNo.1になる、今までになかったことを達成するというようなことを言っていると思うんですね。それは脅威に感じられるし、よくは思われないですよね(笑)。そもそもそのジャンルで活動していた人からすれば、めちゃくちゃ生意気な一年生が入ってきてしかも喧嘩も強いらしい、ということですから。上級生の番長たちはしばかれへんように警戒するじゃないですか。その人たちをフォローしている人たちもみんな、「何やねん、あいつ」って。それはもう、僕みたいにちゃんと帽子をとって「お願いします」っていう、「お前かわいいな」ってなりやすいヤツとの差は大きいんじゃないかなって。
でも、それが西野くんの芸人らしさというか、あらゆる手段を講じてジャンル自体をちゃんと盛り上げていくというか、パフォーマンスとしてやっていると僕は思ってますけどね。
――西野さんにとっては、新規参入するジャンルで勝つ確率を上げるために、ひいてはそのジャンルがより注目を集められるように、という戦略なのかもしれないですね。
又吉:西野くんって多分モテてきたじゃないですか。見た目もよくて運動神経もよくて声もよくて、生徒会長もやってた。非の打ち所がない。自分に娘がおったとして、「彼氏できたから」って家に連れてきたのが西野くんやったら、嬉しいと思うんですよ。肝心な場所では礼儀正しくできるし明るいし。最高じゃないですか。それが僕だったら、「こいつなんやねん」って親はなりますよ。「めちゃくちゃ辛気臭いヤツが来たな」って。
でもね、西野くんみたいな万能な人がお笑いやるのって相当難しいですよ。普通に一般社会に出たとしても成功するようなあらゆる能力を持っている西野くんは、人に笑われるところがないんです。だからお笑いやるのはめっちゃ難しい。お笑いってね、一番低いとこにボールが転がってくるみたいなところがあるんです。だからみんなできるだけ深く潜ってボールが来るのを待つんですけど、それができないわけじゃないですか。にもかかわらずこれだけの結果を残してきたっていうのが、そもそもお笑いとして西野くんの能力がめちゃくちゃ高い証明ですよね。できないことがないというコンプレックスを持っていた若かりし日の西野くんが、こと笑いに関してはいろいろ考えてもできないことがあるということと向き合ったり、そうして若くして売れたにもかかわらずボロカス言われてきたり、そういう優秀だからこその苦悩にようやくみんなが共感してきたんですよ。「こいつには文句を言ってもいいやろ」だったのが、「こいつはこいつでめっちゃ文句を言われてんな」という空気になって初めてみんな気づいたんです。西野くんが一番底で待ち構えているって。これが僕はすごいなって思うんですね。これができる西野くんは、やっぱりめちゃくちゃ優秀な芸人やなって。
純粋であることを嘲笑するのがスタンダードになるような世界は僕は嫌なんです
――『映画 えんとつ町のプペル ~約束の時計台~』を観に行かれたそうですね。
又吉:面白かったですよ。
――又吉さんも脚本を書かれるわけですが、プロフェッショナルの視点から語るとどういう感想になるのでしょうか。
又吉:対談を前に前作(『映画 えんとつ町のプペル』)を観直したんです。前作はストレートですごくいい話だったと思うんですね。でも今作は1回観ただけでは完全に回収しきってはいないと思えるような、ちょっと複雑性が増した作品だと思うんです。それは明らかに西野くんは何かを意図してそうしているんだろうな、と。
――そもそもがルビッチという今を生きる少年と死んだお父さんの魂が宿ったプペルというゴミ人間が主人公の物語で、この世とあの世があるという前提で成立している時点で複雑ではありますもんね。
又吉:そうですね。なかなか表現が難しいですけど、あらゆるシーンが一本の筋では進行していないというか。僕が面白いと感じる作品って、めちゃくちゃわかりやすいものではなくて、「あそこ、なんやったんかな?」みたいな謎とか考える余地があるものだったりするんです。そういう「揺れ」みたいなものを感じられました。
これってね、「大きな作品にしよう」っていう西野くんをはじめ制作チームの足掻きなんだと思うんです。まさに先人の挑戦としては、スタジオジブリ作品がそうなんですが、あれを完全に理解するのは難しいじゃないですか。なぜかというと、ジブリ映画にはポエジーみたいなものがあるからやと僕は思うんです。「ようわからんけど、なんかわかる」というか、これを観ていると気持ちよくて気がついたら感動していた、みたいなシーンが連なっているんですよね。これって意味だけで作ってしまうと実現できないことなんですよ。今回のプペルには、そういう姿勢が前作よりかなり含まれてるのが、僕は好みでした。
――具体的なシーンは一つ挙げていただけますか?
又吉:100年間、想い人を待ち続ける時計職人の回想が現在と結びつくあたりで東野幸治さんが声優として登場されるあたりとかですかね。あの辺りは感情的に高まりましたけどね。
――確かに、あそこを含めそれ以降の展開は整合性や必然性を問うのか、そのまま受け入れるのかによって、観終わった後の感想が分かれそうですよね。でも、まっすぐな見せ場に又吉さんが胸を熱くされているのは意外でした。
又吉:動画でも少し西野くんと話したことなんですけど、僕はダメな奴とかイヤな奴を小説に書くんです。一方の西野くんは基本的には誠実な善人で物語を構成するんです。何を言いたいかというと、僕は一人の作家が世界の全てを描くことは不可能だと思っているということなんです。あらゆる作者があらゆる視点で物語を作った先に、ようやく世界が立体的に浮かび上がってくる、そう思っているんです。
――作家それぞれが独立してそれぞれの物語を書くのだけど、同時に共同作業で一つの世界を書いている、みたいなことでしょうか。又吉さんの物語はそれ一つとして成立しているけれど、世界という視点で見たときに、西野さんの物語もあって初めて成立するみたいな。
又吉:やっぱりね、物語というものは、善い人が頑張って善いことをして、最終的にうまくいって感動できないと駄目なんです。これが物語の基本なんですけど、みんな崩しすぎなんですよ。もちろん、崩す作家もいていいんです。でも全員が崩し始めたら、そこに待っているのはしんどい世界なんです。意地悪な見方をした作家がイケてるとか正しいということになってしまう、そんな変なことはないじゃないですか。やっぱり優しい人が偉いし、世の中に貢献した人が偉い。その大前提があった上で、だからといってそうじゃない奴らを取りこぼしたら駄目だよねっていうのがあるべき世界なんです。
――プペルに対する批判の一つが、世の中そんなもんじゃない、俺たちが現実に生きている社会はもっと複雑だ、というものですよね。
又吉:正しい人、優しい人なんて嘘くさいからダメと言い始めたら、全ての前提が崩れるんですよ。それはよくない。そこを担う西野くんが映画というものすごくお金がかかるジャンルで、しかも上映館数もものすごいという中で、素直で優しい人たちが描かれる作品を作りきったっていうのが、僕はすごくイケてるなって思うんです。人を疑いまくって、裏切りまくって、善い奴は一人もおらんかったみたいな小説を書いてる僕が言うのもなんなんですけど(苦笑)。だけどプペルのような作品があるから、僕の書く小説が成立するのであって。で、これって芸人としての西野くんと僕のバランスにもすごい似ていると思いませんか?
――まさに、それを言おうと思っていました。
又吉:明るくて大きな声で面白いことを言える奴がいるから、暗くてよくわからんことを小さい声で言う芸人がかろうじて成り立つ。このバランスは「明るい芸人7:暗い奴1:その中間2」くらいのグラデーションじゃないとダメなんです。この比率は物語においても同様だと僕は思うんですね。優しいこと、まっすぐなこと、純粋であることを嘲笑するのがスタンダードになるような世界は僕は嫌なんです。それは気持ち悪い世界やなと思う。まずはみんな、優しくて純粋な人や物語にちゃんと感動しようよって。まあ、誰が言うてんねん、という感じですけど(苦笑)。
――又吉さんが『生きとるわ』で描いたような「みんなにとって普通のことが難しい、できない人間だっている」という物語もとても優しいと思いますけど。ただ一方で、又吉のおっしゃる通り、優しくてポジティブなことを描いているエンターテインメントは過小評価されがちというか、よい作品とされるにはめちゃくちゃ高いハードルを課されている気はしますね。
又吉:そういう観賞の仕方は、僕は少し浅いかなと思うんです。そういう見方をする人が多いから、ちょっと屈折してるところを差し出して、「僕も皆さんと一緒ですよ」って見せるような作品のほうが共感を集められちゃうんですよね。うっすら悪意とかうっすらダメなところがありつつ、だけど根はいい奴だよね、こいつの信念は正しいよねっていう登場人物がより多くの共感を集められる。そんなことは重々承知した上で、西野くんはまっすぐに描いているんだと思いますよ。まっすぐな人、純粋な人、美しい魂みたいな……そういうものを表現するのって、作り手からすると難しいんです。それで面白くするのはめちゃくちゃ難しい。僕はプペルを観て、ちゃんと面白い作品になっていたからすごいなと思いました。
――対談の動画で又吉さんは「めっちゃちゃんとしている人で面白い話を書いてみたいな」とおっしゃってましたね。
又吉:もしかしたら楽してるのはこっちなんかな、みたいなことをふと思ったんです。ダメな奴、イヤな奴を書くっていうのはもしかしたらやりやすいことで、善い人で面白くするのはめっちゃムズイんちゃうかなっていう。
――それは難しいですよね。作者それぞれの見ている世界、個性もありますもんね。ところでプペルを観られて、「僕だったらこう描くな」と思うような箇所はありましたか?
又吉:勇気ある構造でしたよね。回想が入って物語の中の物語みたいになっていて、そこが好きでしたけどね。……もしかしたら僕の化身みたいな、ちょっとイヤな角度で物事を考える奴を入れるかもしれないですね。そいつがどういうキャラクターか全然思いついてないですが、前半から面白かったですけどあの大きな物語が後半のカタルシスを迎えるときに、僕の化身のような奴が感化されてそれまでと違う感情に一瞬でもなれる、ルビッチたちに引っ張られるみたいにするとか。
――レビューを読んでいると、エンディングに対する意見が多く見られました。そこに至る必然性みたいなことについてですね。
又吉:でも物語ですからね。あの結末もまた、物語にしかできないことなんですよ。僕はレビューの類は見ないので推測になってしまうのですが、きっと多くの人がリアリティを求めているんですよね? もうそういう作品はいっぱいあるじゃないですか。この物語の軸には、「誰かを待つ」ということがあるわけです。でも待つということは、イコール何もしない、ということではなくて「相手を信じ抜くことなんだ」という主張が西野くんにはある。信じ抜いた先には「何もなかった」「でも、これでよかった」というのも一つの答えです。でも、何か奇跡めいたことが起こるということが、「誰かを信じ抜く」ということの強度を高めるという物語もまた、一つの正解じゃないですか。後者がダメと言うなら、『桃太郎』にも、何で桃から子供が生まれてくんねん、ってツッコめよという屁理屈も通用してしまう。……まあ、僕も真っ当な感覚を持ってなくて、ずれまくっているのでね。でもね、すげえなと思いましたよ。なるほどなっていう。奇跡は起こっていいと思うんですけど。
――その設定を丸ごと受け入れる、というのは観客側に求められることかもしれないですね。納得するのが難しい場合は、その空白を想像で埋めるところまでが受け手側の裁量と言いますか。一方で観客側は「俺はスッキリと楽しみたくて2時間も使ってるんだ」ということも主張できますよね。
又吉:だから、もうわかんないです(笑)。ただね、今のお話を聞いて思い出したのは、僕が『劇場』という小説を書いたときのことなんです。恋愛話なんですけど、この二人が迎えるのは永遠の別れじゃないとならない、だから女の子は死ぬべきやみたいなことを言う人がいたんです。その結末もありなんですけど、誰もが思いつくものでもあるし、なんやろな……僕はそれを聞いて「品がないな」と思っちゃったんですよね。だからプペルもああいう終わり方でいいんじゃないかと僕は思うんですよ。何もしていないんじゃない、信じるということをしているんだ、っていうね。いいと思いますけどね。

