映画『さとこはいつも』監督・沖田修一の書き下ろし小説。耳鼻科で恋する中学生に、インスタでお弁当をアップする主婦――3人の「さとこ」の物語【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2026/8/21

さとこはいつも
さとこはいつも(沖田修一/文藝春秋)

 書かずにはいられない。そんな衝動に駆られることがままある。だが、昔に比べるとその衝動の強さと頻度は確実に減ってしまった。評価を得られるか否か。純粋な「書きたい」より、前者が勝るようになったのはいつからだったろう。

「南極料理人」「横道世之介」などで知られる映画監督の沖田修一氏が、監督デビュー20周年を迎える今年、書き下ろし小説を上梓した。『さとこはいつも』(文藝春秋)と題された本書は、同名映画を撮る中で“脚本には書き切れない「さとこ」たちの存在に気づいた”ことで生まれたと沖田氏は語る。

3人の「さとこ」、それぞれに書きたい物語がある

 本書は、章ごとに3名の「さとこ」が登場する。中学2年生の中井聡子は、かかりつけの耳鼻科で会った同級生の早瀬に恋をした。はじめての恋に戸惑うかたわら、風変わりな教師に作文を褒められ、定期的に教師が出すお題にそって作文を書くのが日課となる。

 35歳の西田沙都子は、映画配給会社で働いている。若手の頃は自身の主張を上司に真っ向からぶつける熱意があったが、経験を積むうちに無難で大衆受けするコピーを優先するようになった。仕事関係者との不倫をやめられず、そこはかとない寂しさを持て余し、姪っ子を熱烈にハグすることで心の隙間を埋めている。

 55歳の飯島里子は、20年にもおよぶ期間、毎朝3人の息子の弁当を作り続けた。だが、三男の最後の弁当を丹精込めて作った日の朝、家族は誰もそのことに気付かず、里子への労いはなかった。しかし、大学生になった三男の提案で、これまで作り続けた弁当の写真をネガティブな本音と共にインスタにアップすると、思いもよらぬ反応が巻き起こる。

 すべての「さとこ」に共通していえるのは、彼女たちに「書きたい物語がある」ということだ。それは、ごく個人的な思い出だったり、空想の世界だったり、唐突に終わった恋の話だったりした。彼女たちはあるきっかけを得て、取り憑かれたように書きはじめる。

“私のために書こう。
みんなのためは、もう飽きた。”

 自分のために書く。書きたいから書く。誰もがはじめはそうだったはずなのに、いつの間にか外側の目ばかりを気にしている。読者にどう思われるか、評価されるか、賞を取れるか、売り上げは見込めるか。仕事であれば、もちろんその視点を度外視はできないだろう。自己満足の作品で生き残れるほど、この世界は甘くない。かといって、実力があれば必ずしも花開くとも限らない。クオリティを凌駕する熱量に持っていかれる文章もあれば、熱量が先走りすぎて全体のバランスが狂ってしまうケースもある。いずれにしろ、書かなければ何もはじまらない。頭の中だけで作品を組み立てて悦に入るのは容易いが、実際に書き出してみると想像以上に途方もない道のりであることに気付く。言うは易く行うは難し、とはよく言ったものだ。

 中学生の聡子は、教師から「遺書」とのお題を出され、実際に書き出した際にこのような感情を抱いている。

“頭で想像したイメージと実際の文字とでは天と地ほどの違いがあり、なんだか本当に自分が死んでしまうような気がして、早くもそのページをちぎって捨てたくなった。”

 言葉は、実際に可視化した途端、ずしりと重みを増す。空想では思い通りに動かせていたはずのものが、まったく言うことを聞かなくなる。真剣に向き合えば向き合うほど、言葉は書き手を置き去りにして、勝手気ままに歩き出す。作品をつくる行為は、ひたすらに己との取っ組み合いだと日々感じる。

 いずれの「さとこ」も、書きはじめは羞恥心との戦いで、自分の文章にダメ出しをしながら悶絶する。だが、そこで立ち止まらず、「書きたい」欲求に従い、自分だけの物語を紡ぐ。周囲に「書いてみたら」と勧められた。長年の恋人と別れた。個人的なエピソードがバズった。きっかけはなんだっていい。書きはじめる人は、おそらく元々、その欲求を胸に秘めている。

 ゆるやかに連なる連作短編集の最後の一文に、思いがけず背中を押された。数年前、私が重い腰を上げて書きはじめたのも、里子と同じ“書斎”であった。臆病な自分は簡単には消えないし、評価を気にせず好き勝手書くのも、今のところ難しい。それでも、自分の中にある「書きたい」を見つめ直せた今、内側で蠢く感情は、いつもより少しだけ熱い。

文=碧月はる

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