日本のことはぜーんぶマンガが教えてくれた! 平成の(あと少しだけど)日出処の天子誕生! 【第1回『阿・吽』おかざき真里】

マンガ

更新日:2018/4/30

4月30日発売の最新号は「琳派って楽しい!」。これが本当に楽しいのなんのって!

■『和樂』は日本文化の入り口マガジン!

 ダ・ヴィンチニュースをお読みのみなさん、はじめまして。『和樂』という雑誌で編集長をしております、セバスチャン高木です。みなさん、『和樂』という雑誌はご存じですか。おそらく知らない方もたくさんいらっしゃると思いますので、少しだけ説明をさせていただきます。

『和樂』は奇数月の1日に発売している隔月刊の雑誌です。「日本文化の入り口マガジン」をキャッチフレーズに、大人気の伊藤若冲や葛飾北斎などの日本美術、すごーく高尚なイメージの茶の湯、ザ日本の伝統芸能と思われている歌舞伎、なんとなーく奥が深くて怖いイメージの京都などをテーマに、毎号、日本文化の魅力を楽しく美しく伝えようと日々精進しております。

 雑誌以外にもウェブメディアや商品開発など、いろんなところに手を出して(ほとんど返り討ちに遭うのですが)、日本文化の入り口づくりに邁進しています。詳しくは下記記事をぜひぜひご覧ください。自分が書いたわけではないのですが、あまりに素晴らしくまとまっていてさすがクラシコム!といつも感動しています。

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●バカバカしさだけが人々を熱狂させるコンテンツになる!
『和樂』編集長 高木史郎 ×「北欧、暮らしの道具店」代表 青木耕平 対談前編

2018年版『和樂』の媒体資料。2017年版を刷りすぎてしまったので毎日少しずつ自分で修正しています。「見通しが甘いでござる!」

■『和樂』の仕事もマンガで乗り切った!

 今でこそ「日本のことをよく知ってます!」みたいな顔をして闊歩している私ですが、15年前、『和樂』に異動してきた日々を思い出すと今でも涙がちょちょ切れます。だって、私を待ち構えていたのは、日本文化に精通したスタッフのお歴々。そして、取材先はといえば、これまた日本を代表する文化人の方々なんですよ。ふつうの大学を出て、たまたま出版社に入社した私がとても太刀打ちできるような方々ではありません。しかもその前はファッション誌にいたんですよ! これでも。

「こんなところでやっていける?」と不安を覚え、膝をがくがくさせていた私でしたが、これがなんと! 意外とやっていけたのです。専門分野を持つスタッフや文化人の方々が語る日本文化の話を知った顔でふんふんと相づちを打つ程度ですが、なんとかついていくことができたのですよ、これが!

 そして、それを支えてくれたのが、私が5歳の時から片時も離さずにいたマンガだったのです。

 手塚治虫先生の『ブッダ』、山岸凉子先生の『日出処の天子』、大和和紀先生の『あさきゆめみし』など、かつて愛読したマンガから学んだことがここにきて結実したのです。ありがとうマンガ! Viva Manga!

 あれ? これってどこかで聞いたような話ですよね。そう、数年前大ヒットして映画化された『ビリギャル』が歴史を学んだのと同じ手法です。私も彼女と同じように、マンガを読むうちに知らず知らずのうちに日本文化を大掴みしていたのです。『ビリギャル』ならぬ「ビリ男」もしくは「ビリ親父」ですね。

仏教のことはすべて『ブッダ』から学びました!

 兎にも角にも私がマンガから得たもの、それを少しでもみなさんにお裾分けできるのであれば、マンガと日本文化を愛する私にとって望外の喜びです。前振りが長くなって本当に恐縮ですが、そんなわけでコラムのタイトルを「日本のことはぜーんぶマンガが教えてくれた」にさせていただきました。

『阿・吽』おかざき真里

■平成の日出処の天子が誕生した!

 そして、記念すべき(自分で言うな!)その1回目は、今私が作品としても漫画家としても(さりげなく爆弾発言)もっとも敬愛する『月刊!スピリッツ』で連載中の最澄と空海の物語『阿・吽』(あ・うん)です。

 タイトルとなった阿吽とはサンスクリット語で、最初の字音である「ア」と最後の字音である「フーム」を示す言葉。そこから転じて万有の始原と究極を象徴する言葉となりました。東大寺の仁王門で金剛力士像二体の口がそれぞれとっている「あ」と「うん」と言えばわかりやすいですね。

 日本が生んだ仏教界二大スーパースターの最澄と空海は、ともに万物の真理を探求せんと日夜修行に明け暮れました。果たしてふたりがそこにたどり着いたかは定かではありませんが、そのふたりのマンガに「阿・吽」と名付けるとは、タイトルからして名作誕生の予感がぷんぷんとします。「源氏物語」をテーマとしたマンガに『あさきゆめみし』と名付けた大和和紀先生を彷彿させるところがあります。

 さて、「阿・吽」の作者であるおかざき真里(敬称略で失礼します!)と言えば、『サプリ』や『&-アンド-』に代表される作品において、働く女性の物語をリアルな心理描写と洗練された絵で描いています。

 そのおかざき真里の最新作が最澄と空海の物語????? 最初その話を聞いた時は「ええ? うそでしょー」と思ったものですが、単行本の1巻を読んだ時、あくまでも読者視点ですが、「ああ! これは山岸凉子の日出処の天子のおかざき版だ」と腑に落ちました(これも自慢ですが、このことは第二巻の帯で図らずも証明されたのです)。山岸凉子の『日出処の天子』を初めて見た衝撃は30年以上を経た今でもはっきりと覚えています。ほんと「なんじゃこの聖徳太子は!」だったのです。

 だってそれまで聖徳太子と言えば、お札に描かれた笏(しゃく)を持った姿と十七条の憲法を制定したというイメージがあまりに強すぎて、とても自分と同じ人間とは思えませんでした。そのごりごりに固まった聖徳太子像を『日出処の天子』は今風に言うとBL的な描写でこっぱミジンコに打ち砕いたのです。

『日出処の天子』。なんじゃこりゃ!と思わず叫んだ聖徳太子像。今読んでも新鮮です。

■空海と最澄は涅槃にたどり着くのか?

『阿・吽』はそれと同じような衝撃をウン十年ぶりに私にもたらしました。おかざき真里が描く最澄と空海は超イケメンかつ人間くさくて、えらいお坊さん(ほんと、ひどい言葉すみません!)はなんとなく枯れていて最初から超越した存在だったんじゃない? といういつもながらの固定観念をふっとばしてくれたのです。

 そんなオシャレな最澄と空海がくりひろげる物語は(オシャレなのは絵だけでストーリーは骨太です)本編を読んでいただくとして、『阿・吽』を読んで私がびっくりしたことがあります。それは「文字の存在がすごく視覚的だなぁ」ということです。たとえば最澄が経文を読んでいる場面では、経文から文字が虫のように飛び出してきて、最澄の身体を取り囲んでいきます。

 今のように文字がそこかしこにあふれている時代とは違い、最澄と空海が生きていた時代って、文字ってここに描かれているように確かな質量を持っていて、経文を読むということはそれを身体に取り込むことだったのかな? などと思わせてくれるのです。それを本能的に感じ取って表現するとは、おかざき真里恐るべし!ですね。

 そしてもうひとつ、『阿・吽』を『阿・吽』たらしめているものは、「ごちゃごちゃと男が頭で考えていることを女性はその身体性でやすやすと跳躍していくなぁ」ということです。物語の中でひとりの女性が最澄を誘惑してきます。最澄はあれこれと論を説いてニルバーナ(涅槃寂静)の重要性を伝えようとするのですが、学がない女性にとってはちんぷんかんぷんです。

 しかしながら皮肉なことに、最澄があれほど経文を読んでも得ることができなかったニルバーナを、作中、身体を修行僧に託して毎日の食を得ていたその女性が一瞬垣間見たような描写があったのです。実はこれはひとつの真理なのではないか? 男性が何十年修行しても得られないものを、女性は一瞬にして超越する瞬間があるのではないか? だとすれば最澄と空海はどこへ向かうのか? そんな疑問を抱きました。

 最澄と空海は、おそらく日本史上屈指の知能と才能を持つ天才でしょう。こんな天才たちのことを頭で理解しようとしても無理な話です。ですが、おかざき真里は女性という身体性をもってまったく別の世界観を描ききるのではないか? 最新の7巻(2018年4月20日現在)では、一足早く唐から戻り政治に翻弄される最澄と唐で自分の心の赴くままに仏道を極める空海の姿が描き出されています。

 物語はいよいよ佳境を迎えます。『阿・吽』はどこまで飛んでいくのかわからない最澄と空海の新しい物語です。勉強になりました!

セバスチャン高木
1970年生まれ。大学卒業後2年間、ヨーロッパ、北アフリカを中心にバックパック旅行を経験。テレビの制作会社を経て小学館入社。『Domani』7年、『和樂』15年の編集を手がける。好きなもの:仏像巡り、土門 拳、喫茶店、マンガ