小説『言の葉の庭』新海誠 − 特設サイト

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更新日:2018/7/10

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言の葉の庭について
各話あらすじ
小説化にあたって

言の葉の庭について

ほぼ1人で制作した短編アニメーション『ほしのこえ』で注目を集め、『秒速5センチメートル』『星を追う子ども』と人気・評価を高めてきたアニメーション作家・新海誠
彼の最新作『言の葉の庭』(劇場公開中・iTunes配信中・BD/DVD発売中)は、その鮮烈なビジュアル表現と瑞々しくも哀切な人間ドラマによって最高傑作と評されている。靴職人を目指す少年と、人生の“歩き方”を忘れてしまった年上の女性との雨の日の逢瀬を描く本作を、ついに監督みずから小説化。そもそも小説を読むような味わいとテーマ性を持った監督の映像作品は“デジタル時代の映像文学”とも称されるが、その作品世界に、映像版では描かれなかった人物やエピソードを盛り込み、小説版ならではの『言の葉の庭』が広がろうとしている——。

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各話あらすじ

第1話  雨、靴擦れ、なるかみの。
─ 秋月 孝雄
高校に入って2カ月の秋月孝雄(あきづき・たかお)は、雨の朝、新宿で通学電車を降りて公園を目指す。静かな雨の公園を歩きながら、中学1年のころを思い出す。両親の離婚が決まり、そのことを受け止めきれないまま、同じ学校の美帆と公園を歩いたことを。そして美帆の言葉によって、ある決意をしたことを——。
ダ・ヴィンチ 2013年9月号

第2話  柔らかな足音、千年たっても変わらないこと、人間なんてみんなどこかおかしい。
─ 雪野
雨の朝の公園、雪野(ゆきの)は小さな東屋(あずまや)で缶ビールを飲んでいた。そこへ一人の少年が入ってくる。ノートを広げ、さらさらと何かを書きつけている彼との短い会話から、雪野は「なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらんか きみをとどめん」という和歌を口にする。そして中学のときの古典の授業を、憧れ続けた陽菜子先生との日々を、思い出す。
ダ・ヴィンチ 2013年10月号

第3話  主演女優、引っ越しと遠い月、十代の目標なんて三日で変わる。
─ 秋月 翔太
秋月孝雄の兄・翔太(しょうた)は、情報通信会社の営業マン。彼女である梨花(りか)と、一緒に住むことを決めたところだ。梨花は役者志望の大学生で、役者になるための活動と、それを支えるアルバイトに励む日々。そして弟の孝雄は、靴作りに真剣に取り組んでいる。もう四十七歳の母親も、恋人との関係に夢中だ。では自分は……? 苛立ちばかりが募る翔太は、梨花を自宅に招き、孝雄と3人で食事をする機会を得る。
ダ・ヴィンチ 2013年11月号

第4話  梅雨入り、遠い峰、甘い声、世界の秘密そのもの。
─ 秋月孝雄
靴職人になりたいと願う孝雄は、靴の材料費や専門学校の学費をためるため、中華料理店でアルバイトをしていた。バイト先の先輩・宵峰(シャオホン)は、未知のものを求めて日本に来ている中国人。彼との交流の中で孝雄は、世界というもの、恋ということについてさまざまな刺激を受ける。そしてその一方で、雨の日の公園でだけ会える女性のことを、考える時間が増えていた。
ダ・ヴィンチ 2013年12月号

第5話  あかねさす、光の庭の。
─ 雪野
仕事を辞めることを決めた雪野。雨の日の公園で、少年と短い会話を繰り返すうちに、彼女にとって忘れられない一日がやってくる……。だが梅雨が明け、公園に行っても少年がいない日々が始まった。そして、ある苦い一夜を迎えることに。
ダ・ヴィンチ 2014年1月号

第6話  ベランダで吸う煙草、バスに乗る彼女の背中、今からできることがあるとしたら。
─ 伊藤宗一郎
孝雄が通う高校の体育教師・伊藤宗一郎は、折に触れ、ある女性のことを回想する。職場で出会い、結婚して欲しいとまで願い、ついに付き合えることになった女性。それなのに、自分では指一本動かさないまま、別れるしかなくなってしまった女性のことを……。
ダ・ヴィンチ 2014年2月号

第7話  憧れていたひとのこと、雨の朝に眉を描くこと、その瞬間に罰だと思ったこと。
─ 相澤祥子
地味な中学時代を過ごした相澤祥子は、高校デビューに成功し、華やかな存在へと変身を遂げる。そして校内でも有名なイケメン、牧野先輩と付き合うことになった。一方で祥子は、一人の女性教師に強い憧れを抱き、学校で彼女を見かけるだけで嬉しくなった。さまざまな面で充実した高校生活だったが、牧野先輩が取ったある行動から、歯車が狂い出す。
ダ・ヴィンチ 2014年3月号

小説化にあたって

「言の葉の庭」の小説を書く、個人的な理由

新海 誠(しんかいまこと)
新海 誠(しんかいまこと)
1973年、長野県生まれ。アニメーション監督。2002年、ほぼ1人で制作した短編アニメーション『ほしのこえ』で注目を集め、以降『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』『星を追う子ども』『言の葉の庭』を発表し、国内外で高い評価を受ける。小説作品に『小説・秒速5センチメートル』がある。

 アニメーション映画「言の葉の庭」の小説版が、『ダ・ヴィンチ』2013年9月号(8月6日発売)より連載開始となります。自分の原作映画を自身で小説化するのは、『小説・秒速5センチメートル』以来の2作目となります。
 46分の映画「言の葉の庭」は、最初から中編の物語として発想したものです。その最初の原型は四百字詰め原稿用紙にして20枚程度のスケッチ文章で(『ダ・ヴィンチ』2013年8月号掲載)、これを小説として体裁を整えたものを3回程度の連載に膨らませ自分で書いてみたいという気持ちが当初からありました。というのは、「言の葉の庭」はとても文章的な映像作品であるからです。
 たとえば雨の描写。映画では「二人の間をカーテンのように隔てる雨」という文字列のイメージがまずあって、その先に映像を作っています。あるいはタカオやユキノのモノローグ。僕の作品は商業デビュー作の「ほしのこえ」以降、「映像作品なのにモノローグで語らせるなど無粋だ」とのご批判も度々いただいてきましたが、しかし文章でのイメージを作品の原型としているために自分でもどうしようもない部分でもあるのです。言葉でしか表現しようのない感覚があるはずなのだとほとんど開き直って、「言の葉の庭」においても一人称と三人称を文中に混在させるような感覚でモノローグ演出を組み立てています。とにかくこのように文字として始まった作品ですから、それを個人的に「閉じる」ためにも小説を書きたいと、最初は思っていたのです。

 しかしこの考えは、映画が公開され観客の声が聞こえ始めるに従いだんだんと変化しました。たとえばユキノというキャラクターに寄せて、ご自身の経験を語ってくれる観客がいます。タカオの将来が心配だという観客がいます。あるいはタカオの母、いじめっ子の相沢、そういう人物の気持ちが分かると言ってくれる方々がいます。そして僕自身も観客の声を聞いているうちに、ユキノやタカオ、彼らを巡る人々のことをもっと深く知りたいという気持ちが強くなってきます。自分でも気づいていなかった物語の外側、あるいは可能性のようなものに、観客という語り手を得て初めて思い至らされます。映画では描かなかったエピソードとエピソードの隙間にどのような風景が広がっていたのか、そこを覗きたくなってきます。
 ですから小説「言の葉の庭」は、当初予定していたさらりとした短編小説ではなく、複数の人物が語り手となる、映画版よりもずっと広い範囲を描く長編として書くことにしました。二人だけの物語ではなく、タカオの母や伊藤先生や相沢さんも物語の主人公となります。作品を「閉じる」というよりは「開いていく」作業で、ノベライズというより新作を書きはじめているような楽しさのある仕事です。

 そしてなによりも、映画を小説にするという作業自体がとても楽しいということに、書いていると気づかされるのです。それは物語以前の部分、映像と文章の表現技術の違いという部分にも広がっている楽しさです。
 たとえば比喩について。映画を原作として小説を書いていると、まずは比喩をどのように使うのかという問題に直ちに突き当たります。小説にはビジュアルも音もないのだからそれは当然で、たとえば新宿駅のホームから見えるドコモタワーは映画では「ただそのように描けば良い」のですが、小説の場合は比喩を使わなければビジュアルに届く表現はほとんど出来ません。それはたとえばこのように書き得るでしょう。
「ホームの屋根に細長く切り取られた空のむこうには、まるで未踏の主峰のように代々木の電波塔が雨に霞んでそびえていて……」云々。
 出来の善し悪しはともかくも、情景を伝えるにはこのようにシミリ(直喩)をまじえ書く必要があるのです。シミリとは言うまでもなく、「未踏の主峰のように」の「ように」で表現する部分です。
これは映像表現の直截さに比して確かに不自由ではありますが、しかしこの不自由さは、ビジュアルでは決して届かないような文章表現の快感そのものでもあります。
 たとえばこういう表現。「彼は迷子のような表情でそう思う」。こういう文章はアニメーションでも実写でもワンカットでは表現困難です。短いセンテンスの中に主観(「迷子のような〜」)と客観(「彼は〜そう思う」)が混在し、その主観の部分はシミリであるために読み手の経験や記憶に自動的にリンクします。読み手は即座に、幼い時に味わった迷子の心細さをキャラクターに投影します。
それは映像のどのような技法よりも、簡潔で力強い文章の持つ機能です。書いていて、どうだ、これはアニメじゃ無理だろうと誰に向けるでもなく思ったりします。
 一方で、同じ比喩にしてもメタファー(暗喩)は映像の方が一般的にはより強力に機能します。たとえば「言の葉の庭」の映画ならばドコモタワーを旋回するカラスのカット、あるいは雨表現そのもの。それらはキャラクターの心情を代弁するものとして、文字通り言葉以上に雄弁たり得ます。文章で同じ機能を果たすためには、時には一節のエピソードを書き足す必要があるかもしれません。
 さらに、句読点やセンテンスの長さは、映像ではカット割り方やテンポに相当するかもしれません。一人称/三人称の書き分けはカメラワークにも通じる表現です。映画と小説、それぞれの表現で相互乗り換えが可能な箇所とほとんど不可能な箇所があり、小説を書くという作業は僕にとってはそれらを一行ごとに実感する作業でもあります。それは端的にとても楽しい作業なのです。

 「言の葉の庭」というタイトルは、ひとつの場所で「言の葉」という「その人の断片」を交換しあう物語というイメージでつけました。小説「言の葉の庭」は映画よりもずっと多くの「言の葉」が交換されていきます。お読みいただければ、幸せです。

2013年8月2日 新海誠