『Masato』発刊記念 岩城けいインタビュー 少年の目を通して描かれる海外での暮らしと家族

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公開日:2015/9/5

家族って一体何? 言葉の断絶で見えてくるもの

 日本とは全く違う社会に、どんどん馴染んでいく真人は、学校生活を心から楽しみ始める。友人との何気ない会話や、同級生の少女に抱く恋とはまだ呼べないほどの淡い思いなどは、とても微笑ましい。

 これで真人のオーストラリア生活も一安心と思いきや、そうは問屋がおろさなかった。再び言葉の問題が、予想もしなかった場所で軋轢を生み始めるのだ。

 それは、家庭。安らぎを与えてくれるはずの場所で、母親との関係がギクシャクし始めるのである。

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「日本人家庭に限らず、海外在住の移住家庭にとっては、子供の教育は切実な問題であることが多いです。オーストラリアの場合、現地の学校に通う子供は、家庭以外では英語が普段使う主言語になっていきます。個人差はありますが、子供は大人に比べて適応力があり、特に話し言葉は上達が早いことが多いですから、初めは『これでうちの子もバイリンガルだ』と喜ぶ親もいれば、英語で話すわが子がわが子でないかのような錯覚を覚える親もいるようです。そして、母語と異国語のあいだを行ったり来たりする過程で、人格や性格もその影響を受けて変化していくのだと思います。その感覚は、大人になってから英語を習得した私にもありました。まして、心と体が大きな変化を遂げる成長期の子供となると、内面においても、大改造になるのではないでしょうか」

 親は日本語で話しかけているのに、返事は全部英語で返ってきたり、両親とは日本語で話すけれど、兄弟同士は英語で話したり。

「滞在が長くなるにつれ、現地で習得した言葉が母語よりも強くなっていく場合、だんだん不安を覚える親御さんもおられます。幼い時期だと『日本語でお話しして』と頼めば、言うことを聞くでしょうが、長年現地で暮らしているティーンエージャーなどだと、そうとは限らない。さらに、学校生活の話を聞いたとしても、自分が受けた日本の教育とはシステムもやり方も違うから、親はなかなか実感できないこともあります。子供にしてみれば、普段のあたりまえの話をしているだけなのですけど、不安とともに、寂しさを感じる親もいると思います」

 それは、単に感情レベルの話ではなく、家族のアイデンティティを揺るがす恐ろしさを秘めている。

 真人はどんどんオーストラリア社会に馴染んでいく。感情を表現するのだって、日本語より英語のほうが楽なぐらいだ。

 だが、母親は、真人のそんな変容についていけず、「日本にいた頃のまあくん」像に、彼を縛りつけようとしてしまうのだ。

 日本語を忘れないでほしいと願う母と、オーストラリア基準での普通の小学校生活をしたい息子の間にはどんどん溝ができていき、お互いの気持ちは相手に届かなくなっていく。

「夫の赴任についてきた奥さんの中には、現地の生活や社会になかなか適応できない人もいるようです。もっとも、最近はあまりきかなくなりましたが。でも、稀に、ひとりで家に閉じこもってしまうような方がいらっしゃるようなのですが、真人のお母さんはまさにそのタイプ。そして、私が声をかけたくなるのは、そういう方だったりします。『どうしたんですか、お茶でも一杯飲みませんか?』 という感じで」

 それは、『さようなら、オレンジ』で描かれていた世界でもある。言葉もわからないまま海を渡ってきた難民や、初めての子を失った絶望を誰にも話せない母にそっと差し伸べられる手。

 だが、『Masato』では、心を閉ざして地域社会と関わろうとしない母の存在に、誰も気づくことができない。

 挙句、家族とのコミュニケーションですらうまく取れなくなっていく姿は、真人とは対照的な「溶け込めない異邦人」の苦悩を浮き彫りにしていく。

「彼女は、日本を離れたがゆえに慣れ親しんだ母語や文化が奪われた上、職業までも失ってしまったわけです。娘は受験を機に日本に帰ってしまったし、息子はどんどん自分の知らない人間になっていく。ものすごく『自分』が不安になってしまったのでしょう。だから、夫にかみつくように物を言ったり、真人に当たったりもします。私だけひとり取り残されて、一体どうすればいいの、とパニックに陥るわけです」

 日本で栄養士として働いていた真人の母は、本来は快活なタイプだし、人とうまくやっていくのだってお手の物であるはずなのだ。そんな人でも、言葉の壁にぶち当たると、歯車が狂ったようになってしまう。

 岩城さん自身は、大きなカルチャー・ショックを受けることもなく社会に溶け込んでいったのだそうだが、それでも太宰賞受賞の際には、「これから先永く異邦人でいなければならないと知ってから、足下のおぼつかなさを庇いながら歩くたび、たえず靴の底に入った小石のように私を苛んだのは、日々、異国語に吸い上げられていく母語、私という人間の軸である日本語が痩せ細っていくことでした。」との言葉を寄せている。言語を奪われる不安は痛いほど経験したのだろう。だから、日本語にこだわる真人の母に対する目はあたたかい。

「私はこのお母さんはとても立派だと思っているんです。異質なことに囲まれるのが苦しいと感じるのは、自分というものをしっかり持っているからこそであって。だから、言いたいことをはっきりと言わせて、喧嘩もさせてあげようと思ったんですよ(笑)」

 夫婦げんかや親子げんかが絶えず、一見バラバラになっていくように見える家族。しかし、物語が進むにつれ、もっと本質的なところで、家族の意味が問いただされていることに気づく。

「家族とは一体何で繋がっているのか。血なのか、結婚という法的な契約なのか。そして、枷が外れた時にどうなるのか。そんなちょっとした問いを投げかけてみたいと思いました。私はNHKの朝の連続テレビ小説をよく見ているのですが、描かれる家族像が時代とともに変化しているのを強く感じます。昔は、お茶の間のシーンがあれば、その家族がどんなものなのか見えましたが、最近はそうとは限らないような気がします。今までとは違う家族の形態が、そこに映しだされているように思うのです。核家族がさらにジャンプして、個々に砕かれている。西洋ではずいぶん前からそうなっていましたが、日本も同じ道を歩んでいるのかな、と。そうなると、一体どこまでが家族なのか。そもそも、家族とは何か。私自身、いつも自問していますが、まだ答えを見つけられてはいません」

 問題に火をつけたのは、日本ではあまり経験できない「言葉の壁」だったが、考え方の違いから家族のありように齟齬が生まれることそのものは普遍的な現象だ。一人ひとりが、自分の一番生きやすい場所を求め、行動していく勇気。真人一家がどんな選択をしていくのか。

「絆」の安売りに眉をひそめることも増えた現代日本において、この問いかけの意味は決して小さくない。

少年の流す涙が育む生きていくための想像力

 一方、真人は真人で、生まれて初めて自分の進路について深く考えなければならない事態に直面する。中学への進学問題だ。当然、日本の学校に進学するものと決め込んでいる両親に対し、真人はオーストラリアでの進学を希望するようになる。考えた末、真人は驚きの行動に出るのだが……。

「真人って、なかなか骨のある子なんですよ。怒らせたらそこそこ怖くって、今どきの言葉でいうと肉食系ってことになるのでしょうか?(笑)。もちろん、サッカーに行けないとメソメソ泣いたり、悪さに誘われて断れなかったりするような弱い面もあります。ただ、基本的には強くて優しい子です。いじめっ子に対しても、どこか自分と似ている部分、そして彼が心に宿した哀しみを感じとって、自ら歩み寄っていく。母親に反抗しても、思いやりは失いません。日本にいたままなら、ごくごく普通の、どこにでもいる子として育ったのかもしれませんが」

 だが、異国で思いがけない強い葛藤に遭遇した結果、真人は人としての厚みを増していく。

「本作では、あくまでも真人という少年の内面を追うことを中心に据えました。さなぎが蝶になる時、どういうことを考えているのか、それを表現したかったのです。だから、ストーリーにあまりアップダウンがあっても、と思い、過度にドラマティックな物語にはあえてしませんでした。自分自身が普通の人間なので、その視点を失いたくないという気持ちも働きました。まあ、そのせいで読者にとってつまらない物語になっているとしたら申し訳ないのですが」

 もちろん、それは杞憂というもの。確かに、表面的には平凡な日々がただ進んでいくが、真人の心は刻々と変化する。小さな胸に痛みを抱え、時にはチックなどの身体症状でしか溢れる想いを表現できなかったのが、いつのまにか感情と理性に折り合いをつけ、自分のことは自分で決める強さを身につけていく。

 そして、これだけは譲れないという一線を持つ、たくましい少年に成長するのである。

「子供時代に何らかの悲しさを体験すると、とても彫りの深い人物になると思います。相手が流す一滴の涙から、いろんなことを想像することができるようになる。そして、その想像にしたがって、この人にどうやって声をかけようか、この人のために何ができるのか、さまざまに考えを巡らせる人になると思うんです。私は、そうした類いの想像力こそ、人が生きていく上で本当に大切なものだと考えているのですが、それを養うのに子供時代の様々な経験は貴重ではないかと。今回、真人を多様な人と出会わせ、飼い犬の死を含めた悲しい体験をさせたのも、彼に彫りの深い人間になってほしかったからです」

 自他の気持ちを大切にできる人になっていく真人。その軌跡の清しさは、文字通り一服の清涼剤として、読み手の心にも染みわたるのだ。

アイデンティティを喪失し、再び獲得していく遍歴

 岩城さんは、デビュー作でも、本作でも、現在住んでいるオーストラリアを舞台に選んだ。

「オーストラリアという国に住んでいる限り、今後も作中の人物は様々なバックグラウンドを持つ人々になると思います」

 帰国するたびに浦島太郎の気分を味わうという岩城さん。しかし、オーストラリアにいても、もどかしさはある。

「言葉って、状況を縛りますよね。一度言葉で表現してしまうと、若干違和感があっても、そうとしか見えなくなる。自分が使った表現は、今の状態を表すのに最適ではないのだけど、他に持ち合わせている語彙がないからそれを選ばざるをえない。だから、本当に思っていることと、口にしたことが、実はニュアンス的には違うということが始終あります。外国語を使って暮らすと、毎日のように起こる体験です。そうしたギャップが心に与える影響も、伝えたいことの一つです。結局のところ、私は『人』を書きたい。自分の感情を表現したいわけではないので、私小説には興味はありません。あくまでも虚構という枠の中で、でも心の動きには嘘がない小説を書ければと思っています」

 心を描く以上、読み手の解釈もまちまちになって当然。

「むしろ読む人ごとに違う意味を持つ小説になっていればうれしいですね」

取材・文=門賀美央子

 

岩城さんのデビュー作

『さようなら、オレンジ』

岩城けい ちくま文庫 580円(税別)9月9日発売予定

英語を母国語としない人々への公的な教育機関で出会った3人の女性。それぞれ全く異なる生い立ちや文化を持つ中で、牛の歩みのごとくながら、ゆっくりと理解し合い、やがてはお互いがかけがえのない存在になっていく。第29回太宰治賞を受賞した折には、小川洋子や三浦しをんなど各選考委員の絶賛を得た名作が早くも文庫化。