『海に降る』の番外編が読める! 書き下ろし新作を無料公開


とある広場で“あの人”


今月の“あの人”は…海に降る』

高峰浩二(たかみねこうじ)

海に降る』 朱野帰子/幻冬舎

幼い頃、父から聞いた人類にとって未知の深海の世界。両親の離婚で父と離ればなれになった天谷深雪だったが、深海潜水調査船〈しんかい六五〇〇〉のパイロットを目指し、海洋研究開発機構(JAMSTEC)に入所する。しかし、副操縦士となるための最終訓練潜航の最中に閉所恐怖症を発症。彼女が存在すら知らなかった異母弟の訪問が原因だと指摘されるが……。そんな深雪の前に現れたのが、中途採用で広報課に配属されたばかりの高峰浩二だった。生物学者だった父の遺志を継いで謎の深海生物〈白い糸〉を追っていた彼も自ら深海に赴くことを切望していた――。海洋研究に挑む人々を描いたヒューマンドラマ。

『海に降る』番外編

もっと深いところへ【第一話】朱野帰子


画像提供=JAMSTEC

 太古から吹く風が船を揺らす。白く泡だった波が人類を新しい時代へと押しやろうとする。

 そして今、一段と大きい波が船底に当たったらしい。

 深海潜水調査船支援母船〈よこすか〉の船上で、ポケットから滑り落ちたライターを拾おうとかがみこんでいた高峰浩二(たかみねこうじ)は、よろけて格納庫の床に手をついた。この揺れにはいつまでも慣れない。広報担当として何度も乗船しているのに、油断するとすぐこれだ。

 ぴかぴかに磨かれた床から立ち上がると、有人潜水調査船〈しんかい六五〇〇〉の丸みをおびたボディが浩二の視界いっぱいにひろがった。午後の日射しを浴びて外皮が貝のようにきらきらと輝いている。明日からの航海を控えて整備はもう終わっているはずだ。

「あ、それ、高峰くんの?」

 脇から話しかけられた。研究者の目山優(めやまゆう)だ。左手には煙草の箱が握られていて、右手はシャツの胸ポケットをもぞもぞ探っている。

「煙草吸うんだ? それにしては喫煙所で見ないね」

「ほんのたまにしか吸わないんで」

「あ、そ。ちょっと火貸してくんない? ライターどっかに置いてきちゃった。……ああ、どうもどうも」

 風よけに添えられた目山の手のなかでカチリと音がした。点くかな、と浩二はその指先を見つめたが、すぐに炎がたちあがった。

「ライターって何で点くんでしょうね」

 ふう、と気持ち良さそうに吐かれた煙を見て思わずつぶやいた。

「それはねえ、中にフリントっていう発火石が入ってるんだよ」

 目山は〈しんかい六五〇〇〉から数歩ほど奥まったところにあるベンチに腰をかけた。そこはちょっとした休憩所になっていて、灰皿も置いてある。整備中のパイロットたちもここで煙草を吸う。

「発火石で圧電素子に瞬間的に衝撃を与えて放電を起こす。火花が揮発したオイルに接触すると点火する。古い百円ライターの構造なんてだいたいそんなもんだよ」

 たかがライターなのによく見ている。こういう細かいところに、ああ、この人は科学者なんだなと浩二は思う。目山の言うとおり、このライターは古い。もとの持ち主は二年前にこの世を去った。

「研究資材の積みこみ、もう終わったんですか。早いですね」

「うん。だいたい。……それで高峰くんはどういうときに煙草吸うの? ストレス? 多そうだものね、君」

 目山がにやにやしながら詮索してくる。

「ストレスなんてないですよ。好きな仕事やらせてもらってますし」

「プレッシャー大きいんでしょ? そろそろ広報課の成果をハッキリした形で見せなさいよって上からうるさく言われてるんでしょ?」

 そう言う目山の周りには、航海の準備を終えた研究者たちが集まってきている。煙草や缶コーヒーを手に、今回の研究航海のミッションについて打ち合わせをしている。開放された格納庫のシャッターから海風が吹きこんでくるから気持ちがいい。ここは、新たな深海の旅に出かけるのを待ちかねる人々が集まる一服ひろばなのだ。

「うるさく言ってるのは目山さんでしょ。〈しんかい一二〇〇〇〉はいつできるのかなあって、週に一度は訊いてくるじゃないですか」

「そんな訊いてないよ。二週間に一度くらいだよ」

「一週間や二週間でそんなドバッと進捗するわけないでしょう」

〈しんかい一二〇〇〇〉は、就航から二十五年もたつ〈しんかい六五〇〇〉の後継機だ。潜航能力一二〇〇〇メートル。地球でもっとも深い海に潜れるこの船が誕生すれば、ほとんど手つかずだった超深海の謎が解明されるのではないかと期待が寄せられている。

 しかしまだ構想段階だ。予算の獲得には至っていない。それどころか、海洋研究開発機構の予算自体が年々減らされている。

「悠長なこと言っちゃって。このままだと〈しんかい六五〇〇〉のほうも動かなくなっちゃうよ」

 ぐさりと来ることを言って、目山は立ち上がった。うーんと伸びをして、船上ラボへ戻っていく。灰皿に残された吸い殻からかすかにのぼった白い煙を、浩二はじっと見つめた。

 深海底には熱水が煙のように噴きだす場所があるのだと、いつか目山がしてくれた話を思いだす。

 地球深部から上昇してくるマグマで温められた還元的な熱水と、海底面から侵入する冷たい酸化的な海水と、ふたつの異質なものが出会うのが熱水域なんだよ。彼らは化学反応を起こして金属鉱物を生成する。鉱物を含んだ岩は巨大な塔に成長し、てっぺんからモクモクと煙のように熱水を吐きだし続ける。熱水は大量の好熱菌を養い、それを餌とする生物がわらわらと集まってくる……。

 浩二は根っからの文系人間だ。この仕事につくまでは意識的に科学から遠ざかってきた。しかし初めて研究者という職業の人たちと仕事をした時の衝撃は忘れられない。彼らが語る深海の物語は専門用語に埋めつくされていて違う星の言葉を聞いているようだった。でも今まで受けたどんな理科の授業よりも楽しかった。もっと知りたい。果敢に質問しているうちに彼らの見ている躍動的な世界の奥行きが見えてくる。何歳になっても脳は進化するのだなと感じる。

 彼らにもっともっと新しい発見をしてもらいたい。〈しんかい六五〇〇〉を含む調査船の稼働率をもっと上げたい。しかし、そのためには予算がいる。広報課はスポンサーである国民に研究成果を周知し、支持を得る必要がある。でも完璧にうまくいっているとは言いがたい。

 ――潜水船かっこいいですね。ロマンですね。

 ――深海生物ってすごいんですね。びっくりしました。

 ここへ見学に来た人たちはみなそう言って感動してくれる。でもその先――海洋科学や深海探査の成果にまで興味を持ってくれる人はそう多くはない。でもそれじゃだめなんだ。

「どうしたの? なんかすごい怖い顔してるね」

 顔を上げると、ダボッとした作業着を着た天谷深雪が一服ひろばを覗きこんでいた。今来たところらしい。

熱くなっているところを見られた。

 恥ずかしくなって「別に」と顔をそむけた後、彼女も明日からの航海に参加するのだということを思い出した。

※リンク先のJT「ちょっと一服ひろば」は、満20歳以上のたばこを吸う方に向けたウェブサイトです。作品の他、たばこに関する情報が掲載されています。


あけの・かえるこ●1979年、東京都生まれ。2009年『マタタビ潔子の猫魂』で第4回ダ・ヴィンチ文学賞を受賞して作家デビュー。著書に『超聴覚者 七川小春 真実への潜入』『駅物語』『真壁家の相続』がある。




この記事の画像

  • bn58631

TOPICS

最新記事

もっと読む

人気記事ランキング

ダ・ヴィンチ×トレインチャンネル

特集

ダ・ヴィンチニュースの最新情報をチェック!

ページの先頭へ