町田そのこ『星を掬う』×永井みみ『ミシンと金魚』。ともに認知症を描いた2人の作家に聞く、認知症と家族、小説のお話《対談》

文芸・カルチャー

公開日:2022/7/7

町田そのこさん、永井みみさん

 すばる文学賞受賞のデビュー作にして、三島由紀夫賞の候補ともなった永井みみさん『ミシンと金魚』(集英社)は、認知症を患うカケイさんという女性が、現在と過去をいったりきたりしながらその半生を語るという物語。〈カケイさんの中に亡き祖母を見た。祖母もきっと見ただろう花々に私も出逢えると信じて、これからも生きてゆこう。〉とコメントを寄せた町田そのこさん。本屋大賞にノミネートされた町田さんの『星を掬う』(中央公論新社)もまた、認知症を患った女性が登場し、主人公である娘の葛藤が描かれる。そんなおふたりの対談がこのたび実現。小説を書くうえでの姿勢についても、うかがった。

(取材・文=立花もも、撮影=川口宗道)

advertisement

町田そのこさん(以下、町田) 『ミシンと金魚』は刊行当初からものすごく話題になっていたので手にとったのですが、認知症を患っている方の、内面の奥の奥までえぐるように描かれているところに、グッときました。コメントにも書いたのですが、昨年、認知症だった祖母を亡くしたこともあり、語り手のカケイさんの姿が祖母に重なったんですよね。祖母はカケイさんのように壮絶な人生を歩んできたわけではなく、平凡につつましく生きてきた人ですけれど、カケイさんが過去の記憶を思い起こして「幸せだった」と思ったような瞬間が、祖母にもあっただろうか、と。私自身、そうであってほしいと……人生から幸せを掬いだしたかったからこそ『星を掬う』を書いたところもあるので、読んでいてうれしくもなりました。

ミシンと金魚
ミシンと金魚』(永井みみ/集英社)

永井みみさん(以下、永井) ありがとうございます。認知症の方というのは、みなさん、昔のことは、小さな子どもだったころのことも、細部にわたってよく覚えていらっしゃるんですよね。長期記憶は、簡単に、消えない。でも短期記憶……さっき何を食べたのかとか、昨日どこへ行ったかとか、そういうことは往々にして忘れてしまう。若年性認知症の場合は、その症状が急に進行するというか、ガタンとステップを踏み外すような感じで記憶を定着できなくなっていくのですが、『星を掬う』ではその描写がとてもリアルで驚きました。どなたか身近にいらっしゃったのかな、とは思ったのですが。

星を掬う
星を掬う』(町田そのこ/中央公論新社)

町田 祖母がそんな感じだったんですよ。あやしいな、と思うことが少しずつ増えてきたある日、トイレで転倒して頭を強く打ち、ろれつがまわらなくなってしまって。ちょうど私は第2子出産を控えていて、祖母は出産につきそうつもりだったくらい元気だったのに、産後退院したときには会話もできない状態になっていた。そのとき味わった感情はかなり反映されています。

永井 そうだったのですね。もちろんつらかったときの気持ち、見守る側の葛藤もリアルだなと思ったのですが、私がとくにいいなと思ったのは、認知症を患った聖子さんが娘の千鶴さんに対する想いを最後まで失わないこと。実際、根本的なところって、みなさん絶対に忘れなかったりするので。

町田 愛情って、消えないですよね。祖母のグループホームに入居されている方々はみなさん、いつも家族の心配をしていました。「はやく帰らないと娘が帰ってきちゃう」とか「ごはんをつくってあげないといけないから」とか。私の祖母も、私のことをいつまでも女子高生だと思い込んでいて、私の子どもたちのことは私の弟や妹だと思っていて。きっと、最期まで頼りない孫を心配してくれていたんだろうな、と今も思い返したりします。だから、カケイさんが、ヘルパーさんのことを誰彼構わずみっちゃんと呼ぶところは、ああ区別できていないんだな、と思って読み進めていたら……みっちゃんというのが誰の名前で、カケイさんにとってどれほどの意味をもつ存在なのか、やがて明かされる。ミステリーのような驚きもあり、すごく好きな瞬間なんですけれど、カケイさんの愛情もまた、どんなに記憶があいまいになっても決して失われはしないのだということが強く伝わってきました。認知症は人の愛を失うものではないのだ、という永井さんの想いも。

永井みみさん

永井 そう言っていただけると、うれしいです。私は、ヘルパーとして認知症の方々をお世話はしてきましたけれど、私自身が実際に患ったわけではないので、本当のところ、どんな思いでどんな景色を目にしていらっしゃるのかはわからない。だけど、カケイさんの人生は、過去のいちばん苦しかったところも含めて、そばにいる第三者ではなく、カケイさん自身の言葉で語られなくてはいけないんじゃないかと思ったんです。客観的に現実を映し出すだけでは、つらいことが多すぎるだろうけれど、小説だからこそ用意できる、生きていく上での救いみたいなものを、カケイさんを通じて描きたいとも思いました。

町田 現実はやっぱり、きれいごとだけでは済まないですよね。私は介護する側を描く以上は、善意だけではどうにもならない苦しみもきちんと描かなければと思っていました。お漏らしをしてしまうとか、体を洗ってあげるとか、身内だからこそ見たくない・対処したくないことってたくさんありますし、その現実に向き合ったとき、どんなに愛している相手にだってどす黒い感情が湧く瞬間はある。お母さん大好き、おばあちゃんのためならなんだってできる、と心の底から前向きにお世話をできたらいちばんいいですけれど、それは簡単なことではない。その苦しみや葛藤をごまかさずに描くからこそ、苦しみの底から何を見出すことができるのか……人にとっての希望とは何かを描くことができるんじゃないかと思いました。

永井 『星を掬う』で「自分の手でやることを美徳だと思うな。寄り添いあうのを当然と思うな」というセリフがありましたけど、すごくいいなと思いました。お漏らししたのを見られたり、体を洗ってもらったりするのは、介護される側の尊厳にかかわることなんですよね。介護する側がその行為に否定的な感情を示すということは、人としての尊厳がまるごと否定されることにもなりかねない。だからこそ、専門家の手も借りて、できる人がかかわりあっていくことがいちばん大事なのだと私も思うので。

町田 ありがとうございます。グループホームで職員の方が祖母のおむつをとりかえるとき、介護の仕事をしているいとこは、ためらいなく手伝いますと言って部屋に残ったのに、私は出ていくことしかできなかったんです。あれほどかわいがってくれた祖母に、今こそ愛情を返すときだったんじゃないかと、ずっとしこりみたいに残っていて。でももし、私が無理やりその場に残って、いちいちに傷ついたり動揺しながら、下手な介助をしたとして、それはお互いにとって幸せなんだろうか、ともふりかえって思いました。お願いします、と言うだけで私と祖母の気持ちが守られるのなら、それがいちばんいいのではないかと思ったことも、作品に落とし込んでいます。

あわせて読みたい