平野啓一郎ロングインタビュー 2002年10月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

■モノフォニックな小説からポリフォニックな小説へ

●一九九八年に『日蝕』でデビューし、翌年、芥川賞を最年少で受賞した平野啓一郎氏は、第二作の『一月物語』刊行後、新人としては長い沈黙期間に入った。デビュー当初から三部作構想を宣言し、『日蝕』『一月物語』に続く三部作完結編となる長編に全精力を傾注した平野氏だが、前作から三年四ヶ月ぶりに刊行された『葬送』は、全二部、二千五百枚、千二百八十ページという予想を超える大著となった。

 ルネッサンス直前のヨーロッパにおいて聖なる時間と世俗的な時間の乖離が生じようとしていた時代状況を、一人の僧の聖性体験を通して描いたのが『日蝕』という作品です。二作目の『一月物語』では、十津川の森を舞台にエリアーデ的な永遠回帰の循環的な時間を描きました。『葬送』では、近代都市の形成とともに人工的に形成されていくことになる日常の時間、つまり線形的な時間の意味について考えてみました。三部作を通して、近代以降の異なる時代と場所における時間のとらえ方の変移を相補的に描くことを意図しました。
『日蝕』と『一月物語』は、主人公の語りを軸にしたモノフォニック(単声的)な小説です。対して『葬送』では、ショパンとドラクロワという二人の主要人物がいて、さらに彼らの周辺に複数の登場人物を配置して、彼らの声をテキストに反映させるポリフォニック(多声的)な手法が採用されています。
 巻頭言として掲げたボードレールの言葉にもあるように、一元が二元になるのは決定的な変化です。ボードレールの言葉は、聖なる一者から俗なる他者が生みだされる決定的な瞬間をとらえています。二から三、三から四という変化に対しては、多数性という意味において同一の広がりをもったもので、僕はそういう地点から二元論をとらえ直したいんです。西欧的な完結した体系としての二元論批判とは異なる場所から、つまり、多元主義の最小単位としての二元論という認識から出発する。ポリフォニックな手法の採用は、多元主義への僕なりの小説的アプローチというふうに説明できると思います。

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●一四八二年初夏、フランス南部の寒村での一人の学僧の神秘体験を描いた『日蝕』。一八九七年初夏、奈良県十津川村往仙岳山中で青年詩人が体験する夢幻的な出来事を綴った『一月物語』。そして、一八四六年十一月から四九年十一月までのパリとその近郊を舞台に、運命に翻弄される芸術家ショパンの魂の軌跡を描いた『葬送』。
 場所と時間の明示性が強い平野作品であるが、そこにはどのような意図があるのだろうか。

 僕は一貫して転換期というものに興味をもっています。僕が現代という時代に生きていて、現代というのはまさに転換期であるという予感が常にあるからです。『日蝕』の舞台となった十五世紀後半の時期は、中世が終わりルネッサンスが始まろうとしている、まさに終わりと始まりの結節点となる時代です。
『葬送』の場合、最初はいろいろなスタイルを考えていました。たとえばトーマス・マンの『ワイマールのロッテ』のように対話形式で描く方法や、回想の中で物語を構成していく方法なども考えてみたのですが、この小説テーマの一つでもある近代社会の中を流れている線形的な時間の流れの中でいかに人間は生きうるかという問題に絡めてショパンの晩年に注目する必要を感じて、結局、二月革命前後の三年間という限定的な時間を律義になぞっていく形になりました。

■人物造形の方法

●人物関係の詳細な描出に始まり、同時代の政治状況、社交界や画壇の概況、亡命ポーランド人のネットワーク、パリの都市風俗、郊外の風景、そしてショパンとドラクロワの私生活など、『葬送』というテキストに盛り込まれた情報の量と質には驚嘆させられる。執筆に際しては、関連人物についての書簡・日記・伝記などの周辺情報はもとより、十九世紀パリについての歴史書や研究書など、膨大な文献が参照されている。

 記録として残っている資料は極力尊重する方針で臨みました。たとえば、ショパンが何年何月にパリにいたという事実があるのに、それを曲げて彼がノアンにいたというようなフィクションはいっさい入れていません。人物の場所の移動のような要素については扱いが容易なのですが、メンタルな問題に関して残っている記録については、どこまで信用していいのか判断が難しかったですね。
 たとえば、ジョルジュ・サンドの手紙は、ある事件や出来事に対して十通ぐらい手紙が残っている場合があるのですが、全部違うことを書いているんです(笑)。時間が経つにつれて話の内容が変化する場合もありますし、誰が誰に向けて書いたものなのかによっても内容が変わってきます。手紙というのは日記と違って嘘が多いですね。
 一般的に歴史的な人物を扱った作品の中では手紙が引用されることが多いと思うのですが、『葬送』の中では手紙をそのままの形で引用している箇所はほとんどありません。今回、書かれたものとして残っている手紙を、その他さまざまな資料に突き合わせて、そのような手紙がどういう文脈において書かれることになったのか推察してみました。その結果、手紙に表れている言葉とは相反するような心理を描くようなことにもなりました。その部分については、論理的に関連性を説明できると思っています。
 書かれたテキストだけから人物を造形していくわけではありません。カリカチュア(風刺画)一つとっても、その人物が世間からどういう認識をされていたのかという重要な資料になります。残されている人物画や生活に用いた家具や備品なども参考になります。
 作品を書いていく中で、自分の中のショパン像がぶれてくる経験を何度かしました。ぶれを修正するために書簡などを読み返したりするわけですが、ショパンの曲を何時間も聴いているとそのぶれが意外と自分の中で自然に収まってくるというか、人物像が焦点化していく感覚があるんですね。それは、作品を聴くことでショパンのイメージが頭の中に広がってくるというのとはまた違う感覚なんです。『子犬のワルツ』を作った頃、サンドとの関係は最悪の状態だったわけですが、あのような優雅で軽やかな曲をショパンは書いているわけです。当時、彼の心情が軽やかであったはずはないわけで、そういう作品があえて作曲された創作の秘密のようなブラックボックスに、僕のショパン像のぶれがうまく収まっていくというような感覚です。
 ドラクロワの愛人のフォルジェ夫人など、極端に資料の少ない登場人物もいます。彼女の場合、残されている資料が少ないので、想像によって補われた部分が多かったですね。

●フォルジェ夫人に加え、ショパンの愛人で小説家のジョルジュ・サンド、サンドと別れたショパンに一方的に恋愛感情をもつスターリング嬢、ショパンとサンドの共通の友人であるロズィエール嬢、ドラクロワ家の住み込みの家政婦のジェニーなど、作品には魅力的な女性が数多く登場する。その中でも特に重要な人物が、サンドの娘ソランジュである。結婚と財産分与をめぐって母親であるサンドと対立したソランジュは、ショパンを何かにつけ頼りにする。ショパンもまた、時としてわがままな態度をとるソランジュに振り回されながらも、彼女の面倒を見続ける。
 ショパンとソランジュの関係は、ショパンとドラクロワ、ショパンとサンドという物語における主要な関係を取り結ぶ、補助線的な意味合いをもつ。

 ソランジュという女性は、ショパン関連の資料を精読すると悪く書かれているんですね。サンドの養女でソランジュの姉でもあるオーギュスティーヌの結婚話の破綻を仕組んだことも事実のようで、実際かなりひどいことをしているんですね。
 最初の構想では、バルザックの『従妹ベット』のベットのような邪悪な女性をイメージしたのですが、ショパンが最晩年までソランジュの面倒を見続けたことが気になりました。資料を読み込んでいくと、ソランジュはサンドと非常によく似ているんですね。感受性が強くて、親に愛されていないという思いを常にもっている女性です。行動はひどいですが、人間的な魅力はあったはずです。その部分がなければ、ショパンが死ぬまであんなにかわいがっていた説明がつきません。サンドと非常によく似た性格だからショパンも愛着を感じたのでしょう。
 サンドと別れてからショパンは彼女とほとんど連絡を取らない関係になりますから、小説を動かしていく上において、ソランジュに注目する必要が出てくるわけです。十九世紀小説において物語を動かしていく主要な動機は、恋愛とお金なんですね。『葬送』においてお金の問題で扱いがいがあるのが、持参金の問題で母親と何時も喧嘩をしているソランジュなんです。小説の物語的要請において、必然的にソランジュに重きが置かれたということは一つありますね。

■ロマン主義の背後にある問題系

●ショパンをめぐっては、繊細で感受性の強い孤高の芸術家というイメージが一般的に流通している。『葬送』でのショパンは、政治や人物の関係性に敏感で、思弁性に優れ、行動力と決断力を兼ね備えつつ、情熱と静謐さを併せもった人物として造形されている。これまでのイメージを大幅に書き換えるショパンの造形は、本書の読みどころでもある。
 ショパンの造形において特に注目した点は、ロマン主義者としてのショパンであると平野氏はいう。

 僕はこの小説の中で、ロマン主義をめぐる問題を徹底して扱いたかったんです。森鴎外に“ドイツ三部作”、俗に“ロマンティック三部作”と呼ばれる『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の初期三部作があります。『日蝕』『一月物語』『葬送』を、僕自身のロマンティック三部作というふうに位置づけて構わないと思っています。
 ロマン主義は作家としての僕個人において切実な問題を含んでいます。今後それを発展させていくにしろ克服していくにしろ、徹底した自己批評と自己検証を行い続けていかなければならないと考えています。ロマン主義は、二十世紀末まで、僕の考えではポスト・モダニズムまでつながってくる問題を孕んでいると認識しています。その意味で、ロマン主義を文学史的に再検討する試みは、僕自身の作家としてのスタートラインを検証するという意味を超えて、客観的な意味もあると考えています。
 二十世紀になされたロマン主義批判の一つに、第二次世界大戦まで連なっていく民族問題があります。一八三一年にパリに来て四九年に亡くなったショパンは、七月王政期にぴったり重なる芸術家です。時代を代表する芸術家でありながら、父親がフランス人で母親がポーランド人である彼はハーフなわけです。民族問題ということになると、彼は曖昧な立場に立たざるを得ません。ミツケビッチやミシュレのような人が唱えた、ポーランドからロシアに至る壮大なスラブ主義には違和感を抱かざるを得ないわけです。
 フランスの軍人や左派のインテリにとって、当時、ポーランド問題を議論することは、ある種のファッションだったようです。ショパン自身が政治的な人間であったとは思いませんが、否応なくその中に身を投じざるを得ない立場に置かれていたことは事実だと思います。これまで書かれたショパンの評伝の中に、その辺りの事情をきちんと扱っているものはあまり多くありません。ロマン派隆盛の当時を生きた亡命ポーランド人の芸術家を扱うのであれば、政治と芸術の問題をロマン主義という文脈から整理し直す必要があるのではないかと思います。

■十九世紀小説を再検討する

●ショパンの葬儀のシーンから始まる『葬送』は、タイトルの意味内容を含め“終わり”を志向する物語である。そこには、歴史的、文化的、政治的な意味で、“終わり”から出発せざるを得なかった近代という時代の宿命が色濃く反映しているように思われる。終わりの始まりを予言する『葬送』の作品スタンスには、近代以降の歴史を“終わり/始まり”の連動において展望しようという意図がかいま見える。

 近代というものを、文学史的に、社会学的に、政治的に、思想史的にとらえていくという興味が集約して、十九世紀中盤という時代設定になったわけです。文学史的な立場でいうと、文学は死んだ、小説は終わったというような言い方がよくされますが、そういう議論に僕は違和感を感じています。近代社会と近代小説の成熟はリンクしていて、近代社会が終焉したいま、小説も必然的に終わらざるを得ないというような非常に安易な議論ですね。しかし、それは単に近代小説の終わりということであって、どうしてそれを乱暴に小説というジャンルそのものの終わりと混同することが出来るのでしょうか?
 芸術の分野にオーソリティがあった時代には、それに反発してみせる行為はアーティスティックたりえたと思うのですが、今や破壊し尽くされた瓦礫の上に更に爆弾を落としているような状況で、そろそろ何か新しいものが構築されてしかるべき時代ではないかということは、誰もが感じているはずです。そうした時に、もっともオーソドックスなものとしてイメージされている「小説」を今一度、再検討し直す作業が新しい創造のヒントになるのではないかと僕は考えました。
 まず思い浮かんだのは、アンチ・ロマンの時代ぐらいまで敵として想定されていた、バルザックやフローベールのような十九世紀小説の書き手たちの作品です。彼らのスタイルを徹底的に検証し直す作業は重要だと思ったのですが、現代を舞台にした小説に彼らの小説のスタイルを当てはめられるかというと、それは無理だと思ったんです。小説のスタイルというのは、その時代の制度や風潮に必然的に結びついています。十九世紀の時代において実践された芸術的手法を検討するには、十九世紀の社会を舞台にしなければ再検証は不可能だという結論に達して、最終的にバルザック的な小説とフローベール的な小説の間の時期を舞台として設定することになったわけです。
 小説は基本的には絵空事の世界です。聖書やヘレニズム的な神話がヨーロッパ中に大きな物語として広がっていた時代には、芸術家はそれらをリアルな土台として、その上に何ものかを構築することが可能だったわけです。小説の黎明期である十八世紀の啓蒙主義の時代になって、聖書や神話に替わる新しいリアルな枠が必要になってきます。ラクロの『危険な関係』やコンスタンの『アドルフ』のような小説を見ると、カトリックの世界における霊肉二元論の価値基準が、精神的なものと物質的なものという世俗化された形で継承されたことがわかります。

 近代化が進行し、スタンダールを経てバルザックの時代になると、精神的な問題よりも物質的な問題に焦点が移ってきます。その時、小説という絵空事を支えるもっとも堅固なものとして機能したのは、小説と現実世界のトポロジカルな空間の同一性です。つまり、あの角を曲がると有名な店があるというような現実の町並みの参照を小説の中に取り込むことが、精神的な問題よりも重要な要素として機能してくるわけです。それは、小説というメディアが地方的なものへと変容していく最初の一歩です。コンスタンの『アドルフ』などで描かれる恋愛の心理というのは誰にでも共有されうる普遍的な人間の感情を作品の土台にしていますが、パリの具体的な場所を舞台とする小説のような場合、地区外に住んでいる人にとってイメージしにくい作品となることは否めません。
 二月革命とオスマン計画によるパリの大改造は、十九世紀後半のフランスの芸術家に大きなショックを与えたはずです。バルザックの小説などを支えていた場の参照性という堅固な土台が失われていくからです。フローベールは参照すべき場が失われた時代に、参照すべき対象を導入しない形で、ロゴスそのものの力によって『感情教育』のような作品を書くわけです。
 情報技術が発展した現代においては、百五十年前のパリの情報を容易に参照可能です。トポスと小説言説の乖離が、情報技術の発達によって克服される状況にあるわけです。当時のパリ社会の中で実際に生活して、小説を読んで現実の建物を参照して何らかの情報を得るということとは違ったアクセスの形ですが、トポスと小説の結びつきというのはかつてとは異なる密度において実現されようとしているのではないか、というふうに思います。十九世紀中盤のパリを舞台にした小説をいま書くことによって、そういうようなことを含めた検証ができるのではないかと僕は考えています。

■“憂鬱”という概念をめぐって

●『葬送』で、近代という時代に密接に関わる精神の様態としてクローズ・アップされるのが、“憂鬱”という概念である。美の本質と徹底して向かい合うドラクロワが、創作と私生活の両面において直面せざるを得ない倦怠と焦燥は、「憂鬱なるものの正体」を見極めようとする彼自身の内省を促してゆく。
 平野氏のエッセイ集『文明の憂鬱』の主題にもつながる憂鬱をめぐる議論は、現代のわれわれにとっても切実な問題を含んでいる。

 憂鬱という概念にまつわる問題を、僕は特に時間の問題において検証してみようと思いました。作中、ドラクロワが友人のヴィヨに、「時間の神クロノスが支配している限りギリシアの神々ですら憂鬱を感じなければならなかった。同じように、革命後の世界を生きている自分たちもまたクロノスの復讐を受けているのではないか」というようなことを話す場面があります。時間の直線性が到達する先は、同然のことながら死です。死という時間に向けて否応なく流されている感覚に、憂鬱という心象の発露はあるのではないかと僕は考えています。
 時間の人工性には社会の人工性が密接に結びついています。ドラクロワはよく郊外に保養に出かけます。都市から郊外に他出する行為は、それ自体ロマン主義的です。パリという都市の人工的な時間から自らを切断するという意味において、郊外に出ることと時間の問題とは密接に結びついています。
 世紀病ともいわれる憂鬱は、人間に便利な社会が構築され始めた十九世紀に強く意識されるようになってくる概念です。もともと世紀病というのは、ロマン主義の先駆的な作家であるシャトー・ブリアンが活躍した十九世紀のかなり早い段階に提唱された概念ですが、ボードレールはそれよりずっと遅れて十九世紀の半ばあたりから、その憂鬱という問題に改めて注目するわけです。ボードレールは、当時の社会に蔓延していた憂鬱のリバイバルというべき時代の気分を、詩人としてかなり鋭敏にとらえていました。ボードレールがいわんとしていたような時代の雰囲気の具体像として、ロマン派の画家であるドラクロワという人物は注目されるべきだと思います。
 ボードレールは、一八四六年のサロン評の中で“埋葬”という言葉をいち早く使っています。王政復古期から七月王政期初頭にかけてがロマン主義の最盛期ですが、一八四六年のサロン評で、ロマン主義はもっとも現代的でもっとも新しく重要な問題が含まれた表現であるというようなことを、ボードレールは突然発表します。これは非常に奇異なことで、現代の文脈に置き換えると、例えとしては不適切かもしれませんが、実存主義とはもっとも現代的で新しい思想であるというようなことを言い出したかのような印象を当時の人に与えたことでしょう。
 ボードレールが発見したロマン主義というのは、物に対する感じ方そのものにおいて新しいんですね。つまり、内面性の問題に於いて、ボードレールが発見しようとしたロマン主義というものの本質があるとするならば、僕が書く小説もまた必然的に内面的なものにならざるを得ない。結局、ロマン主義的な十九世紀小説のもっともオーソドックスなスタイルを取り入れることになりました。そしてそういう小説のスタイルから生み出されたものについては、全面的に肯定しようと考えたんです。
 いっぽうで、バルザックが書いたような小説とは異なる方法論も導入しています。たとえば建物の緻密な描写など、あえて行いませんでした。先ほどの都市空間の描出をめぐる問題とも関わるのですが、かつては存在していたが現代においては失われてしまった空間を緻密に描出することにそれほど魅力を感じませんでしたし、当時のパリの空間をペダンティックに再現するということは好事家的な感じがしたからです。

■ドラクロワの絵画技法の導入

●『葬送』には、ポイントとなるいくつかの重要なプロットが組み込まれている。たとえば、第一部の後半で加速化していくサンドとショパンの関係の破綻や、第一部の最終部を飾る完成した下院図書館の天井画と対峙するドラクロワの姿、あるいは第二部冒頭の楽曲をなぞるように描写されていく流麗なショパンの演奏会のシーン、ショパンの臨終に向けてのラストの劇的な展開など、長編小説ならではの構成の妙を作品の随所に見出すことができる。
 物語の構成と描写には、ドラクロワの絵画の制作技法を大胆に取り入れたということだ。

 ドラクロワの絵画技法の中でも、特に三つの要素を取り入れようと思いました。一つは背景の処理の簡略化です。これはドラクロワが、細部まで微塵の曖昧さもなく描き出すというアカデミーの絵画技法に対して、当時、徹底的に対立したことの一つです。背景を簡略化して描くことによって、主要なモチーフを浮き立たせるわけです。これは二十世紀にまで発展的に受け継がれる手法になります。
 二つ目は、晩年になるにつれて強くなっていく、ドラクロワの古典主義的な構成の手法です。長編小説を無限にだらしないものとしないために、念入りに構成を考えました。第一部の最後で、下院図書館の天井画を眺めるドラクロワの長い描写があるのですが、作品全体としてシンメトリーな構成になるように、第二部の冒頭にショパンの演奏会のシーンを配置しました。さらに、第一部の最後のドラクロワの天井画をめぐる思弁と対置する形で、第二部の最後にこれから取り掛かることになるサン=シュルピスの礼拝堂の装飾画について思いを巡らす場面を配置しました。
 三つ目が、心理描写に於ける試みです。ドラクロワの頃から試みられ、印象派技法の科学的な根拠となるものに色彩分割の理論があります。パレット上で色を混ぜ合わせる原色混合は見た目に暗い印象を与える手法ですが、色彩分割は色彩を画布に並列させて並べていく手法なので、網膜の上で加色混合されて鮮やかに見えるわけです。それを徹底的にやったのが印象派の絵です。僕は心理描写においてこの色彩分割の理論が適用できるのではないかと考えました。感情をそのまま書くと原色混合的な描写になってしまい、鮮やかさに欠ける気がしたんです。

『葬送』では、登場人物がある出来事に遭遇した時に、これこれこう思った、しかしいっぽうでこう思った、さらにこうも思った、というふうに心理の動きを並列的に描写していくことによって、つまり心理を色彩分割的に表現することで、読者に鮮やかな印象をもたらす効果を演出してみました。心理描写に限らず、登場人物の配置やモチーフの配置など、異なったものを明示的に並列する試みを行っています。この方向性は、方法論的にまだまだ発展の余地があるのではないかと思います。

■フランス心理小説に学ぶ

 三島由紀夫は、日本の小説の中でもっと議論する場面があってもいいのではないかというようなことをいっています。三島はトーマス・マンのようなドイツの教養主義的な会話の場面を想定していたようですが、僕はディドロの『ラモーの甥』のような十八世紀の啓蒙主義時代の議論の方法が有効なのではないかと考えました。ドラクロワが知人たちと議論するシーンなどにディドロの影響はあると思います。
 心理描写ということでいうと、二十世紀の無意識の発見というものが大きかったように思います。それまで心理と目されていたものが、実は恣意的な現象であったということが暴露されていくわけです。『葬送』の舞台となる時代は無意識が発見される直前の時代ということもあり、無意識の発見以前と以後で心理描写がどのように変化したのかということについてはかなり意識しました。心理小説の系譜をナタリー・サロートの『プラネタリウム』のような作品ぐらいまで追ってみたのですが、現代に近づくにつれて心理の秩序感はだんだんと失われていきますし、作家もまた無意識のイメージに支配されていくことになります。無意識というものを知っている現代作家が無意識が発見されていない時代の心理を当時の感覚で描くことは、それ自体、非常に困難な作業を伴いますが、その際に先程述べた「心理分割」とでもいうべき技法は、心理を極めて「意識的」に描きながら、読者の心中に「無意識的」な部分までをも喚起するという意味で有効な手段だと思いました。

●心理の描出ということでいえば、『葬送』では登場人物の内的独白が二重の括弧(『』)による直接的明示と、三人称の語りに溶かし込む形の二通りの表現が使い分けられている。心理の層化という試みは、心理小説には見られない平野氏独特の方法だ。

 内的独白の手法には、常々疑いを抱いていました。意識の流れを完全に言語化して時間の流れとして記述していくような一般的な内的独白の形は、西欧人独特のものなのではないかと思います。人間の思考の流れを詳細に検討していくと、ある部分は言語化されるけれど、ある部分はイメージだけがスルーしていくような状況があるのではないでしょうか。

 二重のカギ括弧の部分は、独白者の中である程度、明示的に言語化され思考されている部分です。心の動きとしてそういうことはあるけれども、彼らの心理の中で系統立ててそのように思考されたかどうかは疑わしい部分については、地の文に溶かし込む形で表現しました。

■長編小説を書くことの意味

 執筆に三年以上、構想を含めると四年にもなるこの小説を執筆していく中で、長編小説を書くことの意味について考えさせられました。大江健三郎さんの『私という小説家の作り方』というエッセイを読んだのですが、その中の「蘇るローマン主義者」という章に特に感銘を受けました。大江さんは、大長編を書くことはそれ自体ロマンティックなことだというふうに書かれているんですね。大江さんの言葉を正確に理解できているかどうか心もとないのですが、大江さんのおっしゃっていることは感覚的に理解できるんです。
 構想の段階で、十九世紀小説のスタイルを踏襲しようと考えた時に、必然的に長くならざるを得ないのではないかという予感がありました。また、長くなること自体に意味があるのではないかと考えました。フローベールはルーアン近郊のクロワッセという土地に引きこもって、『感情教育』や『ボヴァリー夫人』のような小説を書くわけです。フローベールは気質的には華やかな生活に憧れるようなところのあるまさしくエマ・ボヴァリー的な人なのですが、どうしてあんな風にクロワッセの山荘に引きこもって小説を書くことができたのかずっと疑問に思っていました。
 前作の『一月物語』の刊行から『葬送』の発表まで三年以上の年月が経っています。新人の沈黙として三年という年月は長いと思います。長編小説を執筆するにあたって、自分にとって切実な問題を含んでいなければ、二千五百枚もの長編に付きあうことはできなかったと思います。
 東京の文壇を離れ、京都の街中の自室でひたすら書き続ける生活は、社会との断絶を生みだします。自分の書いているテキストが自分にとってのみ有益であるというふうに考えたならば、僕は三年間の年月を耐え続けることができなかったはずです。『葬送』という作品と現代社会との結びつきに加え、現代の読者にとっても重要な問題が含まれているという確信があればこそ、疎外感に耐えられたと思うんです。おそらくフローベールも同じように感じながら作品を書いていたのではないでしょうか。そうして『葬送』という作品に向き合った日々の中で、僕は小説というものの可能性は今も失われたわけではないということを実感しました。

●そのような経緯を経て完成した長編は、未曾有の歴史小説としてわれわれの前にたちあらわれるに至った。しかしながら、ここでいう歴史小説という位置づけは便宜的なものだ。なぜなら『葬送』という小説は、ショパンとジョルジュ・サンドの関係を描いた恋愛小説であり、ショパンとサンドの家族との葛藤を描いた家族小説であり、ショパンとドラクロワという二人の芸術家の交流を描いた伝記小説であり、さらにいえば十九世紀中盤のパリの社交界を描いたサロン小説であり、二月革命前後の時代状況を描いた政治小説であり、パリの都市風俗を描いた都市小説でもあるからだ。ジャンルを包括した『葬送』という小説を、読者はどのように受けとめればいいのであろうか。

『葬送』という小説を書く行為を通して、現代という時代を描くための新しい方法を模索しようという心積もりは当初からありました。十九世紀のバルザックの時代の小説というのは、“あれもこれも”の時代でした。現代において断片主義に行かざるを得ないという部分で小説は停滞を余儀なくされているわけですが、“あれもこれも”的な世界をいま一度提示することで、小説の可能性がどれくらい開けるのか確認してみようという思いがありました。
 今後のことですが、三部作が完成したということもあり、しばらくの間、現代の日本を舞台にした短編を書くつもりです。これまで行ってきた手法は使わずに、贅肉をそいだいくつかのモチーフを元に、シンプルなスタイルでどこまで書けるか試行してみるつもりです。三部作でやり尽くした方法に依拠しない、いわば不可能性を出発点に何ができるか突きつめるような形で、自分の文学を追求していきたいと考えています。