柳美里ロングインタビュー 2003年1月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

■改訂版『石に泳ぐ魚』出版の経緯

●今年の9月25日、『新潮』(94・9)に掲載された柳美里さんのデビュー作『石に泳ぐ魚』について、小説のモデルにされ名誉とプライバシーを侵害されたとして訴えを起こした女性の上告審で、最高裁は出版差し止めと賠償を命じた二審判決を支持し、被告の柳さん側の上告を棄却した。判決確定から一ヶ月後の10月31日に、柳さんはモデルとなった原告の女性の周辺情報や腫瘍のある顔について直接的に描写した箇所を修正した「改訂版」を刊行した。
「改訂版の出版については、緊急出版的な意味あいが強いとか、最高裁判決の話題が薄まらないうちに出版する商業主義であるとか、モデルとなった女性の心情をくみ取って出版の時期を遅らせるべきであったというような報道がされましたが、私としては判決から一ヶ月後に出版したというような考えは持っていません。八年間待ち続けてようやく出版できたという思いが強いです。本訴に入る前、出版差し止めの仮処分の審理過程で改訂版を提出しました。出版に際してどこまで直すことができるのか弁護士に相談したのですが、変更可能なのは句読点ぐらいだろうといわれました。ですから今回の改訂版では、出版差し止め仮処分の際に裁判所に提出したものを変えることなく、そのまま入稿しました。
 裁判では勝利する可能性もあったわけで、もし勝ったらオリジナルで出したいという気持ちが私にも版元の新潮社にもあって、そういう意味でこれまで改訂版を出さなかっただけで、いつでも出版することはできたわけです。八年間待ち続けて、最高裁の判決が確定し、状況の好転が望みえないことがわかった段階で一日でも早く出版したかったのですが、物理的に一ヶ月かかったということです。
 最短で出したいと思ったのには、もう一つ理由があります。私が接した報道の中には偏ったものが多く含まれていて、読者に正確な情報が届いていないのではないかという懸念がありました。新聞記事を書いた記者や新聞に投稿した人、あるいはテレビなどでコメントをした人の中には、明らかに作品を読んでいない人が含まれていたように思います。作品を読みたいと思ってもテキストがありませんから、新聞やテレビで報道された情報を鵜呑みにしてしまったり、報道に疑問をもったとしても疑問を解消するすべがないわけです。

 判決の結果は覚悟していましたが、その後の一方的な報道で消耗してしまい、しばらく寝込んでしまいました。私にとってマスコミの報道は、そのくらい衝撃的だったんです。『新潮45』で連載中の『交換日記』で、その時の状況について書くつもりです。船で時化にあっているような状態で、眩暈が止まらず起き上がることができなくなってしまったんです」

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●これまで『石に泳ぐ魚』を読むには、文芸雑誌のバックナンバーを収蔵する国公立図書館や大学図書館など限られた場所で閲覧する必要があった。読者が気軽に作品を読めない環境が、作品の印象を独り歩きさせてしまう不幸な状況を生んでしまった一因となったことは否めない。
「インターネットなどに書き込まれた読者の感想を読んでみたのですが、作品を読んだ上で発言している人は稀でした。一般読者はオリジナル版を簡単に読めないので仕方ありませんが、最高裁判決後の記者会見の席で、記者が『私は作品を読んでいないのですが』という前置きをした上で質問されたことには驚きました。『私は作品を読んでいないのですが、書かれる側の痛みについてどのように思いますか』というような質問を平気でされるわけです。作品を読んでいないと質問はできないと思います。
 裁判資料を読み原作を読んだ上で、一読者として人権を侵害していると判断するのであればそれは仕方ないことですが、記事を書いた人も、投稿をした人も、テレビでコメントをした人も、ほとんどの人が作品を読んでいない状況で批評されたことはフェアではないと思います。作品を読むことをせず、弱者の人権を踏みにじっているというようなニュアンスの作品評が一方的に印象づけられてしまう。人権を踏みにじっているかどうかは、読者が作品を読んで個別に判断すべきだと思います」

■原告女性との関わり

●オリジナル版と改訂版を比較して読むと、全体にわたって60以上の変更、訂正箇所があることがわかる。ほとんどが固有名詞の変更だが、小説の核心となる里花の造型に関わる部分の修正も注意深く行われている。

「原告側から60箇所ほどの修正の指摘がありました。主人公の属性や顔についての描写が主でしたが、一つ一つ検討して、了承できない部分については直していない箇所もあります。それとは別に、ある部分の直しによって別の部分に直しの必然性が生じた場合は、先方が指摘していない場所であっても修正しています」

●『石に泳ぐ魚』裁判については、基本資料が限られている。柳さん側の資料として、『窓のある書店から』(角川書店)所収の「表現のエチカ」や『世界のひびわれと魂の空白を』(新潮社)所収の「『石に泳ぐ魚』裁判をめぐる経緯について考える」というエッセイによって、かろうじて提訴までの経緯を伺い知ることができる。
 エッセイには、最初、原告の女性は七、八箇所の訂正個所をあげたのみで、裁判でいちばんの問題となった女性の顔について具体的な描写がある戯曲部分は含まれていなかったと書かれている。柳さんの証言が正しいとするなら、初期の段階では問題とならなかった修正要求箇所が、裁判のプロセスで拡大されたことになる。
「その部分もきちんと取材してほしいと思っていたところです。私が強行に出版しようとしたから先方が訴えざるを得なかったというふうに思われていますが、それは誤りです。私は彼女と一対一で会って、彼女の要望を聞いた上で修正し、追加で直す箇所があったらファックスで送ってほしいとゲラを置いてきたんです。弁護士が入ってから、彼女と一対一の関係で話し合うことができなくなりました。その後、彼女が修正してほしいといっていた場所自体が変わってきたんです。
 私と彼女が一対一で話し合っていた頃には、裁判の争点となったプライバシーの侵害については問題になっていませんでした。『この作品が私へのサプライズ・プレゼントであることはわかる、だけどあなたが小猫だと思って贈ったものが私にとっては虎の子だった、出身大学、留学先、住所、専攻の四つが揃うと逃げ場がなくなるから二つでも三つでも変えてほしい』という話だったんです。あなたが私のことを書くなら、当然顔のことは書くと思っていた、ともいっていました。打診もせずいきなり書いたというふうにいわれていますが、私はあなたについて書きたいと彼女にいっていたし、彼女も作家志向がある人なので、私についていずれ書きたいといっていたんです」

■モデル小説を越えて

●「新潮」初出のオリジナル版に改訂を施した単行本版『石に泳ぐ魚』を、柳さんは「削除版」と言い切る。作家にとって大切なデビュー作を修正して出版せざるを得なかったことについては忸怩たる思いがあるが、修正されたものであるとはいえ、作品が出版されたこと自体に意味があると柳さんはいう。
「『石に泳ぐ魚』は暴露を目的として書かれた、原告側が主張しているような日記に毛が生えたような作品というイメージが固定してしまうことへの危機感を抱いてきました。修正されたものであっても、作品を読めば私がこの作品で書きたかったことを理解してもらえると思います。文学作品は、現在だけでなく未来の読者に向かっても書かれています。私も彼女もいつかは死にます。将来的に、作品がどういう形で残り、読み継がれていくかということは、裁判とは別の問題としてあると思います。たとえば百年後にも『石に泳ぐ魚』を読みたいと願う読者が残っていれば、オリジナル版が出版される可能性はあるでしょう。私はまだ希望を捨ててはいません」

●最高裁判決は思わぬところに波紋を広げた。国会図書館で「新潮」の掲載部分の閲覧禁止が決定されたことを受けて、閲覧、貸出、コピー禁止の措置をとる公立図書館が出始めている。これまで唯一、初出にアクセスすることができた図書館での閲覧制限は、市民が公平に情報にアクセスする権利や学術利用を目的として作品を読む権利を侵害するものだ。「私がコメントする立場にはないかもしれませんが、これは図書館の問題であるとともに読者の問題ですね。二つのヴァージョンの作品を比較して考える読者の自由が侵害されると思います。『石に泳ぐ魚』について考えるためには、オリジナル版を読むことが必要不可欠だと思います」

●『石に泳ぐ魚』が刊行されたいま必要とされているのは、多様な読み、多様な解釈がなされることではないか。たとえば里花という女性は柳さんの友人をモデルにした人物だと指摘されているが、里花の顔は主人公秀香の内面を映したものであり、里花は秀香の分身的存在ということができる。『石に泳ぐ魚』はモデル小説といわれているが、果たして本当にそうだろうか。そのような疑いを持つことで、テキストは開かれた作品となる。
「モデル小説というレッテルを貼られているから、作中の演出家は東由多加さんに違いないと見なされてしまうわけです。作中で描かれる劇団は小劇場演劇の劇団ですが、東さんの東京キッドブラザースはミュージカル劇団です。また主人公の秀香は劇団のために戯曲を書きますが、私は東京キッドブラザースのための戯曲は書いていません。設定はまったく違います。演出家の風元のモデルを強いてあげるとするなら、東さんと新宿梁山泊の金守珍さんとMODEの松本修さんの合体といえるかもしれません。改めて読み返してみると『石に泳ぐ魚』はモデル小説であると言い難い部分があります。「柿の木の男」のモデルは存在しませんし。この作品を発表した当時書かれた批評の中に、劇画的だという指摘がありました。そういわれてもおかしくないような飛躍したイメージがところどころにあると思います」

●『石に泳ぐ魚』には、その後の柳美里文学の核心となるテーマやイメージが散見される。たとえば離散状態の家族を復元すべく主人公の父親が新築の家を建てるプロットは『石に泳ぐ魚』では小さなエピソードに過ぎないが、短編「フルハウス」では作品全体の大きなテーマとなっている。また『石に泳ぐ魚』には、母親が秀香に告げる「韓国行くんなら密陽に行きなさい」という印象的な一文を見いだすことができる。密陽は作者の母方の祖父の出身地であり、現在「朝日新聞」で連載中の『8月の果て』におけるアイデンティカルなトポスでもある。デビュー作は、八年後の柳美里文学を予言していたともいえる。

「デビュー作にはその作家のすべてが含まれているということがよくいわれますが、私の場合、比喩的な意味ではなくて本質的な意味ですべて入っているように思います。その後の私の文学のすべてがあるといっても過言ではありません。私の小説の種が蒔かれている気がします。その後の私の文学のすべてがあるといっても過言ではありません。私が今まで書いた、私がこれから書く、すべての小説の種子が「石に泳ぐ魚」のなかに蒔かれているんです。当時のわたしは、何故生きなければならないのか、と問わざるを得ない状況にありました。読んでいて、その問いが、わたしの喉元に突きつけられます。何故生きなければならないのか。でも、結局、わたしは、『ゴールドラッシュ』でも、『命』シリーズでも、『8月の果て』でもそれを問いつづけているし、生きている限り、その問いをひっこめることはないんでしょうね。ですから、今後、わたしがどんな作品を書こうと、『石に泳ぐ魚』は、わたしにとっていちばん重要な小説なんです」