大道珠貴ロングインタビュー 2003年4月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

■母親的なおじいさんと道楽息子的な女性の関係を描く

──大道さんは、中学生から30代までの女性主人公と周囲の同世代の人間との関係性を多く描いてこられたように思います。『しょっぱいドライブ』では、34歳の「わたし」(実穂)と60代前半の九十九さんの奇妙な恋愛関係が描かれます。微妙な変化が読みとれるのですが。
大道 60代の男性がずっと気になっていて、作中人物として登場させてみたかったんです。70歳になってしまうと先々のことしか考えられなくなり、性や恋愛への興味は失せてしまうと思うのですが、60代なら若い世代の女性に心が向くかな、と考えたんです。60代の男性にはまだ恋愛をする気持ちがあるのに、表向きはしないような顔をしている。彼らは恋愛に期待しているはずだという確信があって、実穂と九十九さんを絡ませてみたわけです。

──この作品から、37歳の女性と60代後半の男性の恋愛関係を描いた川上弘美さんの『センセイの鞄』を連想する読者は多いと思います。年配の男性読者たちは『センセイの鞄』を“癒し系”の作品として誤読したわけですが、今回の芥川賞の選評の中にもそういう文脈が多少読みとれます。『しょっぱいドライブ』は年配男性の琴線に訴求しうる非常に戦略的な作品だと思います。
『しょっぱいドライブ』は『センセイの鞄』とは微妙に違ったスタンスから書かれた等身大の物語です。癒し系にもファンタジーにも与しない純文学的な世界観の中で、世代の異なる男女の恋愛をどう描くか。そのあたり、非常に工夫されているように思いました。

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大道 これまで私の作品のほとんどは九州が舞台でしたが、今回は土地の名前は伏せて地域性を消す方向で書いてみました。たとえば博多の街を舞台にしてしまうと、私の作品世界のパターンとして取り込まれてしまうと思ったんです。その代わりに、世代間のギャップを埋める恋愛を通して現実的な世界を描こうと思いました。性についてはあえてあからさまに書くことを避けました。その部分はふたりだけの世界としてキープしておいて、そこから先を書くのが文学の仕事だと思ったからです。ふたりの関係が成立するまでを書きましたが、実は物語が終わった後で彼らがどうなるかが問題なのではないか。そのようなニュアンスを伝える物語の終わらせ方をしました。

──最後の場面は作者として結論を出さないで、ふたりの関係を見守るような形で終わらせていますね。
大道 あの後、実穂と九十九さんはどうなるんだろうということですね。物語というのは、すべてそういうものだと思います。そこにもっていくまでが大変なんです。この作品では、なぜふたりは関係をもつことになったのか、というところまでを書いたということですね。

──この作品はさまざまな文脈から読むことができます。たとえば老人介護の問題が入っています。30代の女性が、父親の世代の男性と日常生活を営む。そのこと自体に、介護の問題は内在しています。作中には、「よし、介護してあげよう」という実穂の言葉もあります。恋愛と介護が二重化している作品というふうにもいえますね。
大道 20~30年連れ添っている夫婦を見ていると、一心同体とはいわないまでも、あたりまえのように赤ちゃんのおむつを替えるように夫をケアする奥さんというのが普通になっている。結婚前は相手のネガティブな部分をみてしまうわけですが、結婚するとほとんど気にならなくなる。同じように、ある程度人生経験を積んできた主人公は相手の気になる部分も受け入れようとしている、ということなんだと思います。介護についてもそうです。九十九さんはぼけてしまうかもしれない。下の世話は自分がやることになるかもしれない。そういう状況になったら離れようっと思いつつ、たぶん実穂は面倒を見ると思うんですね。──年配の女性と若い男性の関係の場合、こういう物語にはならないと思うんです。介護が実質、女性の手に委ねられているという社会的な問題が含み込まれているように思います。

大道 年寄りが介護されるだけということでは、する側とされる側の優位が決まってしまいます。この作品では母親的なおじいさんと道楽息子的な女性を設定することで、みじめったらしい話にならないように配慮しました。

──経済の問題も重要だと思います。九十九さんと実穂の関係がなぜ始まったのかというと、長年、九十九さんが美穂と彼女の家族に経済的な援助を与えていたからですね。実穂は九十九さんに借金があります。そのことに負い目も感じています。しかし関係が始まると、九十九さんが作ってくれた自分名義の貯金通帳を何食わぬ顔で受け取りますし、ふたりで住む家の賃料や生活費を九十九さんにさりげなく支払わせる算段をします。いかにして働かずに食べていくかということを考えたときに、長年世話になっている目の前の老人に目が行ってしまう。この感情の動きは、非常にリアルだと思います。30代の女性が自分のライフスタイルを組み立てていくときに、援助交際という枠にはめて自分の生活を設計していく物語としても読めます。
大道 結婚というのはまさに形式であって、実はその中で行われているのは、愛というものがあるふりをした売春とそれほど変わらないんじゃないか。世の中にはそういう夫婦関係もあると思います。最初のうちはセックスは楽しいかもしれないけれど、夫婦という関係を続けていく中で、後々まで性的に充足される関係を築いていけるかどうかというと、ほとんどの女性は拒否の方向に行くのではないでしょうか。日々の暮らしの中でセックスが義務化され、最初は純粋だけれど時が経つにつれて、何のためにセックスをしているのかわけがわからなくなる。それならば最初から、小金を持ち、かつ先に死んでくれるであろうおじいさんと関係をもったほうがある意味潔いというか、結婚や夫婦生活にまつわる幻想にまどわされることがないぶん健全といえるかもしれません。そういう人生の選択もあるのではないかということですね。
 お金というものは汚いものというふうに一方的に決めつけないで、お金が先行した関係のあり方というものに対する想像力をもつことも大切。おじいさんはお金をもっている。だから価値がある。そういう論理で実穂はおじいさんに敬意を払うわけです。お金があることはあなたの価値であり、わたしもあなたからお金をもらうことに恩義を感じる。それはひとつの人格の尊重のかたちなんですね。

■女性の心の深層にあるもの

──実穂の行動は常に消極的です。それは、決定事項をはぐらかし先延ばししていく彼女の態度に如実に表れています。しかしこの猶予の感覚が、物語に独特な感情の間をもたらすことにもなります。主人公の心情は常に揺れ動いています。その揺れ動きを作者の筆は正確にトレースしています。
大道 女性には、表層的な心の根底にもうひとつ流れている感情があるんです。たとえば男の人を好きになっても、それに相対する感情は常にもっているわけです。自分の中で“好き”という感情をキープし続けていったとしても、時期がくるとがたっと崩れて、底流していたモアモアッとした気持ちが表に出てきて別れたくなってしまうようなことはよくある話です。恋愛をしているときは表の感情が優先されますが、根っこの感情は抑えられている。女の人の感情というのはいくつも層になっています。でも男の人を見ていると、ほんと何も考えてないなあと思います。猪突猛進というか、好きだったら好き、嫌いだったら嫌い、男の人は底がないなという感じはありますね。ただ、無口な姿はいかにもなにか考えていそうで、善良そうに見え、好ましくもあるのです。

──作中では、主人公の胸の中にしまい込まれる言葉が多いですね。「胸のなかでしゃべっていた」「と胸のなかで言った」「口から出かかりそうだ」「あくまでも胸のなかにおさめることにした」のような表現が散見されます。実穂は言葉を内にためこんでいきますが、大道さんの他の作品の主人公にもそういう部分があるように思います。
 いま女性の重層化された感情について話されましたが、意識や感情が何重にも層化されていて、表面的には自己決定を免れている優柔不断な主人公に見えるけれども、抑圧された感情というものが絶えず彼女の現在を規定し続けているということですね。

大道 自分のことを騙しているというか、ある時期は本当に相手のポジティブな部分しか見えないんですよ。すべてが終わってその人の前で体裁を繕う必要がなくなったとき、自分の内側のこれまでため込んでいた声がせり上がってくるわけです。女の人の気持ちが二度と元へは戻らない理由の多くはそれで、別の方向にきっぱり気持ちが行ってしまうんですね。そこで男の人ははっとする。なぜ急に彼女の態度が変わってしまったんだろう、とか思うわけです。そこに男と女の本質的な認識のずれがあるように思います。女の人はいろいろな方向から考えられるし、切りかえも早いんです。

──表面に出てこない言葉の束を常に抱えているんですね。作中で主人公が「どうでもいい」と思うシーンがありますが、実は「どうでもよくない」んですね。
大道 「どうでもいい」というのは投げやりではないんです。紆余曲折を経ての寛容なんです。でも寛容と言いきってしまうといやらしくなるからその言葉は書かないわけです。主人公にそういう言葉をいわせてしまうのは、作者として傲慢ですから。

──テキストの表にあらわれない、実穂の内にため込まれた深層レベルの感情や言葉をいかにすくい取るかという部分は、読者の力量が試されるポイントでもありますね。
大道 読み取ってもらえないことが多いまま、私はずーっと作家生活を続けてきたわけです。世間がないとか、どうしてこんなに投げやりなんだというふうに誤解されてきました。自分では世間ありありやん、とか思うわけですが(笑)。小さいころから世間に苦しんできて、物を書くことでようやく救われた気がしているんですけれど、私の小説に世間がないといわれると不思議な感じがします。外側との闘いをずっと書いてきたつもりでいるから。

──世間というのは大道さんの作品では、たとえば“匂い”に表象されているように思います。今回の作品の場合、その基層にあるのは「しょっぱい」という感覚です。大道さんの作品には匂いに敏感な主人公が多いですね。匂いにまつわるシーンも多い。五感を全開して世界とコミュニケーションをとろうとしている。主人公の多くは他人とのコミュニケーションを拒んでいるように見えますが、実はコミュニケーションに飢えている存在です。

大道 匂いの要素はとても重要だと思います。女の人は匂いに敏感なんです。いい匂い、悪い匂いというのではなくて、その匂いにフィットするかしないのかという部分が重要なんです。その人とやっていけるかどうかは匂いにかかっている、と言い切ってさえいいと思います。仲良くしている人を見ると、端からみても匂いが似ていますね。そばへ行って嗅いでみても似ている。

──実穂は九十九さんに「バニラエッセンスの匂い」を知覚します。彼女にとってはシンクロできる匂いなんですね。その九十九さんですが、普通に読んでいくと頼りないおじいちゃんのように見えますが、いっぽうで老獪な人物とも読めます。
大道 60代の男性というのは、だいたいこんな感じなのではないでしょうか。30代の女の視点で書かれているから老いぼれたイメージがありますが、もしかしたら九十九さんは演じているんじゃないかということも実穂はわかっているんです。その演じた部分を可愛いとか、頼もしいとか思うわけです。お互いに演じあって、それを許しているのが恋愛なのかもしれません。

■父と娘の微妙な関係

──大道さんの作品にはあまり家族が前面に出てきません。特に、父親は既に亡くなっていたり、家族的関係の中では物語の背景に消し去られているパターンが多いですね。必ずしも父性の排除や嫌悪ということだけではないと思うのですが、物語から意識的に父親を消しているのでしょうか。

大道 父親不在とよくいわれますが、絶対に不在とは思いません。いかに希薄であったとしても、その存在を否定することはできないと思います。個人的な話になりますが、私は父から圧迫されて育ってきました。20代の頃までは父親は煙たい存在で消えてほしいと思っていましたが、30代になるといてもいなくてもどうでもいい存在というふうに距離を置いて考えられるようになってきたんです。
 これから父親とどのような関係を築いていくのか。それは小説の中だけでなく私自身の問題でもありますが、拒否だけではない関係を見つけ出していきたいと思っています。
 久しぶりに父と会うと、デートみたいな感じになるんですよ。向こうもどうしていいかわからないでうろたえている。こういうときに男親の悲しさ、かわいらしさを感じますね。娘に気に入られたくてしょうがないんですね。嫌われるのを怖がっているくせに、尊敬もされたいのでいばってしまうし

──その辺りの感覚は、実穂と九十九さんの関係につながっていますね。
大道 少しありますね。いずれ、再会した父と娘の微妙で艶っぽい関係について書いてみたいと思っています。

──『しょっぱいドライブ』というタイトルについてお伺いします。「しょっぱい」にはいくつか意味があって、一義的には海に面した漁港の塩気のある匂いや香りを表す言葉ですが、勘定高いとか嫌悪の情で顔をしかめるとか、人情が薄いというような意味もあります。「ドライブ」には道行き、心中の意味が込められているということですが。
大道 そうですね。しかもそのドライブは女の人のことをあまり考えていないものなので、同じ場所を何度もぐるぐる回るわけですね。主人公をいたわるいいおじいさんなんだけれど、その先に冒険があるようなデートはしてくれない。

──行き場のないデートですね。彼らは何もやることがないんですね。何も起こらない日常に放り出されている感覚があります。
大道 おじいさんがこの町から出ていかないことには理由があります。山口県の海沿いの町をモデルにしたのですが、山口は立身出世の土地柄なんですね。男の人たちにはどこかにプライドをもっているんです。吉田松陰が出たような土地に対する誇りがあるんです。出ていけないのではなくて出ていかないんです。過去に傑出した人材が出たことだけを自分のプライドに重ね合わせるようにしてもっている。男ってそういうことで自分が偉いように感じるんです。

■分析者としての子供

──収録作の『富士額』は14歳になる中学2年生の少女と26歳の相撲取りの話です。『しょっぱいドライブ』同様、コントラストのある不思議なカップルの組み合わせですね。
大道 2年ほど前に書いた作品です。突拍子もない組み合わせとか、こういうシチュエーションをよく思いついたとかいわれるのですが、九州場所が始まると相撲取りは街に繰り出しますから、私としてはそれほど違和感はない世界なんです。中学生がなぜ相撲取りとつき合えるのかというのも、自然な感覚としてあります。私がちょっと不良っぽくしていた13歳のころ、中学3年生でおばさんっぽい人が近くにいたんです。その人は学校からもほとんど無視されていて、近所の酒屋のおじさんの愛人みたいなことをしていました(笑)。どう見てもおばさんの雰囲気なんです。でも普段はセーラー服を着て歩いている。不思議な人でしたね。私の認識を揺さぶった人でした。
 そういう経験が、この作品を書く出発点にはあります。私の周りにはそういう不思議な人が当たり前の顔をしてたくさんいたんです。子供みたいな喋り方しかできないおじちゃんとか。周囲からそっぽを向かれているんですが、そのおじさんを見ると悲しくて涙が出そうになるんです。誰かに話しかけたくてしょうがないのに、誰からも相手にされない。

──大道さんの作品に出てくる中学生は大人の世界をよく見ていますね。大人の行動の隅々を、観察者として見ています。
大道 小さいころから周りをよく分析していましたね。母親は無感覚で何も考えていない子供だと思っていたようです。泣かないしわがままも言わないし淡々と生きているから、育てやすかったようです。外の世界に訴えることがなかったから。休みたくても休んだらいけないという信念で学校に通っていたんですが、親としてみれば何の不満もなく健康で通っているように見えるわけです。

──抑圧をスルーさせるために、自分なりの流儀で日常を乗り切っていたわけですね。
大道 何か事件を起こしたら、自分で始末をつけなければならないということがわかっているんです。腹が立って何かを壊してもそれを掃除するのは自分であることを知っている。だから、最初から下手なことはやらないし、別の方向に気持ちが行くということですね。

──たとえば、いじめによってそのような処世術を身に付けざるをえなかったということではなくて、個性、あるいは資質として大道さんに備わっていたということなんでしょうか。
大道 周囲のことを自分なりに分析していく目線はずっとあったように思います。元々の性質がそうだったんですね。どこに行っても同じような目に遭うので、これは自分が悪いと思うしかない。

■善意の背後にある悪意

──『タンポポと流星』はふたりの20代女性たちの密着感のある関係を描いた作品です。嬉野毬子という特異なキャラクターの造形の勝利だと思いました。毬子は常に主従関係の上位に立って厚意を押し付ける。しかしながら、相手への依存度が高い人物です。
大道 これは私の現実です。こういう人間が周りにいました。中学時代にふたりの女の子からしつこく付きまとわれた経験があるんです。性や宗教が絡んだ友情とは一言でくくれないろどろしたものがあったのですが、この作品ではそういう部分は書かずに、ふたりの女の子との関係だけを抽出して毬子のキャラクターに投影してみたということですね。
 この作品を書いていたころ、福岡県で看護婦4人による保険金殺人事件がありました。まさにあのような世界の中での関係ですね。周囲の人間をどんどん巻き込んでいくわけです。関係を絶とうとするけれどそれができずに、相手に利用されるままずるずると関係が続いてしまう。自分の方から利用されに彼女に近づいてしまう。不思議な関係ですね。
 福岡の事件では男はダメだという点で彼女らの意見が一致するわけです。ダメ男の夫イコール殺してもいい夫、というふうに思考が流れていくわけです。私には彼女たちの思考の動きがよくわかります。

──主人公の灰田未散が付き合う木崎裕治はまさにダメ男ですね。幼児性をもった男として卑小化されています。
大道 恋愛関係が結べない男の典型ですね。母親から溺愛されて大切に育てられたがゆえに、感情の訓練ができていない。そういう男の子が恋愛すると、木崎のようなかたちになるのだと思います。女の気持ちをほとんど考えていない。理解しようともしない。ただやりたい一心で女性と付き合う、ということでもない。ひと言でいうと、すべてになあなあなんですね。

──未散が働いている先物取引の会社の同僚の三人の巨漢女もまた、矮小化されて描かれます。昨年刊行された『裸』という短編集に収録されている『スッポン』という作品にも、相互依存的な関係をつくって善意を押し付けてくるパート仲間の主婦が登場します。善意を装った悪意をうまく表現されているように思いました。
大道 女の人は基本的に親切です。でもその親切の向け方に無意識の悪意が込められていることが多い。家にあった残り物をあげるような、そういう親切を押しつけるんですね。夫が魚をたくさん釣ってきたからそれをおすそ分けするというのは、要するにいらないからですよね。いらないものをそんなにたくさん釣ってくるな、食べるぶんだけ釣れと突っ込みを入れたくなります(笑)。でもそれをありがたいこととして受け入れなければならない。そういうことが積もり積もるとだんだん腹が立ってくるわけです。

──親切を押し付けることがコミュニケーションだと思っているわけですね。
大道 親切や気配りを装っているんです。それが悪意であることに気づいていない。本当の親切というのは、その人が見ていないところで何かをやってくれて、長年たってそのことの意味が伝わるということではないでしょうか。やってあげたのに、と女はきますからね。そういう人には関わらなければいいのですが、たまにすみませんとかありがとうございますとか言っちゃうわけですね。そういうきっかけを作ってしまうと、世話を焼き始めてくる。そしてお仕着せの関係から逃れられなくなっていくわけです。

──天馬茜もこういう人っているよなあ、と思わせるキャラクターですね。

大道 そうそう。いますよね、こういう人。

──そういうふうに読んでいくと、『タンポポと流星』はいろいろな個性の女性が登場する作品といえますね。主人公は馴れ合いや依存的な関係を嫌悪していますが、それを完全には否定できない弱さもいっぽうにある。そういう人間であることを知った上で、鞠子は介入してくるんですね。
大道 未散が鞠子から頼られているというのもあるのですが、頼られたら頼られた分だけ返さなければならないという信念をもっているんですね。

──主人公の立場になって読んでいくとやり切れない部分がありますが、全編を覆うユーモアが救いをもたらしています。
大道 小さいころに気づいたんです。あまりに悲惨なことを言うと、顔を背けられてしまうということを。苦しいことをたくさん経験してきたけれど、突きつめれば皮肉を通り越して笑いしか残っていない。あきらめの笑いにも近いのですが、そこまでいかないと人は読んでくれないし、作品としても弱いのではないかと思います。

──最新作『ガソリン』(『文學界』2003・2)は、大道さんの作品では初めて男の子が主人公ですが。
大道 この作品は圧迫されずにすくすく育っている男の子のお話です。男の子と女の子はぜんぜん違いますね。女の子は無意識を突きつめていきますが、男の子は意識のところでしか生きていない。その部分は意識して書きました。

──大道さんは受賞後の会見で、児童文学に挑戦したいと語られています。大道さんの作品において“子供”は重要なファクターです。人生において大切なことはすべて子供時代に起こっていて、幼少時の記憶を想起して編集するプロセスこそが小説を書く行為につながっている。大道さんのこれまで書かれた作品を読んで、そのような印象をもちました。
大道 過去というのはすでに終わったことだからもう変わらないというふうに考えていましたが、そういうことではないんですね。頭の中にあることだから、変えようと思えばできるんです。たとえば母親が言っていることと私の記憶していることは、まったく違います。思い出の共有の仕方が違うんですね。過去は変わっているじゃないかとさえ思います。過去さえも変わるのなら、現在の一瞬だって不確定です。最近そういう感覚をもちます。過去と現在と未来がつながっているとは思えないんです。