もう1度観ようか迷っているアナタのための新編『まど☆マギ』論!

アニメ

公開日:2013/11/10


【はじめに】
 公開から2週間、未だ興行ランキングの上位に君臨し、当媒体でも舞台挨拶、出口調査と、すでに2度ほど紹介している『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』。
絶大な支持を受けながらも、同時に従来のファンにも戸惑いを抱かせるこの作品。賛否両論渦巻く『新編』に感じた違和感、それでもなお抗い難い魅力について、今度はテレビシリーズからの流れを踏まえて考えてみよう。

【『新編』に感じた違和感】
 さて、問題の『新編』。ネットでの評判や観賞後の周囲の顔色を窺うと、賛否の「否」の方であっても「怒り」や「拒否反応」というより「どんより」「モヤモヤ」といった印象が強い。テレビシリーズ序盤の「マミさんショック」をくぐり抜けた強者ぞろいのファンだけに、今さらちょっとやそっとの鬱展開には驚かない虚淵耐性が出来ているはずなのだが、今回はそういった直接的なサプライズとはひと味違う、ズシンと胃にもたれるボディブローの様な効果があったと見受けられる。

【テレビシリーズの開かれたエンタメ性】
 既に、ネット上でも溢れる『まど☆マギ 新編』評だが、今回の作品に乗れたか/乗れなかったかを考える上で、最も興味深かったのがライター安田理央さんによる『40代からのオタク入門 第1回 “おじさんには居場所がない!”――『まどか☆マギカ』にハマれなかった理由』(リンク先はこちら)だ。

 この中で安田氏は、旧劇場版(内容的にはテレビシリーズに準ずる)も『新編』も、その閉じた世界ゆえに同じ様に馴染めなかった、そこには「おじさん」の居場所はないと語っているのだが、安田さんと同年代の筆者はもう少し違う感触を抱いた。ちなみに筆者は、テレビシリーズを観て大いにハマったのだが、さほど萌え指向がある訳でもなく、蒼樹うめ画伯による個性的なキャラクターデザイン(それこそホームベース状の!)には当初違和感を覚えたクチだ。

 それでも『まど☆マギ』に魅了されたのは、このテレビ版には非常に親切というか、サービス精神旺盛というか、物語上に強烈なフック、魅力的な謎、サプライズが仕掛けられており、いわゆるキャラ萌えを指向しない層を繋ぎ止める要素が準備されていたからなのである。

『まどか☆マギカ』テレビシリーズにおいては、
●序盤に訪れるメインキャラの突然の死
●明かされる「魔法少女」が過酷な戦闘に耐えうる理由
●人類進化と「魔女」の正体・インキュベーターの目的
●謎に包まれていたほむらの真意~絶望的無限ループの末に主人公・まどかの下した決断
など、キャラ萌えやビジュアル&エモーショナルな部分を抜きにしても、引き寄せられる作りになっていたのだ。

【閉鎖され、より純度を増した『新編』】
 で、新編であるが、これがそこまで親切ではないのである。もちろん、スケールのデカい大ネタやドンデン返し、序盤を引っ張る謎もあるが、それら全てが5人の少女の感情から起因し、5人の関係性の中で完結している分、共感出来るか否かのハードルは高い。前述の安田氏的に言えば、ここでグンと「おじさん」を疎外する「乙女」指数が上がったとも言える。

 ちなみに、テレビシリーズで筆者が最も惹き付けられたエピソードは、中盤のクライマックスである、さやか/仁美/上条くんの三角関係から巻き起こる悲劇なのだが、これはもちろん脚本の虚淵氏も大いに影響を受けた昭和〜平成初期『仮面ライダー』に端を発する「人でなくなってしまった者の悲しみ」という要素も大なのだが、それ以上に『まど☆マギ』における唯一の「魔法少女」でない他者、一般人、外の世界と絡むエピソードであるという事が重要なのである。魔法云々と関係なく、さやかの抱く愛情、嫉妬、絶望というものは、誰しもが自分の事のように感じられただろう。

 また『新編』においては、当初少女達のモチベーションのひとつでもあった「世界を脅かす脅威(この場合は魔女)から人々を守りたい」という気持ちは、ほとんど見えなくなり、魔法少女の活躍により命を救われるモブキャラクターなどは存在しない。生身の人間との軋轢もなく、クローズアップされるような一般市民も出てこない。少女たち5人のパーソナルな関係に耽溺した世界は、より美しく純度を増しているが、その彼女たちだけの世界に自己をチューニング出来なければ面白くもなんともないのも確かである。

【モヤモヤの先に、不意に訪れた転向】
 などと言うと「お前は『新編』がつまらなかったのか」と思われるかもしれないが、応えはYESでありNOである。実際、台風の中駆けつけた初日の上映では、正直中盤以降の展開には「だからなんなの?」と醒めてしまったのも確かだ。前述したように、あまりにも俗世で日々の生活を送るおじさんにはハードルが高い。
 しかし、一度チューニングが合えば、夢の様な世界に酔う事が出来る。一週間ほど間を空けて、再度劇場に足を運んだところ、これが嘘の様に入り込めてしまった。ストーリーを追わなくていい分、ビジュアルに身を任せ、画面に散りばめられたアイコンを自然にキャッチ出来たのが大きかったのだろう。

【奔流するイメージと、浮かび上がる核となるテーマ】
 スタッフは、もはやリアルな現実世界の描写を捨て去り、スクリーンにはひたすら魔法少女5人の目に映る世界が描き出される。テレビシリーズでは、魔女の結界を描いていた劇団イヌカレーの美術は、ついに映画全体を覆い尽くし、作品を一本のアートフィルムと化している。テリー・ギリアム、ティム・バートン、さらにはヤン・シュヴァンクマイエルすら思わせる圧倒的なイメージの奔流(クライマックスでは仏の使いを思わせる象の姿も!)

 その中で頻出するのが、彼岸花のイメージ。「彼岸」、仏教用語で言うところの、悟りを開いた先に到達する「向こう岸」である。

 テレビシリーズ『まど☆マギ』に於ける、インキュベイターの目的は「エントロピー増大の克服」であり、その為に設けられたのが「魔法少女」から「魔女」に至る、質量保存の法則を越えてエネルギーを取り出すシステムだが、最終話でそのサイクルを無効にしたのが新たなる創世主たる、まどかだった。まどかは、仏教で言うところのカルマを断ち切り、魔法少女の魂を彼岸/浄土へと運んだ。

 ここに永遠の平穏が訪れたかと思われたが、それに対してNOを突きつけるのが『新編』である。

 カルマからの解脱は一切の「執着」を断ち切る事でしかなされないが、「憎しみ」だけでなく相反する「愛」もまた「執着」であり、断ち切るべきものである。しかし「愛」なくして生きる意味があるのか? 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』は、少女の「執着」の物語であり、神に反旗を翻す、人間性の回復の物語でもある──。

【おわりに】
 そんなわけで、初回で「どんより」してしまった方には、ぜひとも2度観をお勧めしたい。むしろ結末まで知っている方が、『新編 まど☆マギ』の世界に浸れるとも言える。スクリーンで再度、116分の悪夢<ナイトメア>を楽しんで欲しい。腑に落ちる度合いが全然違うだろう。

(文=柳井洋二)