人生疲れ気味のあなたに読んでほしい 深呼吸したくなるような山小説―北村薫インタビュー

新刊著者インタビュー

更新日:2014/6/6

山でしかできないことと
山でやってはいけないこと

 それにしても驚くのは、近頃の登山を巡る事情の変化である。

 昔の山小屋といえば本当に寝起きするだけの施設でごろ寝が当たり前、食べ物もカレーライス一択という、お世辞にも快適とはいえない環境だった。

「森村誠一先生の山岳エッセイなどを読んでいると、昔の山小屋は本当にひどかったみたいですが、今は山小屋で肉料理と魚料理を選べたり、街場のレストランも顔負けのおいしさだったりするようです。時代はどんどん変わっているのでしょうね」

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 だが、変わらないこともある。山上においては今でも水や燃料は貴重品だし、他の登山者の迷惑にならないよう振る舞わなければならないという鉄則は不変だ。

 そして、何より心に留めるべきは、山は本来的に危険な場所なのだということ。

「たぶん、この作品を読んで登山に興味を持ち、実際にやってみようと思われる方もいるでしょう。なにせ、僕自身も『ここは一つ登ってみるか』という気になったぐらいですから。それはそれで、著者としては本望です。でも、あえて言っておきたいのだけれど、漠然とした憧れだけで山に登るのはやめてほしい。主人公もやっている通り、本格的な登山に挑戦するには、ある程度の期間、きちんと訓練を積んでからでないと本当に危ないのです。リゾート地と違い、今日思いついたから明日行ける、という場所ではありません。うかつに入山すると、重大な事故につながってしまいます。そこだけはくれぐれも理解してください」

 主人公も、ちょっとした準備漏れのせいであわやの事態に遭遇してしまう。小説だから思わぬピンチでも登場人物と一緒になってドキドキするだけで済むが、現実はそうはいかない。

 だが、先人たちが命を守るために編み出してきたルールやマナーをしっかり守れば、山は下界では絶対できない体験を皆に平等に与えてくれる。

「ふかふかの新雪が積もった裏磐梯で、いい大人たちがきゃあきゃあとはしゃぎながら雪遊びに興じたりね。都会でそんなことをやったら、おかしい人扱いですが、山ならば許される。道をすれ違う人が飴玉をくれて、それを素直に受け取れるのもやはり山ならではでしょう」

 見知らぬ人との一期一会や思わぬ再会があるのも山だ。だから、“わたし”は単独行を好む。

「一人で行くから楽しめる出会いというのはあると思います。それに、同行者がいなければ、ただ寡黙に、足を前に出すのを繰り返すだけ。単調な作業が続くと、人はいろいろと考え始めます。自分の過去に向かい合いたいと思っていても、日常ではなかなかできない。しかし、山なら自然とそれができるのではないでしょうか。そして、肉体をいじめることで、心は逆に解き放たれていきます」

 いつも、物語のラストは書き始める前からしっかり見えているという北村さん。だが、本作は少々勝手が違ったという。

「たとえば『ターン』という作品の場合は、最後の一言を言わせるために物語を書いたようなものでした。他の小説でもキーワードになる言葉があって、それに早く辿り着きたいと思いながら筆を進めていくのですが、この作品の場合、最後の言葉はなんだろうなと模索しつつ書いていった感じでした。山を登り続けた果てになにかが見えてくれば、そして彼女にとって意味のあるひとつの場所に辿り着ければいいなと思いながら。半分以上を過ぎたところで、やっと見えてきましたね」

 大団円があるわけではない。もしかしたら、何も解決していないのかもしれない。だけど、心がふぅと緩やかになるような、そんな結末が待っている。それはとても優しい。

 一日が目まぐるしく過ぎていってひと月となり、ひと月が積み重なって一年となる。

「そんな一年の中で山に登った数日、つまり日常というページからは切り取られた数日間が、残りの359日ほどを別なものにしてくれるし、そして次の何百日に向かうためのステップになります」

 若いころには思いもよらなかったような人生の壁にぶち当たっても、逃げてはいられない年代にとって、山を歩くことで日常的に溜まっていく心の澱を浄化していく彼女の姿に、つい自分を重ねあわせてしまう。

「僕にとって、小説を書くというのは何らかの語りたい思いを普遍化する作業なのです。だからそう感じていただけたのだとしたら本当にうれしいですね。胸から胸に渡せたということになりますから」

取材・文=門賀美央子 写真=西郡友典

紙『八月の六日間』

北村 薫 KADOKAWA 角川書店 1500円(税別)

文芸誌の編集者として忙しい毎日を過ごす“わたし”。充実感を得ながらも、心には疲労がたまりつづけ、3年前に付き合っていた彼と別れてからはプライベートも冴えない。そんな時、ちょっと変わった同僚に誘われて登った山で、奇跡の一瞬を迎える。下ろしたい心の重荷を抱える人に読んでもらいたい、著者3年ぶりの連作長篇小説。