大江健三郎 Interview long Version 2005年9月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

小説家としての再出発。
≪後期の仕事(レイターワーク)≫として書きあげた
チェンジリング三部作

大江健三郎さん自身「チェンジリング三部作」と呼ぶ『取り替え子(チェンジリング)』(00年)、『憂い顔の童子』(02年)、『さようなら、私の本よ!』(05年)がこのほど完結した。老年を迎えた作家長江古義人(ちょうこうこぎと)をめぐる受難と再生のプロセスを描いた三部作は、≪最後の小説≫と銘打たれた『燃えあがる緑の木』三部作(93~95年)刊行以後、大江さんが強く意識することになる「老年」という問題系に実践的にアプローチした作品といえる。
大江さんにとって『燃えあがる緑の木』からの10年間はどのような時間だったのだろうか。

「90年代初めから『燃えあがる緑の木』を構想し始め、各部を発表して、最後の巻は95年に刊行されました。僕は『燃えあがる緑の木』を自分にとっての≪最後の小説≫と考えていました。若いころから小説を書いてきましたが、年をとったら小説をやめて学問をしたいと思っていたんです。具体的にいうと、オランダの哲学者スピノザを中心に思考と認識の歴史について考えてみるつもりでした。60歳までに自分としての≪最後の小説≫を完成させ、その後の10年ぐらい学問に打ちこむ、そんな生活をイメージしていました」

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そのような時期に、大江さんはノーベル文学賞を受賞する。

「94年にノーベル賞をいただきました。受賞後の1年間は忙しかったものですから、小説のことを考える時間はありませんでした。次の年ぐらいからスピノザを読み始めて、96年にはプリンストン大学で教鞭を執りました。そうした生活を続けるうちに、もう一度小説を書こうという気持ちになってきたんです。結局、僕は小説家であって、それ以外の仕事には向かないことがわかってきた。ノーベル賞受賞後は、国内外でさまざまな質問を受けます。当然、自分の作品を読み返します。これまで書いてきた小説をもう一度検討し直し、小説家として再出発したいという気持ちが芽生えてきました。そして『燃えあがる緑の木』の主題を異なる方法でやり直して『宙返り』(99年)を書きました。96年には武満徹さん、97年には伊丹十三さんが亡くなられたということもあって、自分にとっての晩年を意識した小説を書くことに気持ちが向かっていきました。それが『取り替え子(チェンジリング)』です。『取り替え子』の執筆前後に、エドワード・W・サイードさんとよく会っていました。芸術家がその晩年に新しいスタイルの表現へと向かうというサイードさんの≪後期の仕事(レイターワーク)≫の構想に影響を受けました。そして自分にとっての≪後期の仕事≫として、チェンジリング三部作を書きあげたわけです。
晩年を意識した作家はわずかです。たとえばドストエフスキーの晩年の作品『カラマーゾフの兄弟』には、老年の小説家のイメージはありません。三兄弟の父親フョードルはやけくその老人を演技していますが50代の設定です。三男のアリョーシャは20歳です。作家の目は老人ではなく青年や壮年に向いています。本当の意味での老人小説は数えるほどしかありません。戯曲でいえばシェークスピアの『リア王』が最大の老年文学です。
老年と無縁だった作家として三島由紀夫さんがいます。三島さんは天才少年として仕事を始めて、三島青年として書き続け、最後の小説は限りなく青年に近い壮年の三島として書いたものだと思います。三島さんには老年の自覚はなかった。三島さんは作家としての人生の前半を生きた人だと思うんです。そこで大きな仕事をした。しかし前半のみの人生であったがゆえに、三島由紀夫という偉大な作家像の半分しか彼は実現できなかった。『さようなら、私の本よ!』の中で「ミシマ問題」という形で提示される批判は、三島由紀夫という作家個人に向けられるものではなくて、三島的なるもの、つまり日本人の記憶の中にかたちづくられた三島のイメージに対するものです。日本中心の思想が美的なものを繰りこむ形で、政治や天皇制に結びついていく。そのような三島のイメージが消費されていく過程で、右翼的なクーデターが発生するようなことがあるかもしれない。そうした危険な要素として三島のイメージはありえます。古義人は、そのようなイメージは無効であり意味がないと考えているわけです」

新しい生き方をした
僕たちの世代のことを
子供たちに伝えたい

『憂い顔の童子』と『さようなら、私の本よ!』の間に、大江さんは『二百年の子供』(03年)を発表する。『憂い顔の童子』に登場する時代を越える童子のイメージは、近代・現代・未来の時間軸をタイムマシンで往還する三人きょうだいの物語『二百年の子供』の主題につながっている。

「確かにそのように『取り替え子(チェンジリング)』『憂い顔の童子』を書いて、そのまま『二百年の子供』につないだわけです。そして『二百年の子供』は『さようなら、私の本よ!』に結んでいます。『二百年の子供』では、障害をもつ子供を中心にした生活をひとつの柱にして、僕の村の歴史をもう一度子供たちに分かりやすく語り直しました。その調整が『さようなら、私の本よ!』を書くために役立ったと思います。子供に語るためには、まず自分の世界を明快に理解する作業が必要ですから」

そしてもうひとつ、この時期、大江さんが積極的に行ってきたこととして、若い世代との交流がある。大江さんは国内外の子供たちに積極的に語りかけるとともに、作文の添削なども行ってきた。

「プリンストン大学で教えている期間に、日本人の子供たちに講演を行いました。ベルリン自由大学で授業をもっていたときにも、同じような主題でベルリンで働いている日本人の子供たちに話をしました。これまで自分が文学を通してやってきたことを子供たちに話すわけですけれど、子供たちはさまざまな疑問を提出してくれるんです。帰国後もいくつかの学校で話をしました。子供たちとの対話を通して、子供たちが興味をもつ僕自身の経験に根ざした主題を見つけていきました。それを『「自分の木」の下で』(01年)と『「新しい人」の方へ』(03年)というエッセイ集にまとめました」

子供たちとの対話も、大江さんの≪後期の仕事(レイターワーク)≫につながっている。

「僕は教師として生きた期間がないので、子供のことがよくわからないんです。将来の日本を背負う子供たちに向かって、僕たちの世代が何を考えているのか伝えたいという思いは以前からありました。特別に僕は生きた時代に影響を受けている人間です。戦中・戦後体験がなければ、いまに到る生き方をしなかったことははっきりしています。10歳までは戦時下の村の子供だった。もし日本が戦争に負けていなかったら、僕は祖先と同じように村で生きて村で死んだはずなんです。当時、村の外に出ていこうというような気持ちはまったくありませんでした。兄ふたりは松山の学校に通っていましたが、戦争末期に父が亡くなったということもあり、母からあなたは学校には行けないとあらかじめいわれていました。国民学校を卒業したら、父親と取引のあった紙問屋で働くことを勧められました。
戦争が終わって3年ぐらいは国じゅうが波打っている状態で、面白いできごとがそれこそ毎日ひとつは起こるわけです。アメリカの兵隊がジープに乗って村にやって来る。天皇の人間宣言がある。新しい憲法ができる。村に新制中学校ができ、そこに行けるようになる。大きな変化に日々接しているうちに、自分の村から出て仕事ができる気がして、ある日そうしようと決めたんです。ではどこへ行くか。外国に行こうと。そのためには外国語を勉強する必要があります。田舎で外国人はいませんから直接習うことはできません。それで英語の本を読むことにしたんです。中学2年から英語の小説を読み始め、高等学校に通うようになるとアメリカの占領軍がつくった図書館に行って読みました。
戦争が終わって5、6年で、村の子供の生き方がすっかり変わってしまったわけです。母は高等学校を卒業後は、村で仕事をしてもらいたいという希望をもっていました。村の森林組合で仕事ができるような準備もしてくれていたようです。僕は母にこういいました。家の前の道を歩いていけば別の場所に行ける、だからこの道をずっと進んでいって、世界のいちばん遠いところまで行くつもりだ、と。戦争中、筆記具がなくて、子供たちは森から蝋石(ろうせき)を探しだしてきて岩をノート代わりに勉強していました。僕も蝋石をもっていたんですが、母はそれでは自分が行くことができたいちばん遠い場所にその蝋石で、健三郎を表すサインとしてと書いてくればどこまで行ったかわかるから書いてくればいい、といいました。僕は世界のどこに行ってもと書いてやろうと思った。そのことをベルリンで話したら、学生たちが面白がって僕がと書いている写真を撮ってくれました(笑)。
四国にある小さな村に住むひとりの子供が上京して、大学に通い、フランス文学を勉強して、小説家になり、外国にも行くことになった。日本が戦争に負け、新しい憲法ができ、社会の仕組みが変わったからこそ、外の世界に向かって進むことができた。同じような境遇にあったのが、たとえば井上ひさしさんですね。井上さんとは高等学校で同級だった憲法学者の樋口陽一さんもそうです。僕らは戦争が終わったとき子供で、戦後の急転する社会の中で新しい生き方をしてみようと考えた若者の世代です。自分はそういう世代の人間であることを、子供たちに話してみたいと思ったんです」

滑稽な老人と
カタストロフィ。
三部作の完結でめざしたもの

『さようなら、私の本よ!』の冒頭で、前作の結末で瀕死の重傷を負った古義人の生還が読者に示される。『憂い顔の童子』のラスト、安保のデモ行進を復原するパフォーマンスに参加した古義人は、半ば自覚的な行為によって頭部に重傷を負う。生命の危機を脱し入院中の古義人に、幼少時からの友人である椿繁(つばきしげる)から連絡が入る。長年アメリカの大学で建築学を教えてきた繁は、かつて自分が設計した古義人の北軽井沢の山荘を引退後の行動の根拠地として、大患後の療養の必要な古義人と共同生活を行うことを提案する。『さようなら、私の本よ!』では、「小さな老人(ゲロンチョン)」の家、「おかしな老人(マッド・オールド・マン)」の家と名づけられた山荘に住む古義人と繁の奇妙な関係と、彼らが若者たちを巻きこんで引きおこす道化じみた愚行の数々が描かれていく。大江版≪後期の仕事(レイターワーク)≫の実践としての老年文学には、意外な“若さ”と“明るさ”がにじみ出ている。

「日本で老人小説というと、谷崎潤一郎の『鍵』と『瘋癲老人日記』が想起されます。『鍵』は谷崎が70歳の時、つまり現在の僕の年齢で書いた作品で、『瘋癲老人日記』は75歳の時の作品です。小説の中で老人を扱う場合、不思議な観察者として老人を設定し、若い女性のエロスに巻きこまれて道を踏み外す谷崎タイプの作品がイメージされがちです。僕はそういう形ではない、少年期、青年期、壮年期からずっともち越しているものがあって、いま老年といわざるを得ない年齢に達しているけれど、そうした一生の問題を負債のように抱えている老人を書こうと思いました。
古義人にしても繁にしても、滑稽な老人として書きたかった。子供番組には滑稽なふるまいをする老人がよく出てくるんです。たとえば『おかあさんといっしょ』の人形劇『ぐ~チョコランタン』に、ガタラットという200歳の小さなおじいさんが出てきます。彼は気違いじみた老人なんです。とんでもないことをしでかす老人ですが、知恵があって子供たちに愛されている。僕はガタラットのような人物が好きなんです(笑)。
読者が“若さ”を感じるとするなら、古義人や繁の滑稽な行動からというより、小説の技法と文章とからなのではないかと思います。これまで小説の中でさまざまな手法を実験してきました。その経験から『さようなら、私の本よ!』にふさわしい手法を作りだした。僕は、自分がさきに表現したものをすべて新作に反映させるような小説の書き方をしてきました。複雑に構造化された文章の読みにくさを批判されたこともありました。今回も、いったんそのような形で書きましたが、よく書き直して、雑誌に発表した後も、さらに書き直して、文章の風通しをよくしようと心がけました。文章を部屋とすると、風通しがよく、日の当たりもよく、全体を明るく見通せるようにしたいと思いました。今回の三部作は、後の作品になればなるほど文章が軽くなって、明るくなっていると思います。その軽さ、明るさを“若さ”と言い換えることは可能だと思います」

小説の書き方の変化ということでいえば、『取り替え子(チェンジリング)』『憂い顔の童子』が書き下ろし作品であったのに対し、『さようなら、私の本よ!』が3回の雑誌連載ののち上梓されたという点も大きな変化だ。

「確かに前の二作は書き下ろしです。書き下ろしの場合、もちろん何度も原稿に手を入れますが、基本的に全体の形は変わりません。『取り替え子(チェンジリング)』の場合、1000枚ほど書いてそれを500枚まで縮め、さらに加筆して現在の長さになりました。書き直しで最初に書いていたシーンを削除したり、シーンを入れ替えたりすることはありますが、全体の構造が大きく変わることはありません。『さようなら、私の本よ!』は三部構成ですが、各部を書いて発表する時点では、以後の展開を考えないでいました。第一部を完成させて雑誌に掲載する。それから第二部の締切りまで3カ月ぐらいの時間があるわけです。その間に第二部を構想し、執筆する。第二部を書いている間も、第三部がどうなるか考えませんでした。
そしてとうとう第三部の構想を立てる段階になって、大きなカタストロフィを書きたいと思ったんです。古義人も繁も彼らにかかわる若者たちも大きな危機に直面し、小説全体が爆発するようにしたいと考えました。サイードは、同時代の既成の概念を破壊してしまうような荒々しい段階に芸術家が入りこんでしまうようなもの、晩年のベートーベンの弦楽四重奏曲やイプセンの芝居などが≪後期の仕事(レイターワーク)≫の代表作であると書いています。僕も第三部は繁はもとより古義人、小説を書いている作家自身も危なくなるような段階まで突き詰めたいと思いました。しかし小説を50年も書いていると、このように書き進めていったら小説として完結しないということが感覚としてわかるんです。そこで勇敢な小説家であれば、完結を諦めて破綻へと突き進むわけですが、僕にはそのような勇気がなかった。
ここで思いだすのは、『特性のない男』を書いたローベルト・ムージルというオーストリアの作家です。『特性のない男』の第三部『愛の千年王国の中へ』で、主人公と実の妹は恋愛し破局に向かいます。物語は放棄されませんが、完成もされません。このまま書いていっても小説として完結しないことにムージルは気づいていたはずです。プランの細部が未定稿として残されています。それらは非常に美しい言葉の断章です。何年も草稿を書き続けてムージルは亡くなりました。小説家としてはそれがベストの選択かもしれませんが、10年も15年も書き直していたら誰も僕の小説を読んでくれなくなる(笑)。そこで現在の形、逆説的にカタストロフィを組みこむ形で完結させることにしたわけです。三部作の完結のさせ方として、可能なベストの形に仕上げたという気持ちはもっています」

『取り替え子(チェンジリング)』では「僕」、『憂い顔の童子』では「私」、『さようなら、私の本よ!』では「ぼく」と、各部で古義人の自称詞は変わっていく。各部での意識的な主人公の書き分け、属性の変化を意図したものなのだろうか。

「他の登場人物の自称詞と重ならないようにしたんですね。繁は“おれ”で、古義人は“ぼく”で、武とタケチャンは漢字の“僕”です。古義人の自称詞が変わるとおり、三部作はそれぞれ独立した作品でもあるわけです。伊丹さんが亡くなったことが自分や家内にとってどういう意味をもつか考えるために出発して、『取り替え子(チェンジリング)』で一応終わったと思っていたんです。しかし敗戦直後に起こった、“アレ”と呼ばれるアメリカ人の語学将校を巻きこんだ事件と吾良(ごろう)の死を考えるうちに、自分にもはっきりしてない問題があることに気づき、『憂い顔の童子』を書くことになりました。『憂い顔の童子』の最後で大けがをした古義人には死んでいく道もあったし、生還する道もあったわけです。死んでしまえば、小説はうまく完結したと思います。ところがその後、未だ書かれていない小説のために、この二冊を書いた気がしてきたんです。そのような経緯で、『さようなら、私の本よ!』を書くことになりました。紆余曲折を経て、結果的に三部作になったというわけです。各部を書くたびに、人物らの展望上、古義人にどのような自称詞を割り当てればいいか考えました。『さようなら、私の本よ!』では、他の人物との関係から“ぼく”がいちばんすわりがよかったんです。繁と古義人が議論する場面が多いのですが、古義人の受け身の立場を示すのに柔らかい“ぼく”の表記がなじんだということですね」

国家を脅かす
テロリズムへと転化しかねない
個人の暴力

繁は、教え子やその友人など、若者たちを次々に山荘に迎え入れる。世界的な拠点をもつテロ組織「ジュネーヴ」に属するウラジーミルと清清(しんしん)や、厄介な実力を備えた武と弟分のタケチャン。繁は9・11以後の世界秩序を組み替えようとするジュネーヴの思想に賛同し、みずからの建築学の知識を応用した東京の中核を揺さぶる破壊構想を提案する。彼らの計画を知ってしまった古義人は緩やかな軟禁状態に置かれるが、繁は古義人にできごとの全体を記録し≪後期の仕事(レイターワーク)≫として小説に書くことを勧める。古義人は徐々に彼らの計画に引きこまれていく。前二作で古義人や吾良など個人に向けられた暴力の脅威は、この作品では9・11以後の世界を覆うテロへと結びつけられていく。

「第一部では、暴力が少年時代の古義人や吾良にどのような影響を与えたかということを書きました。古義人の息子アカリには障害があります。妊娠中の体の中で暴力的なことが起こって、生物学的な異常が生じたわけです。第二部では、暴力の現場から離れた安全地帯にいるはずだった作家が、滑稽な暴力の場に自分から入り込むプロセスを書きました。ちょうど二作目を書いている頃、アメリカで同時多発テロが起こりました。僕は核兵器による戦争が、今日最大の暴力と考えます。核兵器をもっとも有効に使うことができるのはアメリカですが、最大の暴力装置をもっていたアメリカに対して、アルカイダという少数者の集まりの組織が核兵器とは異なる方法でアメリカ全体を揺るがすテロを行った。核兵器で何十万、何百万の人が殺されたような大きなショックをアメリカ全体に与えたわけです。蟻が暴力の実を一つずつ巣に運ぶように個人規模の暴力を積み重ねて、アメリカの核の暴力に対抗しようと考える人間がいるのではないか。そのことを第三部の主題にしたわけです」

繁は古義人に語りかける。「おれはね、東京でフリーターをやってる、見た目にはニューヨークの若い衆そっくりの連中のなかから、ある日、腹の据わった自爆テロの実行者が現われると……そのような時代だといいたい気持があるんだ」、と。鬱屈したフリーターや社会に属していても格差に不満をもつ者たち。彼らが具体的な手法さえ手に入れてしまえば、国家に対抗する大きな暴力をもちうる。その先行モデルがリアリティとともに提示される。

「リアリティをどのようにつくりだすか。それが小説家の仕事のすべてといっていいと思います。『九条の会』の講演会のために久しぶりに沖縄に行きました。沖縄には観光で多くの人がやってきます。目取真俊さんに沖縄の若者のアメリカ軍人家族に対する暴力を描いた作品がありますが、彼がそうした作品を書かざるをえない思いというのはじつに明らかです。軍事的に大きな暴力が集中している場所に生きる沖縄の人間に迫るカタストロフィを、目取真さんは尖鋭に想像しています。
オウム以後も、日本で日本人によるテロは行われないという危うい共通認識がありますが、鬱屈したフリーターが都市圏に集中しているこの国で、社会転覆のテロリズムが起こらないことはむしろ不思議と考えたほうが自然です。若い人たちをポジティブな参加の方向に押す仕組みを大人は考えなければいけないと思います。現在の日本には、個人の暴力が国家への大きなテロリズムに転化しかねない不安定な要素はいくらでもあります。日本だけでなく、中国のような人口が巨大で格差のある社会では、そうしたことがいつでも起こりうる。これは、21世紀のアジア最大の問題になっていくのではないかと惧れます」

『さようなら、私の本よ!』を書くために、
僕は50年間仕事を続けてきたのではないか、
そう思っているくらいです。

『おかしな二人組(スウード・カップル)』の
系譜から見る大江作品の特色

「『政治的無意識』を書いたフレデリック・ジェームソンが、『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』誌で『スウード・カップル』というタイトルの論文を書いてくれました。大江の作品には、ベケットの戯曲や小説に出てくる不思議な二人組につながる『おかしな二人組』が頻出すると。普通は夫婦や恋人や兄弟など愛しあう者同士が二人組を形成するが、大江の二人組の場合、憎しみあったり裏切りあったり、しかし相手を非常に頼りにしたり、まったく違った描き方をしているというわけです。カップルだけれど偽のカップル、ベケットの『名づけえぬもの』という小説に出てくる『スウード・カップル』という言葉を使って、そのような二人組を大江はずっと書いてきたと指摘しています。その通りだと思いました。ジェームソンを介して、自分にスウード・カップルとして着想する強い癖があると気づきました」

『飼育』『芽むしり仔撃ち』『万延元年のフットボール』で描かれる兄弟、『懐かしい年への手紙』の「僕」とギー兄さん、『宙返り』の師匠(パトロン)と案内人(ガイド)など、大江文学には兄弟、親子、親友、師匠と弟子、分身的存在など、さまざまな形の二人組の系譜を確認することができる。

「すぐれて行動的でロマネスクな弟的人物と、ぱっとしない兄役の二人組の小説を構想することが好きなんですね。実際の生活での僕は生徒型、ぱっとしない弟タイプで、小説とはズレますが。僕は知りあってもすぐけんかになるので友人は少ないですが、いったん友人になると死ぬまで付きあい続ける。強く結びついた友人と生きてきたように思います。武満さんや伊丹さん、そして渡辺一夫さんのような先生に付き従うようにして生きてきました。本当の師弟ではないけれど、ねじれのある師弟、まさにスウード・カップルとして友人たちや渡辺先生と共生していたように思います」

古義人と繁のほかに、ウラジーミルと清清(しんしん)、武とタケチャンなど、これまでにない二人組の多様なヴァリエーションが書きわけられている。

「町田康さんと対談した時に、古義人と大江さんは重なり合っていて、あなたは誰かがやってきて誘いかけなければ何もしないで本だけ読んでいる人のように見えるといわれたんですが、その通りなんです。僕は家で本を読んでいれば幸福なんです。自分から外に出て行動する人間ではない。行動しない人間として小説を書いています。しかも僕にはない行動タイプが二人組の片割れとして出てくる、ということなんです。武とタケチャンのような補いあう関係。ウラジーミルと清清もそうですね。まさに二人組ででき上がっている小説だと思いますね」

二人組の系譜に加え、自作からの引用も大江文学の小説構成上の特徴といえるが、チェンジリング三部作では大江さんの代表作のほとんどすべてが、『ヒロシマブック』や『蜻蛉返り』などタイトルが微妙にずらされる形で引用されている。三部作には、大江文学のこの50年間を振り返る回路が組みこまれている。

「ミラン・クンデラのお弟子さんの二人の文学研究者が先日家に来て、26の項目からなる長い質問状を置いていきました。質問に答えているうちに原稿用紙30枚の分量になってしまったのですが、質問項目を見ると僕の一生がすべて浮き彫りになるような面白い質問なんです。現在の僕をつくりあげるために、過去の作品がすべて意味があったとして構成されているんです。チェンジリング三部作でも、常に過去の小説を思いだしている。結局、僕は自分のことしか書いてこなかったのではないか。そんな気がします。
しかも、今回の三部作、特に『さようなら、私の本よ!』を書くために、僕は50年間仕事を続けてきたのではないか。これを書き終えたいま、新しい小説を書こうという気持ちはまだありません。僕は常に小説のメモのようなものを書いてきたのですが、そういうこともしていない。ただ本を読んでいます。これから集中的にミルチャ・エリアーデを読む予定です。3年を周期にひとりの著作を読んできたのですが、あと3年エリアーデを読んで、そのあともうひとり読みたい。6年ほどはまあまあ生きていけるとして、まさに≪最後の仕事≫として次の作品を書くのであれば、この小説の終章の穏やかで自然な文体で、過去の全作品と切り離されたまったく別のものになるのではないか。そんな予感はありますが」

「徴候」への興味と、
「読む」という、これからの仕事

繁たちが立てた計画はジュネーヴから却下され、「突然の尻すぼみ(アンチクライマックス)」に収束する。繁は構想を縮小し、「破壊する(アンビルド)」工法の設計図を世界に向けて発信しようと計画する。古義人は「破壊する(アンビルド)」教本の学習成果をためすために自分の住む「小さな老人(ゲロンチョン)」の家を提供する。武とタケチャンが実行者として破壊作業を行うが、タケチャンは事故で爆死する。
事件から2年後、家族から離れて四国の「森の家」で隠棲している古義人を、「破壊する(アンビルド)」教本の評判によって奇妙な文化英雄として復活を遂げた繁が訪ねてくる。小説を書くことに興味を失った古義人は、日々読む新聞記事から異常を示す前兆を集め記述する、みずから「徴候」と呼ぶ日誌を書く作業を中心にした生活を営む。
物語の結末で提出される「徴候」(長江古義人の名字に重ねられている)というフラグメンタルな記述のかたち。大江さんは、そのような記述の形式に惹かれつつあるという。

「現代社会で起こる不思議なできごとを短い文章で書いている本に関心をもっています。今年、ドイツに行った時に一時期の映画界のリーダーだったアレクサンダー・クルーゲのヴィデオ・インタビューを受けました。クルーゲは現在のドイツ映画の基礎をつくった人ですが、いまは映画監督を辞めてテレビ番組を制作したり小説を書いたりしています。彼の本を帰りの飛行機で読んだのですが、それが100ぐらいのエピソードの断片から成り立っているまさに“徴候”のような本なんです。『THE DEVIL’S BLIND SPOT:Tales from the New Century』という本で、スーザン・ソンタグが推薦文を書いています。特に文体が面白い。新聞記事のような文体であるにもかかわらず、魅力のある文体なんです。
これまで50年間、小説を書き続けてきました。小説の形式をつくり、文体もつくり、両者の締めくくりもつけたという気持ちが強い。そこでしばらくは、自分のことより若い世代の小説を細かく読んでみたい。そして、世界に向けて推し出したいと思う。それが大江健三郎賞を設立した理由です」

もう70歳ですから、
何をいわれても動じません(笑)。

大江健三郎賞は
文化的なトピックに
なりうる小説を厳選したい

「若い人たちが読むベストセラーではなく、少し上の世代、社会の中で責任のある仕事をする大人に読んでもらいたい小説があるんです。1年間に出版された小説の中で、少なくとも3万人の日本人に読んでもらうことに意味があると感じる小説、社会の真に文化的なトピックになりうるような小説を厳選したいと思います。司馬遼太郎さんの役割とはまた別の、大人向きの作家がいまは稀です。とくに若い世代の作家が、文学の言葉で書いた良質な作品を示したい。同時にそれを外国語に翻訳して世界に向けて発信したい。
これまでいくつもの文学賞の選考委員の仕事にかかわってきました。僕が評価できない作品が当選するようなことがよくありました。すばらしい作品であるのにそれが落選して、二番手の作品が当選するようなこともよくあります。他の選考委員の顔を立てるために不本意な作品を当選させたり、円満に選考会を終わらせるために二作当選させるような選考会とはきっぱり縁を切って、自分が本当に評価する作品を自分の責任で推薦する、そのような賞があればいいと思っていました。僕の名前を冠した賞の受賞作を僕自身が選ぶということで当然からかわれていますが、まったく平気です。もう70歳ですから、何をいわれても動じません(笑)。受賞作は早く良い翻訳にして、2年後の賞の発表パーティで最初の受賞作品の英語版を参加者にお渡しすることを夢見ています」