“他人の死でしか、救えない命がある”――臓器移植法施行から20年、脳死移植という領域に踏み込んだ渾身作『移植医たち』。谷村志穂インタビュー

文芸・カルチャー

2018/1/17

「本当は伝えたかったんです。自分が受けた医療を」――かつて移植を受けた読者からの手紙にはそう書いてあったという。けれど、それを口にすることを阻む空気は、いまだにこの国を覆っている。
“他人の死でしか、救えない命がある”――脳死移植という領域に踏み込んだ本作からは、医師たちの並々ならぬ気概が伝わってくる。臓器移植法施行から20年が経った今、多くの人に読んでほしい一冊だ。

谷村志穂さん
谷村志穂
たにむら・しほ●1962年、北海道生まれ。90年、ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』が支持を集め、91年、初の小説『アクアリウムの鯨』を発表。2003年『海猫』で島清恋愛文学賞を受賞。著作に『余命』『尋ね人』『いそぶえ』『ボルケイノ・ホテル』『大沼ワルツ』など多数。『ききりんご紀行』で17年青森りんご勲章受章。

いったん扉を開けたら絶対にあきらめない。
そんな人々を、私は描きたかったのだと思います

“私はあなたのような医者に出会わなかったら、おそらく、移植になんか関心は持たなかった”――物語中盤で現れるその場面はクリスマスイブ。身体中に点滴をつながれ、B型肝炎からの肝硬変を抱え、HIVにも感染している患者が、肝臓移植の手術前夜、語り続ける。

“訊いていいかい? 君らは、なぜそんなに、がんばれるのかな”――15年にもおよぶ“移植医たち”の物語は、最先端医療をテーマに扱いながらも、極めて普遍的な、人間のその精神についての問いを追いかけていく。そして読み進めるうちに気づく。この小説に出会わなかったら、おそらく私も移植医療について関心は持たなかっただろう。ことに、脳死後の臓器提供を認めた臓器移植法施行から20年を経た今も、その医療に対し、口をつぐんでしまう風潮のある日本社会に暮らすなかでは。

「違和感を覚えたんです。自分が知らなかったことに」と谷村さんは言う。それは北海道放送のテレビ番組で、移植手術に携わった医師、移植経験者の話を聞くうちに湧き上がってきた感情。2011年のことだ。

「今、日本で移植が行われている、という事実に驚いたんです。さらに“移植医療の父”として知られるトーマス・スターツル博士に、10年以上師事した医師たちが、その医療を日本で拓くため、自分の母校である北大にアメリカから戻ってきていたこと、それをまったく知らなかったことについても。大変な研鑽を積んでいる医師たちのはずなのにクローズアップされていない。つまり、これはメディアをはじめ、どこか触れないようにしている領域なのかと」

だが、その理由には心当たりもあった。1968年、溺水事故で脳死と判定された大学生の心臓を、心臓の障害で入院していた高校生へと移植した“和田移植”。それは和田寿郎医師が主宰したチームによる世界で30例目、日本では初めての心臓移植手術だった。手術は成功、その時点では喝采を浴びた。しかし術後83日間生き続けた高校生が亡くなった時から風潮は一変した。“これは人体実験だったのでは?”という疑惑のなか、和田医師には二つの殺人罪をはじめ、数多の刑事告発がなされた。そして、その手術が行われ、彼を糾弾するためにマスコミが殺到したのは、谷村さんが生まれ育った札幌の地だった。

「そのとき私は5歳だったので、ほとんど記憶にはないんです。でも不思議な形で語り継がれていた気がして。だから移植といえば、私にとって和田移植であり、それきり時間が止まっていたものでもありました」

移植医療をけん引してきたアメリカのピッツバーグ大学や研究所、数多の医師たちへの取材、学会や勉強会への参加、手術の見学、医学書との格闘……と、本作の執筆までの過程に膨大な時間を費やすなかで、谷村さんの止まっていた“時間”は動きだした。その医療の現場、医師や患者たちの視点に、皆がフラットに立つことのできる“物語”の創作を目指して。

自分が泣きたくなるような書き方をしてはいけない

「日本人医師3人が、三者三様でその講演を聞き、ほぼ同時にそこへと向かうことを決心する。そのシーンからストーリーを書き始めることは、当初から決めていました」

ピッツバーグ大学、Dr.セイゲルの講演を聞きにきていた人々のなかにいたのは、肝臓を専門とし、その治療法に限界を感じていた佐竹山行蔵、研修医の古賀淳一、そして小児科医・加藤凌子。1980年代半ば、若き医師3人はDr.セイゲルのもとで移植医療の修業をするために渡米する。

「医師たちが開発してきた移植医療の歴史や時間軸は、術後に投与する新薬の開発も含め、その実際が色濃くベースになっています。人物に関しては、すべて文責は私に置いたうえで、世界初の小腸移植と、ヒヒからの移植を行った藤堂省先生と医療監修もしていただいた古川博之先生、メインでお話をうかがったお二人は、ピッツバーグ大から移植医療立ち上げのため、ともに北大に入った方々で、佐竹山と古賀の像に投影させていただいている部分はあります」

そして「どうしても女の医師を入れたかった」という想いから生み出された加藤凌子――臓器移植後の拒絶反応に打ち勝つための免疫抑制剤開発に向け、動物の命を犠牲にするつらい実験に臨み続ける彼女には、アメリカではスタンダードになっている臓器移植が、なぜ日本では進捗しないのか――という物語を貫く問いが託された。“あの事件”を家族としても見つめる人物として。

「臓器移植の扉を一度、開けたかのように思えた和田移植ですが、後の疑惑、そこから強く出てきた倫理観によって、その扉は封印され、以前より開けるのが重くなってしまったのが事実です。ピッツバーグ大でお会いした動物実験を続ける日本人女性医師の姿から出てきた凌子は、和田医師とおぼしき人物の娘に設定しました。もちろん架空の人物です。彼女の存在は物語を進めやすいものにしましたが、描くのは難しかった。家族もろとも世間からの糾弾に遭い、父が行った医療行為に対し、医師としても問い続ける人は、どんな想いを抱くものなのかと」

凌子をはじめ、医師たちのそうした感性を描くのが、本作では最も難しい部分だった。まだ温かな脳死者の身体から臓器を取り出す、“ハーベスト”という行為に対峙したときの葛藤、術中に患者が亡くなってしまったときの衝撃……。

「技術的なことは調べればわかるのですが、“こういう時、どう感じるのか”という医師が抱く感情は、“自分だったら”という想像を遥かに超えている時があって。それを知るというより、自分自身が納得するために、学会の終わりを狙って医師の方たちに会いに行くなど、何度も何人にも話をうかがってきました」

描かれるのは、生死のかかったドラマ。物語としては、そこから溢れる情緒を前面に出すこともできたのかもしれない。だが、谷村さんはそれを自身に許さなかった。

「『海猫』をはじめ、これまでの私は、情緒で進んでいく物語を多く書いてきました。けれど、本作はそれでは書けないと思ったんです。描くのは、ひとつ、ひとつ、かけがえのない命、ともすれば感情的にもなってしまうこともある。けれど執筆中、けっして自分が泣きたくなるような書き方をしてはいけない、と」

だが――高度な外科技術を習得するため、努力という言葉では言い尽くせない鍛錬を積み、何としても命を救うという一念で駆けていく医師たち、そして絶対に生きたいと希望を捨てない患者や家族。その姿は、情緒とは別のところから読む者の感情を激しく揺さぶっていく。

「とことん命に執着するのが人間らしいと、実際のお話を聞いていても感じた。だから臓器を部品のように語る、ある種の残酷な言葉も作中では使いました。そこは批判を受けてもいい。人間の生への執着と向き合う医師が放つ言葉として、すごく人間らしいと思って書きました」

はじめは『扉』というタイトルを考えていた。

「新たな医療のさまざまな扉を開く医師たち、そこに挑む患者たち。執筆中すごく感じたのは、一度開いた扉を閉めてしまうと、再び開けるのはもっと大変だということ。だからあきらめるなと。この小説で描いたのは、いったん扉を開けたらあきらめない人たち。その精神の強さが、私自身の書いていく力にもなりました。この作品は、絶対にあきらめず、描き切らなくては、と」

取材・文:河村道子 写真:冨永智子