木簡からみえてくる「和歌」の起源とは?「第6回古代歴史文化賞」大賞受賞記念インタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2018/12/19

 三重県、奈良県、和歌山県、島根県、宮崎県という古代史にゆかりの深い5県が連携し、毎年、学術的見地にしっかり立ちながらも、一般向けにもわかりやすく書かれた古代歴史文化に関する本を表彰する「古代歴史文化賞」。

 6回目となる2018年の大賞受賞作は、古代の木簡から和歌の成立の謎に迫った『儀式でうたうやまと歌 木簡に書き琴を奏でる』(犬飼 隆/塙書房)に決定した。受賞を祝して、著者である日本語学者・犬飼 隆さんにお話をうかがった。

表彰式では、賞状や副賞賞金のほか、古代の出雲国造が天皇に献上したという霊力をひめた玉の宝器を、島根の現代の工房で再現した「美保岐玉」が正賞として贈られた。

――大賞を受賞された感想をお聞かせください。

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 地味な本を書いたつもりでいましたので、思いがけない光栄でした。多くの方々が和歌の成り立ちに興味を持ち、その面白さ良さを味わい、現代まで及ぶ影響を知っていただくのに少しでもお役に立つなら、とても幸せです。

――「和歌」にはいつ頃から興味を持たれたのですか?

 高校の古典の授業で古今和歌集の歌を学んで興味を持ちました。わずか三十一字で、あるひとときの光景、人の気持ちが、アニメーションのように生き生きと表現されるのに魅了されたのです。(大学は国文学科へ進学。今回の本につながる研究は)大学の卒業論文を書く際、「木簡」を「古代日本語」の資料として扱うことに興味を持ちました。古事記、日本書紀、万葉集の日本語の書き方の研究は、江戸時代から行われています。その大きな蓄積と手法を応用して、「木簡学会」にも加入して考古学・歴史学の成果を学びながら、漢字の列を日本語として読む研究を続けました。

――そして、この本のテーマに出会われたのですね?

 1998年に、徳島県の観音寺遺跡で和歌を書いた7世紀末の木簡が出土したと報道されました。書かれていたのは「難波津(なにわづ)の歌」だと予想しましたが、当たっていました。このテーマで研究を始めたのはそのときからです。「難波津の歌」は8世紀後半の木簡や、8世紀初めの法隆寺五重塔の天井板の落書きからも見つかっています。10世紀初めにできた古今和歌集の序文にも引用され、応神天皇の時代に詠まれたとあり、古くからよく知られた歌と考えられます。それでも万葉集には入っていません。その理由を考え、1999年に「文学作品でなく典礼の席でうたう歌だった」という説を発表しました。その後発掘が進み、木簡に書かれた歌句の半分以上が「難波津の歌」で、土器や瓦に書かれた例も非常に多いことがわかりました。それらの新しい証拠を取り入れ、考え方を何度も修正し、18年かけて最終的にまとめたのがこの本です。

――前著『木簡から探る和歌の起源』(笠間書院/2008年)も同じテーマで書かれていますね。

 前著では、それまでに出土していた歌の書かれた木簡を全て分析し、「7世紀から9世紀までの典礼の次第に日本語の歌の朗唱が含まれていたこと」「歌句を大型の木簡に1行に書いて席に飾ったこと」「木簡などの歌句の習書は役人たちが典礼でうたうために学習した跡であること」を述べました。そして、日ごろいろいろな機会にうたわれていた「うた」が典礼でうたう「歌」に整えられ、それらを素材に歌集が編纂され、「和歌」が成立したという図式を描きました。今回はさらに考古学・歴史学・音楽史の成果を一生懸命学んで、儀式における日本語の歌の機能を中心にしてまとめ直しました。

――前著との違いはどのあたりにあるのですか?

 前著から大きく発展した点は二つです。一つは、五七、五七…の形式は古来のものでなく、「中国から朝鮮半島を通して取り入れた儀式制度の音楽を整備する中で、七世紀に定まった」と歴史的に検証したことです。儀式で、漢詩ではなく自国語の歌をうたいましたが、形は五言・七言を真似ていたのです。これには、国立歴史民俗博物館の古代の展示室の展示替え準備に参加させていただき、日本と韓国の考古学・歴史学の研究者から受けた教えが大きな力になりました。もう一つは、「730年代の聖武天皇の時代に文化のあり方が見直された」ことを考慮すると、いろいろな点がうまく説明できるようになったことです。7世紀前半には「新しい音楽文化」だった日本語の歌が、100年後には漢詩に対する「在来のもの」とされました。古来の神事、天皇家の葬儀、朝廷の年中行事でうたわれ、そのために一般の役人も貴族も日本語の歌の技能をみがいたのです。それが万葉集の編纂と古今和歌集の勅撰の基盤になり「和歌」を成立させました。

――研究中、特に印象に残っていることはありますか?

 紫香楽宮跡(しがらきのみや・あと)から「難波津の歌」と「安積山(あさかやま)の歌」を表裏に書いた740年代の木簡が出土したときですね。書き方が全く違うものの「安積山の歌」は万葉集に入っています。実は「難波津の歌」と「安積山の歌」は、古今和歌集の仮名序に「うたのちちははのやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける」と書かれており、平安時代に和歌の作法を学ぶのはこの2つの歌からだったことがわかります。それが紫香楽宮跡の木簡の発見で、それより150年も前から行われていた可能性が出てきたわけです。それまでは木簡などに書かれた歌と万葉集との関係を考えることができませんでしたが、この発見で万葉集だけでなく和歌の歴史全体と木簡がつながり、興奮しましたね。

――最後に読者へのメッセージをお願いいたします。

 人は一人では生きられないし、一人一人はかけがえのないものであるように、私は言語研究者として、コスモポリタンであると同時に、方言や少数言語を心から大切に思っています。和歌にも同じ想いを込めてこの本を書きました。今、残っているものから昔に夢をふくらませる楽しさが歴史にはあります。標語が五七五にまとめられるように、和歌の文化は現代に生きています。それは古代の日々の暮らしのなかにあった歌の伝統なのです。

【大賞受賞作】
『儀式でうたうやまと歌 木簡に書き琴を奏でる』
犬飼 隆/塙書房

(書籍紹介)
近年遺跡から出土するようになった歌を書いた木簡から、古代日本ではやまと歌が儀式の音楽として歌われていたことがわかってきた。そうした儀式は中国から朝鮮半島を通じて7世紀の日本に入ってきたものであり、やがて日本古来のものとして認識されて和歌誕生へとつながっていく。歌がどのように歌われたかに注目し、和歌の起源について大胆な仮説を提示する。

取材・文=荒井理恵