セックスは決して女の子を穢すものではない――最新作『女優の娘』&『少女病』文庫化!・吉川トリコインタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2019/7/20

 母親は伝説のポルノ女優・赤井霧子。そのことが知られたらアイドルではいられない。そう思って隠し続けていきたい主人公・いとの前に、3年会っていなかった母の訃報が届く――母の痕跡をドキュメンタリー映画として追うことになった彼女を中心に描かれる吉川トリコさんの最新小説『女優の娘』。同時期に文庫化された『少女病』(ともにポプラ社)の刊行とあわせ、お話をうかがいました。

■自分の中の偏見に気づいたとき生まれた「ポルノ女優とアイドルの母娘」という設定

――今回、アイドル業界を舞台にしたきっかけはなんだったんですか?

吉川トリコ(以下、吉川) もともと“女優の娘”を書きたい気持ちはあったんですよ。たとえばジェーン・バーキンを母親にもつシャルロット・ゲンズブールは、若いうちから華々しくデビューしたけど、芸能一家の生まれなだけに、背負ってるものがかなり大きそうじゃないですか。偉大すぎる母親をもった娘ってどうなるんだろうと思って、最初は母が伝説のポルノ女優で娘は舞台女優、って設定にしていたんです。だけど担当編集に、たぶん私が舞台にあまり詳しくないのがバレたんでしょうけど(笑)、「これ、アイドルのほうがよくないですか?」って言われて。最初は「無理だよ」って言ったんだけど、ものすごくきょとんとされた。そのとき、私自身が「ポルノ女優の娘はアイドルをしてはいけない」という偏見があることに気がついて、びっくりしたんですよ。

advertisement
『女優の娘』(吉川トリコ/ポプラ社)

――いと自身も言っていますね。オーディションのときに言ったら受からないと思った、だからずっと隠してた、って。

吉川 なんでだめなんですか、って聞かれたら、本当だ、確かになんでだろうって思っちゃったんですよね。それでアイドルとして描いてみたら、女の人を消費するというテーマ性もよりしっかり浮かび上がってきて。書きやすいし、物語が転がっていくのを感じました。

――取材はされました?

吉川 地元だからSKE48のライブは観に行ったけど、それくらいかな。逆に、取材のつもりで観に行った舞台に、意外にもけっこうハマった。去年観た、植民地時代の朝鮮を舞台にチェーホフの『かもめ』を脚色した『가모메 カルメギ』はすごくよかった。だからいずれ舞台女優を書くこともあるかもしれない(笑)。あとは、ドキュメンタリーをけっこう観て思ったのは、アイドル業界ってほんと輝いているぶん影の部分が強いということ。がんばりすぎて過呼吸や日射病で倒れちゃった女の子を“美しき善き物語”として消費するでしょ? 見ていると感動するし、彼女たちはアイドルになりたくて、がんばりたくてやっている。でも、大人が守ってあげなきゃいけない部分はたくさんあるな、ってほんと思いました。

――現実を揶揄するような描写があって、攻めてるな、と思いつつ、笑っちゃったりもしました。と同時に、大人が守ってくれないからこそ、ライバル関係にあるはずの女子たちの絆が芽生え、どうしようもできない部分がありつつ、互いに支えあう描写にぐっときました。

吉川 書きながら、今のアイドルの子たちを肯定したいとも強く思うようになってきて。最後、自分が思っていたのとは真逆の結論にたどりついたのは、苦しいだけじゃない、アイドルとしてがんばる子たちの姿に尊いものも見ているからかもしれない。それから、作中にも書いたけど、アイドルの子たちってみんなキャラ設定をつくるじゃないですか。私はバラエティ系、小悪魔系、毒舌系……みたいに自分を型にはめていく。それが彼女たちをますます窮屈にさせている気もするし、あなたのいいところはそこじゃないよ、って実際にテレビを観ていて思うこともある。毒舌に失敗したあとの照れ笑いがいちばんかわいい、ってことあるじゃないですか。自分をそんなに決めつけなくていいよと思うし、誰かを型にはめてジャッジするなよとも思う。それよりも、不意にはみだしてしまった部分がその人らしさをあらわしていておもしろいし、それがアイドルの魅力でもあると思うんですよね。

――母・霧子のドキュメンタリー番組を撮ろうとする小向井監督も言っていますね。「人間がとりたいんだよ。ハイでもローでもない、そのあいだにある揺らぎのようなものを」って。

吉川 監督は書いていてずっと楽しかったな。ああいう、軽薄でチャラい業界人のおじさんって、実際、目の前にいたら嫌いなタイプなんだけど(笑)、書いているうちに好きになっちゃった。初めて書くタイプの人かもしれない。

――監督がとった映像の描写、めちゃくちゃ美しかったです。ああいう人に限ってエモさ大爆発の作品をとる、というところに、わかるわかる、って思いました(笑)。

吉川 そうなんですよね(笑)。でも彼も、男らしさという型に自分をはめこみすぎて、窮屈な思いをしてきた人だから……。私ね、基本的にはデビューの時からずっと、女の人に向けて小説を書いてきたんですよ。でもあるときライターさんに「僕は男だけどすごく好きですよ」って言われて、限定しちゃいけないなって。世間的に求められる〇〇らしさに息苦しさを覚えるのは女性に限ったことではないから今は全人類に向けて書いています(笑)。今回の小説は女の子の、特にアイドルの話だから、女の子っていうだけで苦しい想いをしている人たちに届いたらいいなとは思いますけど。

――無条件で甘やかして守ってくれる大人があまりいない、っていう点でもいとはすごく苦しんでいるけれど、自分のせいじゃないことでどうして、ってことは現実にたくさんあるから、それでも生き抜く強さとかすべみたいなものを、この小説を読むと手に入れられるんじゃないかなと思います。特に若い子に届いてほしい。

吉川 そうだといいなあ。若い子にはぜひ、読んでほしい。

■セックスは決して、女の子を穢すものではない

――『マリー・アントワネットの日記』(新潮社)は、ギャル語とネットスラング満載の文体が斬新で、話題を呼びました。社会における女性の立ち位置、みたいなものも、すごく身近なものとして描かれていたと思います。あの作品を書いたことでより、母からの抑圧や永遠の少女性、性というもののテーマが深まったのでは?と思うのですが。

吉川 そうですね……これまで私がフェミニズムをしっかり勉強してこなかったというのはあるんですけど、思想を直接的に取り入れるのをどこか恐れていた部分があるんですよね。『マリー・アントワネット』はあの文体だからできたことなんだけど、書ききってみたことで恐れがなくなったような気はしています。最初の偏見の話に戻るんだけど、「ポルノ女優の娘がどうしてアイドルやっちゃいけないの?」というのと同じように、マリー・アントワネットが「娼婦の何がいけないの?」ってきょとんとするシーンがあって。あれは有名なデュ・バリー夫人との対決をただのキャットファイトにしたくないなと考えていたら出てきたセリフなんだけど、改めて考えてみると「いけなくなくない?」って私も思ったんですよね。ただの労働じゃん、って。でもなんでだか、セックスに汚されちゃうみたいな感覚を、女の人……っていうか世間はどこかでもっている。

――いと自身が、それに気づかされるシーンがありますよね。誰よりポルノ女優やAV女優を汚いと思っているのは自分じゃないのか、って。

吉川 しかもたいてい、女の人が“やられる側”として描かれる。もちろん現実に、女性が被害にあう事件がとても多いからなんだけど、今回はいとを“やる側”においたのはそれについての疑義というか。セフレ関係の佳基が、いとと同じようにただセックスを楽しみたくて、気軽につきあっているだけならなんの問題もないんだけど、いとの欲望の発散は、彼の愛情のうえに成り立っている。それはだめだよね、ってことを書きたかった。

――いとに憧れる夢芽ちゃんが、すぐに「私ブスだから」って言う自虐キャラのいとを悲しく思うじゃないですか。その言葉は、まわりも傷つけるから、私はもう自分をブスだと言わないことにした、って言うあの場面も沁みました。

吉川 私の妹がすぐ自分のことを「馬鹿だから」って言うんですよ。「私は頭が悪いから」って。やめて、っていつも言うんです。友達でもそうだけど「私、〇〇だから」ってネガティブなことを言われるとすごく悲しくなる。私があなたのことを大切に想っている気持ちを踏みにじらないで、私の好きな人のこと悪く言わないで、って。根底にはね、ブスいじり、馬鹿いじり、みたいな脈々と受け継がれてきた文化みたいなのがあるんだけど。なんなんだろうね、あれは本当に。

――それがいやだから、「女が女をまわすバラエティの司会をやりたい」ってみーちゃんが言うシーン、すごくよかったです。本当に、いろんなテーマが詰まっていますね。

吉川 そうですね……これまででいちばん、書きたいことを取り入れながらエンターテインメントにできたな、とは自分でも思います。これまで私、物語を考えるのがすごく苦手で(笑)。半径5メートル以内の日常で起こる出来事を積み重ねた小説ばかり書いてきたから、視点を変えた群像劇が多くなっていたんだけど、芸能界を舞台にしたおかげで事件がたくさん起きるから、書いていて楽しかった。つきつめて書ききったし、これまでは「この一文を削除したほうが絶対いいのに」って部分を残してしまったりしたのを、ちゃんとトルツメできるようになりましたね。

――視点はずっといとに固定されているから、霧子が実際なにを考えていたのかはわからないんですが、読み終えたとき不思議と「ああ、これは霧子の物語だったんだな」という気がしたんです。直接書かれていないからこそ、浮かび上がってくるものがありました。

吉川 だとしたら、嬉しいです。いとが小向井監督と一緒に、叔母さんや関係者に霧子の話を聞きにいくけど、みんなそれぞれが見た、勝手な霧子像を話すじゃないですか。みんなけっきょく、自分だけの物語を生きていて、そこに他人の言葉は……物語を打ち砕くような言葉は届かない。はねのけられちゃう。私、小説はどれも自分の母親を説得するような気持ちで書いているところがあるんですけど、本人にはちっとも伝わらないんですよね。え、それ、どうして自分のことだと思わないの!? ってびっくりする。最近は読んでもいないんじゃないか疑惑があるんだけど(笑)、でもそれも、母は母の物語を生きているからだろうなって。よぶんな言葉は必要ないから、推敲と厳しい校正のうえトルツメで削除されちゃう(笑)。みんなそんなもんなんでしょうね、きっと。

■女性ならば誰もが罹患する“少女病”という絶妙なネーミング

――もう一冊、同時期に刊行された『少女病』は、先ほどおっしゃってた視点を変えた群像劇ですね。これも少女小説家して一世を風靡した母親と、3人の娘たち+1人の物語。

吉川 書いたのは10年くらい前だから、今と感覚が全然ちがって驚いた。わりと、ここに登場する人たちみんな、他人の容姿をめちゃくちゃジャッジするでしょう。それがいちばん衝撃でした。10年前の私ってこうだったんだ、って。あと、2話で次女の司が、結婚式について話すところの描写。

――あれはグサグサきました。結婚したいと思っているという前提で話をふられるわずらわしさや、未婚と既婚で立場が変わると、なにか間に川が流れてしまうような隔たりの感覚をもつところとか。分断や対立とはまたちょっとちがう、微妙な女関係ですよね。

吉川 今もああいう感じあるのかなあ。当時は、結婚をくさす女の本音、みたいなものが世の中的にも大きく取りあげられるような感じだったんですよね。ただ、今は、結婚ってそんな特別なものかな?っていう気持ちのほうが強くて。私自身が結婚して、歳もとったからかもしれないけど、あの頃よりは結婚だけが幸せじゃないという空気があるし、ロマンティックに恋し恋されの結果じゃなく、パートナーとしての結婚相手を主体的に見つける、みたいな風潮もあるでしょう。結婚じたいがオワコンなんじゃないかなって思うから、よけいに今読むと、ちょっと違和感だったのかも。

――確かに10年も経つと、社会背景も常識も変わりますよね。でも一方で、『女優の娘』に通じるテーマがたくさん詰まっていると思いました。

『少女病』(吉川トリコ/ポプラ社)

吉川 そうですね。共通点は多いかも。あれ? もうすでに書いてるじゃん! って場面もたくさんあった。

――『作家の娘』ってタイトルでもおかしくないと思うんですけど、でもやっぱり『少女病』ってタイトルが秀逸だと思います。母娘たち全員の章に、それぞれのチェック項目があるのも楽しかったです。読者も含めて、全員が罹患してるんだなって感じがして。

吉川 嬉しい。実は単行本で出すとき、「病」って言葉がネガティブだからタイトルを変えたほうがいいってすごく言われたんですよ。

――ええ! これがいいのに!

吉川 ですよね! よかった(笑)。少女病のチェック項目は、最初、1話目の長女・都だけだったんです。でも文庫化にあたって編集者から、可能だったら加えませんかと言われて、めんどくさいし難しいと思って最初はいやだったんだけど、書いているうちに意外と思い浮かんできて、結果、それぞれの個性もきわだってよかったです。

――母の織子も含め、みんな項目はちがうんだけど、ひとつだけ「お母さんみたいになりたくない」だけが共通しているのもいいですよね(笑)。書いていていちばん印象に残っているのは誰ですか?

吉川 三女の紫かな。高校生でいちばんいろんな病に罹患しやすい時期だから、書きながら「わーど真ん中にいるなー」って感じに自分でも笑いそうになっちゃって。や、笑っちゃいけないのよ。本人は本当に深刻で、しかも一人だけ“お父さん”を知らなくて、めちゃくちゃ悩んでいるんだけど、でもそこも含めて、かわいくてたまらない。

――あるとき唐突に「僕」と言いだして、誰もツッコめないうちに1週間でやめた、っていうエピソードが最高でした。

吉川 まわりはどうしてたんだろうって思うよね(笑)。

――これは『女優の娘』にも書かれていたことですが、恋をすると熱に浮かされて“あっち側”にいってしまう、みたいな感覚が四者四様に描かれているのもよかったです。ひとたびその境界線をこえると、どんなにまわりが声を張っても、届かなくなってしまう。大事な人が、いいふうにも悪いふうにも変わってしまうことへの戸惑いや絶望って、女同士で感じたことがある人は多いんじゃないかと。

吉川 私も若い頃、恋をしていたときは本当に馬鹿だったなあと思うし、浮かされているときはなんていうか、とんでもないことになっちゃうんですよね(笑)。それなのに自分は、中学生のときに少年みたいだった女の子が、成人式で会ったらしっかり化粧してめちゃくちゃ普通の女の子になっちゃってることに勝手にショックを受けたり。

――織子と同じですね。自分はさんざん少女性をふりまいて自由にやってきたのに、恋を知った都の開花が受け止めきれない。でもそんな織子が、娘たちに「素敵な恋を」と願うシーンがすごく好きでした。そして、全部を受け止めて小説を書き続けようと決意するところも。

吉川 そうですね。『女優の娘』で私が書きたかったことは、女というただそれだけの理由で不当に傷つけられ踏みにじられることなく大人になれるような世界になりますように、ということだったけど、たぶん、『少女病』の頃から無意識に、同じ想いを抱いていたんだとは思います。2冊あわせてぜひ読んでいただけると嬉しいです。

取材・文=立花もも 撮影=内海裕之