又吉直樹「僕ももう、何者かである必要はない、って気がする」『人間』の次はどんな作品を書く?【後編】

文芸・カルチャー

更新日:2020/1/7

【前編】しんどかった青春時代を肯定し、これからを生きていく。又吉直樹、最新作『人間』を語る

 青春のきらめきと儚さを、デビュー作『火花』、第2作『劇場』描いてきた又吉直樹。が、第3作にして初となる長編小説『人間』の主人公は、著者と同じ38歳という設定。自意識に揺れ苦しんだ青春時代に囚われながら30代以降の人生を生きる主人公に、読者は自分を重ねて、「しんどいなあ」と感じるだろう。しかし読み進めるうちに、もがき苦しんだ過去を肯定し、これからを生きる勇気が湧いてくるはずだ。

 青春時代の苦しかった過去とそれを引きずる現在。そんな内なる葛藤に、今回の『人間』執筆で、いかに区切りをつけたのか? そして「書きたいこと」を出し尽くした今、又吉直樹は次作、次々作はどんな作品を生み出すのか、聞いてみた。

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『人間』(又吉直樹/毎日新聞出版)

――あらためて発表から2か月が経った今の、又吉さんが定義する「人間とは」をお聞かせいただけますか。

又吉 自分が人間であることを疑いようがない人たちは、「人間ってなんやろ?」とか、あんまり考えないと思うんですね。考えないのが悪いんじゃなくて、もっと別のことを同じ時間を使って考えていると思うんです。日本経済の向上のためには、とか、家族の幸福度を上げるためには、とか。それは重要なテーマじゃないですか。で、「人間とは?」を考える人たちは、もうちょっと“線上”にいる人たちなんですね。自分を社会の枠から少し外れてしまっているように感じる人とか、そこに自分の実感を置けない人たちが「人間」かなぁと思って。で、僕がコントとか漫才を作る時に妖怪とかを主役にしてしまうのは、そっちのほうが実感があるからなんですよ。

――人間界より妖怪界に実感があるんですか(笑)。

又吉 ただし、妖怪だけで暮らしているとか、登場人物が全部化け物、という世界には用がないんですよ。人間社会と隣接した所に住んでいる妖怪が、どっちの世界でもうまく立ち回れないというか。……子供の頃から思ってたんですけど、仮面ライダーの敵キャラがいるじゃないですか。あのルックスでは日本で生きていかれへんし、家族を食わすためにどうすんねん、って言ったら犯罪しかないし。そのあたりはみんなどう解釈しているのかなと思っていて。だから、そういう線上にいる人たちのほうが「人間」ということに敏感なんじゃないかと思うんです。

――たしかに『人間』を読むと、どこに行っても社会となじめない苦悩みたいなものを感じます。その原因は何なんでしょう。

又吉 ……自意識ですかね。いわゆる、「こうなりたい」っていう自分と、実際の自分との距離の間で苦しんでいるということを客観的に捉えて、「そういうもんやから、そこまで自分に課す必要はないんじゃないか」みたいな意見を自分のなかにスッと入れられるかどうかですよね。20代の頃はそういう話を聞いても、「いや違うんだ。俺はやるんだ」みたいな感情にとりつかれている感じがありましたけど、今はそれ以外の価値とか、自分がただ好きっていうか、そういう感覚を感じられるようになりましたね。自意識は消えてないですけど。「自意識なんてどうでもいい」という主張がある世界で、それを隠して平気なふりして過ごすという過酷さは、結局どうでもよくないんですよね。

――具体的に「こんなところが変わった」ということはありますか?

又吉 僕は30歳ぐらいまでは子供としゃべるのが苦手で。それって、子供と接している時のカメラがこのへん(頭上)にあって、少し離れたところから自分を見ていたからなんですね。それで、「なに子供好きそうにしてんねん」とか「なに大人っぽい声出してんねん」とか思ってたんですけど。30代半ば頃からカメラが自分の目線ぐらいに移動してきて、「(子供が)かわいい」という情報しか入らなくなったんです。

■敵への攻撃力は、味方への治癒力にもなる

――自意識でいうと、「凡人Aの罪状は、自分の才能を信じていること」という言葉が文中にありますよね。才能を信じることは決して悪いことではないのに、それを「罪状」とまで言ってしまう……。又吉さんご自身、それくらい自意識との葛藤があったんですか?

又吉 社会のシステムに納得できないことがあって。いろいろ、「こうやりたいな」と思って作品を作ったりするんですけど、イメージしたようにできなかったり。「じゃあ、やりたいと思わすなよ」と思ったんです。できひんなら、できひん能力のヤツに、やりたいと思わす装置を付けとくなよ、って。できることをやりたいと思えていたらこの苦しみは生まれていなかったのに、なんでできることを等しくやれるように思わせてくれないねん、って。なんでちょっと自己評価がスタートから高めで入ってしまってんねん、めんどくさいなぁ、この感覚と思って。もちろん人のせいにもできないから、仕方ないなと理屈では思えるんですけど。やりたいことをやってるだけなのに、なんでしんどいことが続いてしまうのかなって考えたんです。

――若い頃特有の全能感ゆえ、なんですかね……。

又吉 当時、夕方に街を歩いていて、他の会社員や学生に「こうなりたくない」とか「見たくない」って思われているような気がして。それってもう存在が妖怪なんですよ、普通に生活している方々に負い目を感じていて。みんなが家路に着いているなか、僕は夕方前に起きてジャージとかスエットで歩いていて……。「恥ずかしい」とか、「俺は何をしているんだ?」とか思って。この後ろめたさはなんだろう、って考えたら、自分が自分の才能を信じてしまった罰を受けているんだ、と感じていたんですね。かなり卑屈ですけどね。

――目指すものが芸人とか漫画家とかじゃなくて、たとえば公務員とか会社員になりたいって思えたらもっと楽に生きられたのに、みたいなことですか。

又吉 そうですね、公務員の方は公務員の方なりの厳しさとか楽しさがあると思いますし、そこで働ける能力が自分にあるとは思えないんですけど、また少し違う生き方なんですよね。僕が「芸人になりたい」って言った時に、何で周りにあんなに止められたのか、今ではすごくわかるんです。たとえば僕らの親世代だったら、終身雇用型の会社に入って、マイホームを買って、車を買って、子供を育てて、みたいな。その枠組みをみんながぼんやり目指していて、大きな会社からずれこんでいっても、なんとかやっていける。でもその枠組みからまったく外れたことをやるのって、上手くいく可能性はだいぶ低いしリスキーで、ということを僕らの親の世代は実感として持っていたんじゃないですかね。僕の親は終身雇用型の会社で働いていなかったので、僕が芸人になることを止めはしなかったですけど。でもどの本を開いても、「ミュージシャンを目指しても絶望があるだけ」とか「芸人を目指しても99%が辞めていく」とか、専門誌ですらそう書いてあったから。それを承知で、「自分ならやれるんじゃないか」と思って叶う可能性が低い世界に入った結果、やれなかったという(笑)。20歳ぐらいとかその頃って、みんながやれへんって言ってた世界にそれでも来てしまったから、「これ、どうしよう……」みたいな時期ですよね。変な世界に憧れて、失敗するという。

――一方で、本が好きという人間でも又吉さんのように創作に向かう人間と、出版社だったり会社員になって本と関わっていく人間とに分かれますよね。でも創作に向かわなかった後者は、「やりきらなかった後ろめたさ」みたいなものが、後まで残るようにも思うんです。

又吉 でも視野を広げると、全員が作家を目指していたら、本をクリエイトしてないですから。結果、本ができない。誰かのフィールドがなくなる。レフェリーがおらんかったらサッカーの試合ができないのと同じで。だから作家になることも編集者になることも一緒といえば一緒なんですけどね。でも、本人の感覚の中では、ですよね。

――本人の中の感覚とか後悔ですかね。

又吉 僕とか(『人間』の主人公の)永山は、自分でやるって言ったのに「できてないやん」って勝手に苦しんで悩んでいるから、俯瞰で見て笑ってしまう瞬間はあるんですよね。僕、19歳ぐらいの時に井の頭公園で悩みながら、地元のみんな、サッカー部のみんな、大学に行ったり社会人になったりしながら、サッカーをばりばりやってるのになー、と思ったことがあったんです。つい半年前までは僕も大阪の強豪校でサッカーをやって、部活という枠組みの中にいて。枠組みの中で端っこの方にいるのが僕は好きだったから、俺は一人が好きなんだ、孤独主義者なんだって思ってたんです。でも、マジの一人になったらめっちゃ怖かったんです。バイトの面接も受からなくて、面接受からないタイプの人間だったんだ俺、とかいろんな事に気づいていったんですよね。高校のサッカー部では、友達のお母さんとかに挨拶して、「又吉君礼儀正しいね」って言われたんですけど、“礼儀正しい僕”って、サッカー部のフォーマットを借りているから存在したものなんですね。そこから放り出されたら「なにこれ?」ってなった。

――一匹狼のつもりが実は組織の一員だった、という事実を突きつけられたんですかね。

又吉 会社員の方とかから逃げるように夜の公園を歩いて。山月記の李徴みたいな気持ちで「どうしよう、大学行ってたらよかったかなぁ」とか不安になって。芸人をやりながらサッカーも続けていたら、もうちょっとリラックスしてやりたかったことできたかなとか、いろんな言い訳みたいなことを考え始めていて。その時に、「自分でやるって言ったんやん」ってツッコミを入れたんです。そしたら1回、笑えたんです。それがなかったらちょっとやばかったですね。

――又吉さん自身は、『人間』を書くことによって、そんな10代20代のもがき苦しんでいた頃の自分の肯定できたんですか?

又吉 それはありますね。たとえば僕にそっくりの影島という存在は、人の理屈を壊しにもいけるし、人の傷を「それ傷やないで、面白い傷やで」みたいな感じで癒しにもいける。同じ人間がそれをやっていることが書いていて面白かったですけど、敵に対しての攻撃力みたいなものは、味方に向けられた時には治癒力にもなるみたいなことを感じました。それは僕自身の「しんどいこと」にも向けられていたのかもしれませんね。

――『人間』では、永山はもちろん、奥や影島のなかにも、又吉さんを発見できると思うんです。又吉さんご自身、執筆を通してうまくいってなかった時代の自分を解放したいという意図はあったんですか。

又吉 そこまで考えてなかったです(笑)。僕自身の話になるんですけど、両親とか、誰かに褒められるために生きていない人たち、そこで成果を上げて社会から価値ある存在として認められたいという欲求があんまりない人っていますよね。そういう生き方って、最初からその能力がないとできないと思うんですよ。実家に帰ると、あまりにも両親の空気が野性味あふれていて、ある時から実家に泊まれなくなったんです。実家にいると、1日で全身の筋力が落ちるというか、もう頑張れなくなっちゃうんです。母親のあの緩さと、「やめたらええやん」みたいなノリとで。僕、32歳の一番仕事が多かった時期に、「お母さんは朝礼で話すのも緊張するから、直樹はあんなにテレビに出て、人前で話して疲れるやろ。直樹一人ぐらい養えるお金貯めてるから、帰っておいで」って言われたんです。「うそやろ⁉」と思って(笑)。

――それは、うそやろ⁉ ですね(笑)

又吉 13年ぐらいやって、ようやくテレビに出れるようになって、「頑張らな!」と思っている時に、そういう人と一緒にいると緩んでいくので。現代的な頑張り方ができなくなっていくというか。でも、自分がそれなりに仕事をして、「自分の姿はこうやな」ってのに気づけるようになったら、親の姿を直視しても、そこまで自分の何かが大きく緩んだりはせえへんというか。ちゃんと、親と子じゃなくて、人間対人間で関われるようになったタイミングというかある種の親離れみたいな。今まではそんな風にはできないって思っていたんですけど、そこで親の存在をプラスの影響に持っていけるようになったんかなーと思うんです。でも、そこは考えてそうなったというよりも、『人間』を書いているうちにそうなりました。

■何をしていても自分、と思えるようになった

――永山の「自分は人間が拙い」というラスト近くの言葉がとても印象的でした。その、「人間が下手」の代表格が、永山のお父さんということでしょうか。

又吉 そうですね。客観的に見たら永山の父は人間下手やけど、本人は、人間が下手なことに気づいていないと思うんですよ。それがある種の「人間でいること」の才能、みたいな。だから、ややこしいけど人間が上手いのかもしれませんね。で、そのスペシャルな能力を永山は受け継がなかったけれど。永山の父は自分や他人、社会を見るカメラが最初から「目の位置」にあって、永山は3カメぐらい……複数の視点を持ってしまいながら自分の人生を過ごしてきた。その違いですよね。

――永山は38歳で、執筆当時の又吉さんと同年齢ですよね。これまで作中の人物と又吉さんを読者が重ねて読むことをどこか拒否する気持ちをお持ちのようにも感じましたが、今回は、どんどん重ねてくれ、という開き直りのような覚悟も感じました。その仮定で今おっしゃられたカメラ(視点)の話で言うと、又吉さんの苦しんできた「俯瞰のカメラ」が目の前に来た、そんな自分を受け入れて楽になるような時期を迎えられた、と解釈してもいいんでしょうか。

又吉 そうですね。だから、俯瞰のカメラしか持っていないっていうのだとしんどいし、実感がなくて、上から自分を操っているみたいになりますよね。でもどうせなら目の前の視点、主観みたいなのも持っていいんじゃないか、ってことですかね。

――カメラが自分の目の位置に合ってきて、多少なりとも自意識から解放されるなら、永山がお父さんを称して言った「人間は何者かである必要などないという無自覚な強さ」を感じられるようになるんでしょうか。

又吉 僕ももう、何者かである必要はない、っていう気もしていますね。

――昔ほどは自意識のせいで痛がらなくなったし、避けられる、みたいな感じですか?

又吉 そうですね。めちゃくちゃぶつかる時もあるけど(笑)。……結局、芸人以外できないんですよね。芸人じゃない人たちはいろんな選択肢のなかから芸人を選んでる、って思ってるかもしれないんですけど、実は僕らは選択肢がないんですよ。芸人を選んだ僕が、大学に行ったらよかったとか、サッカーをやったらよかったとか思っているけど、大学に行ったらもっと苦しんで、働いても仕事をすぐ辞めて、ボロボロになっていたと思うんです。だから、芸人っていうシステムがかなり僕らを助けてくれていて。だから「芸人辞めろ」って言われるのは、「人間辞めろ」って言われているのと実は一緒なんですよね。そんな感覚がずっとあったので。カテゴリーみたいなものに縛られている人からの攻撃を結構食らうっていうのは、僕自身がカテゴリーを気にしているんだろうなと思ったので、それを一回なくしたいと思いました。

――どうですか。なくせましたか?

又吉 だいぶなくせましたね。違う仕事をしてもいいな、って思うこともあります。何してても自分、って思えるようになりました。

――文中にそれにまつわるエピソードが出てきますが、又吉さんって過剰にフルスイングする人、っていう印象なんです。でも『人間』を読んで、肩の力が少し抜けたのかな、ということを感じました。

又吉 でもね、次もその次も書くとしたら全力で、ですけどね。フルスイングできなくなったら、やらなくていいと思います。今回の小説でいうと、フルスイングしようとしている時期や存在を描きながら、そうではない存在もあるということを書きたかったから。第3章では、ほぼ永山に理屈みたいなものを持ち込まさず、目として風景を見ているという。たまに理屈が出てくるけど、たとえば母親の普通の言葉で理屈が消されていくという。

――又吉さんの内面を出し切った今、次回作はどんなものになりそうですか?

又吉 2つぐらい考えてるんです。たとえば子供が主人公の話とか。次からは、僕と登場人物が重ならないような物語に寄っていくと確信しているんですけど、いざ書き進めていったら「むちゃくちゃ又吉やん!」ってなるかもしれないです。そこは約束したくないというか。その時の形に任せる、みたいなことになっていくと思います。

取材・文=高橋さゆり 撮影=三宅勝士