角田光代さんが、5年読み込んでわかった「源氏物語の真実」とは?――『源氏物語』現代語訳ついに完結!

小説・エッセイ

2020/3/7

角田光代さん

 抜群のリーダビリティと現代人の感性に合った訳文で大好評を得ている角田版『源氏物語』現代語訳が、とうとう完結した。

 角田さんがこの大仕事に費やした時間はおよそ5年。

「私としては5年をかけて訳したというより、5年かけて読み込んだという気持ちのほうが強いんです。この物語とじっくり向き合う時間を得られたのは、本当によかったと思います。取ろうとして取れる時間ではないので。今は『源氏物語』を〝私の物語〟として所有できたという気がしています」

じっくり読むことで見えてきた王朝の女性の多彩な個性

『源氏物語』は、平安時代に一条天皇の中宮となった藤原彰子に仕えた女官・紫式部が書いた、全部で54の帖(章)からなる長編小説だ。

 上・中・下の3巻に分けられた今回の現代語訳では、上巻が光源氏の出生から全盛期を迎えるまで、中巻が栄華の陰りから世を去るまで、そして下巻が子や孫などの次世代が巻き起こすドラマを収録している。

「この仕事に取り掛かるまで、『源氏物語』は圧倒的な主人公である光源氏が好き勝手やっているだけの物語だという偏見がありました。実際、最盛期までの光源氏はそのイメージのままです。でも、晩年が近づくにつれ輝きがどんどん弱まっていき、苦悩を抱え、そのまま死んでしまいます。さらに、光源氏がいない世界で、遺された人たちがどう生きていくのかというところまでがとても丁寧に描かれている。ということは、紫式部はただスーパースターを描きたかっただけではなかったのだろうなと思うようになりました」

 すっかり『源氏物語』のおもしろさに目覚めたという角田さんだが、だからといって光源氏に入れ込んだり、お気に入りの登場人物ができたりしたわけでもないそうだ。

「特別好きな人はいないですね。もともと私自身が小説を書く際にあまり感情移入せず、距離を置いて書くタイプなので、そのせいかなと思いますが。とはいえ、それぞれに感慨はあります。たとえば、六条御息所は異常に嫉妬深い人とされがちですが、でも生霊を飛ばすほど嫉妬する自分に誰よりも苦しんでいるのは彼女自身です。だから、つい弁護したくなる。それから、不動の第二夫人的地位を確立する花散里。紫式部はしつこいぐらい『体の関係はもうないけど』って繰り返すんですが、そんな何度も言わなくていいのでは?と(笑)。ほかにも、紫の上こそ理想の女性として書いたのだろうなとか、このキャラクターはすごく嫌いだっただろうなとか、いろいろ想像するのがおもしろかったですね」

男から逃げる女・浮舟に紫式部が託した気持ち

 今般発売された下巻は「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖が収められているが、「橋姫」からの10帖は京都の南方にある宇治周辺が主な舞台となっているため、「宇治十帖」と呼び習わされている。

 紫式部は、「宇治十帖」において3人の女性に幸福とはいえない恋愛を経験させた。とりわけ、最後のヒロインとなる浮舟は、源氏物語を彩る女君たちの中でも特異な性格付けをされているのだ。

「最初に『源氏物語』を読んだ時、どうして浮舟を物語の最後を飾る女君にしたのかという疑問がすごくあったんです。長い物語を通じて、いろんな個性、いろんな感情を持つ女性たちを描いてきたのに、最後の最後でまるで感情がないような人を出してきたのはなぜなのか、ものすごく考えました。そうすると、どうしても気づかざるを得ないのが、今までの女性たちはみんな兎にも角にも男に頼らないと立つことができない人たちばかりだったという事実でした。紫の上でさえ、光源氏に振り回された一生を送っています。でも、浮舟というキャラクターだけは、人生に絶望しているがゆえに、かえってどの男にも頼らないんですよ。唯一、自分の足で立とうとしている。もちろん、時代の制約がありますから、女性の自立は出家や死といった極めてネガティブな行動でしか成り立たないんですが、それでも男を切り捨てようとしたのは彼女だけだと気づいた時に、だから『源氏物語』の最終形態は浮舟なんだなと思い至りました。私なりの、ちょっとフェミニズムに寄った考えなんですけど」

 浮舟は匂宮と薫、2人の貴公子から同時に愛されるという設定。普通なら有頂天になりそうなものだが、浮舟には彼らの求愛は鬱陶しく、面倒なものでしかない。
 男の愛を得ることでしか生きられなかった平安朝の姫君たちにとって、最高の貴公子を徹底的に避けようとする浮舟の言動はかなりの衝撃だったのではないか。

「浮舟は自らの意思で家を出て、仏門に入るために髪を下ろすという強硬手段を取るわけですが、それが成就してからでさえ、一人の人間として自由に生きることを許されませんでした。そんな彼女が最後にどういう行動に出るのかを書かないまま、紫式部は物語を閉じています。これは、あえて書かないことで浮舟に人生に対する選択肢を与えたとも読めます。ありとあらゆる人間を書ききった末にたどり着いたのが、不幸だけれども人生の選択肢を与えられた浮舟だったと考えると、とても興味深いですよね」

 源氏物語に登場する人物は、端役まで含めると400人を超えるといわれている。そんな膨大な数を書き分けて、大きなストーリーの中に組み込んでいった紫式部の技量は、やはり尋常なものではない。

「限られた貴族社会の中で、あれだけのバリエーションを持った登場人物を生んだのだから、紫式部はやっぱり並外れた創造力と観察眼の持ち主だったのでしょうね。作品を読む限り、彼女は“中身のない人間”がとても嫌いだったみたいで、自分が置かれた現実を理解できなかったり、何も考えずに漫然と流されているような女性を描写する時は、筆が厳しいんです。きっと、“そんなふうにしか生きられない女って何なの?”という気持ちもあったのではないでしょうか。女性の人生について突き詰めて考えた人に思えてきますし、そうだとすると彼女は今日の私たちのような物書きの源流にいる、フェミニズムの超元祖にも見えてきます。もちろん、何でもかんでもフェミニズムに結びつけるなという人もいるでしょうけれど、そういう人の価値観にもちゃんと応えてくれるのがこの作品です。多様な読み方ができるからこそ、いろんな時代のいろんな人たちに受け入れられてきたのでしょう」

 紫式部は、寄る辺なき女君たちは言うまでもなく、光源氏のような超人でさえ運命に翻弄される存在として描いた。この長い物語を書く中で、彼女は何を考え、何を見つけていっただろうか。

「人間って、小さな偶然の重なりで、いい意味でも悪い意味でも、思いもよらぬ人生に導かれることがありますが、『源氏物語』にはそういうことが書かれていると思うんです。少なくとも、私は読んでいる間はずっと『人生や運命って何なのだろう』というようなことを考えていました。千年以上も前に書かれた古典文学ではありますが、現代の私たちにもとても近いところにある作品なのです。私の訳は読みやすさに留意したので、登場人物同士の関係性や繰り返す因果のドラマなどに注目しつつ、光源氏やその子孫の人生を俯瞰したい方におすすめです。だから、古典として構えて読むよりも、まずは“物語”として楽しんでほしいですね」

 

『源氏物語』(上・中・下)

『源氏物語』(上・中・下)
紫式部:著 角田光代:訳 河出書房新社 各3500円(税別)
天皇の子として生まれながらも母の身分がさほど高くないという理由で臣籍降下を余儀なくされた光源氏。だが、光に喩えられるほど非凡な美貌と人格で男女問わず魅了し、宮廷の中心人物となっていく。稀代のスーパースターの一生、そしてその子孫の生き様を描いた平安時代の大河小説にして日本古典文学の金字塔『源氏物語』を角田光代が現代語訳。

角田光代
かくた・みつよ●1967年、神奈川県生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。96年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、2005年『対岸の彼女』で直木賞、07年『八日目の蟬』で中央公論文芸賞、12年『紙の月』で柴田錬三郎賞および『かなたの子』で泉鏡花文学賞を受賞するなど受賞歴多数。