人間の深みは、知識でもなく教養でもない。人には言えない秘密にあるんじゃないかしら

新刊著者インタビュー

更新日:2013/12/4

 ファニーな、なんてファニーな話だろう。若い娘が、恋もしてない男を尾行するなんて。まるでフランス映画の読み心地。読み始めると、残りを明日に回せなくなってしまう。

 始まりは、ふとした好奇心だった。大学院生の白石珠は、地元の駅で近所に住む石坂一家を見かけ、夫を尾行してみようと思う。都心まで尾けると、出版社勤務の石坂は都心のカフェで女性と逢い引きしていた。家庭という日常とは、隔壁で仕切られた貌を持っていた石坂。その秘密の温度に炙られたかのように、珠はその後も尾行という行為自体にのめり込んでいく。
 心理のプリズムを描くその作風はそのままに、小池さんが主人公を積極的に動かす異色の行動派小説。とても新鮮だ。

 

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ソフィ・カルに触発されて

──主人公の「白石珠」は25歳です。こんなに若い主人公も珍しいのでは?
「そうですね。『恋』の主人公の布美子も22歳と若かったけれど、それは回想シーンの中の年齢。現在という時間軸の中での彼女は45歳くらいでした。この白石珠は最初から最後まで大学院生なので、この年代の女性を描くのは初めてですね」

──若いだけあって、珠は観念の塊。尾行を始めるのも、大学のゼミの授業で刺激を受けたソフィ・カルという“尾行アーティスト”に刺激を受けてです。
「ソフィ・カルというのは、私とほぼ同年代のフランスのマルチ・アーティストなんです。彼女は探偵を雇って自分を尾行させたり、拾った手帳の住所録にあった人々を訪ね歩いて、落とし主の人物像を浮かび上がらせようとしたり。その新聞連載は、さすがに落とし主から抗議されて中止になったようですが(笑)。

 そのソフィ・カルに『本当の話』という本があって、あれは1999年だったかな、呼び寄せられるように本屋さんでその本を買い、知らない男性をパリからヴェネツィアまで尾行した『ヴェネツィア組曲』に、“これは一体なんなんだ!?”と。そうしたら数カ月後に原美術館でソフィ・カル展があって、勇んでいくと、『限局性激痛』という題で、恋人との破局までのカウントダウンの心象風景をベッドや電話機を使って視覚化している。そこでまた“この人、ほんと、頭がおかしいんじゃないの!?”って(笑)」

──つまり、すごく“そそられた”わけですね。
「そう。すごく触発された。『本当の話』には、ボードリヤールが『ヴェネツィア組曲』に寄せた文章も入っていて、一読しただけでは分かりづらいんだけど、原美術館から帰ったあと読み込んだら、すごく理解できたの。
 ボードリヤールは、こんなことを言ってるんです。なんの役にもたたないことに意味がある、見知らぬ人間のあとをつけることによって、それまでダラダラ過ぎていた空しい日常が初めて意味のあるものになる。つまりそういう行為をすることによって、実存的な自分を意識することができる、と。それで創作ノートにメモしたの。いつか、私らしい形で、これを小説にしてみたいって」

──13年間、熟成の時を待っていたネタだった、と。
「ま、かっこよく言えば(笑)。本当のところは、ずっと仕事に追いまくられてただけ。具体的なアイデアも浮かばなかったし。それが今回、『野性時代』の編集部に“『青山娼館』のときみたいに、これまで書いたこともないものを書いてほしい”と言われ、創作ノートを見返して、あ、このままソフィ・カルがヴェネツィアでしたような尾行の話で書いてしまおうと思ったの。若い読者は“ボードリヤール、それ誰?”って感じだろうけど、それでもいいと思って」

──この本では、ボードリヤールの言葉は小池さんの言葉に変換されています。「無意味な尾行」「文学的・哲学的尾行」と。主人公を若い女性にして、正解だったのでは?
「大正解でした。ちらっとアラフォー世代の女性を主人公にしようかなとも思ったんですが、欧米ではあり得ても、日本ではちょっと無理がある。ただ、若くても喪失体験があった方がいいと思って、ああいう設定にしましたけれど」

 ああいう設定とは、こうだ。珠は不定期で女優のドライバーのアルバイトをしている卓也と同棲しているが、彼には打ち明けていない傷がある。20歳前後の頃、16歳年上の男盛りの男性と恋愛、その絶頂で突然、彼をスキルス性の胃癌で喪くしているのだ。珠がその後選んだのは、喪失感を水面下に押し込めた穏やかな生活。しかし、珠は、石坂の秘密を知り、卓也にも秘密の貌があるのではないか、年の離れた女優の桃子と、実は男女の関係にあるのではないかと、猜疑心や嫉妬心を募らせていく。

──二人は低体温カップルです。しかし、尾行することで、珠の生きる温度みたいなものは確実に上がっていきます。
「尾行というとストーカーみたいな感じになってしまうけれど、これは別の話。全く知らない人間が抱えている秘密を知ることで、ある共犯者意識が芽生える。それが、本人の実存を満足させるんです。その快楽というか幸福感を、珠は知ってしまう」

──小池さんの中にも尾行欲はありますか?
「具体的にするかどうかは別として、もともと人間の秘密には興味あります。私はなぜかよく、秘密を打ち明けられるんですよ。その経験から言うと、どんなに朗らかに見える人でも、人間ってすごい秘密をかかえてる。逆に言うと、オープンでいることに価値を感じていたら、魅力がない。人間の深みは、知識でもなく教養でもない。人には言えないことを抱えていて、それをなんとか乗り越えながら生きていくところにしか生み出されないものじゃないか。そんな思いはどこかにありますね」