西尾維新ロングインタビュー!『新本格魔法少女りすか』17年の時を経て、いまここに完結!

文芸・カルチャー

公開日:2020/12/8

『新本格魔法少女りすか』の雑誌連載が始まったのが、17年前の2003年10月。2007年3月の3巻刊行後、出版界の中でも多作速筆で知られた西尾維新は、なぜ本作だけ物語を進めることなく、止めてしまったのか。そして、今年再び始動した経緯は――。『りすか』の謎に迫るべく、作家にロングインタビューを敢行した。

新本格魔法少女りすか 1巻表紙イラスト
イラスト:西村キヌ

 

Q まずうかがいたいのは『ダ・ヴィンチ』2011年4月号の特集内ロングインタビューで、西尾さんは『恋物語 第恋話 ひたぎエンド』で「〈物語〉シリーズ」を完結すると宣言されていました。しかし2020年11月現在、まだ続いています! 何が起こったのでしょうか。

A 危なっかしい言い方が許されれば「〈物語〉シリーズ」は行き倒れるための小説でした。なぜならまだシリーズと呼ばれる前の『化物語』が、小説家人生の集大成として書かれた短編集だったからです。それさえ書ければ死んでもいいと思える小説が小説家ごとに一作ずつあるとするなら僕にとってそれが『化物語』だったわけですが、実際に生き長らえてみると心残りも生まれます。本来は第ゼロ作であった第2作『傷物語』を書いていないのに集大成でもないだろうと思いました。あとはその繰り返しですが、繰り返しが続くとだんだん死ねなくなってくるのも事実。これは死に損ないの吸血鬼を主軸に据えた必然とも言えます。だからモンスターシーズンの最終作は『死物語』なのです。おそらくキャッチコピーは上巻が「百パーセント趣味で書かれた小説DEATH。」下巻が「百パーセント趣味で書かれた小説で死た。」になるでしょう。

advertisement

Q 一方で、このほど最終第4巻が刊行される『新本格魔法少女りすか』は、第3巻が2007年3月刊。実に13年9カ月ぶりの新作刊行になります。第3巻のあとがきには「ラスト四話」という記述もあります。にもかかわらず、これほどの時間が開いたのはなぜか、また、このタイミングで再始動した理由をお聞かせください。

A 『新本格魔法少女りすか』を再開できた理由はそのように「〈物語〉シリーズ」が続いていたからです。具体的には『混物語』ですね。クロスオーバーを解禁し、阿良々木暦と水倉りすかのコラボレーションを書いてみると、作者本人を含め誰もがもう書けないと思っていた魔法少女が、しっかり書けた体感があったのは大きいです。そして確か『忍物語』だったと思いますが、あの八九寺真宵が『十七年後に最終巻が出るらしい』という予言をしていたので。いたいけな少女を嘘つきにするわけにはいかないと執筆を決意しました。だからいつか水倉りすかと八九寺真宵のコラボレーションも書いてみたいですね。

Q 第1話が雑誌『ファウスト』に掲載されたのは、2003年10月。デビュー2年目の当時のご自身はどんな状況にあり、どんな思いで新しいシリーズを立ち上げたのでしょうか。

A 文庫化の際に第1巻を読み返してみると、今では絶対に書けない小説だと、この17年で失ったものの多さに愕然としました。とは言えこのとき感じた喪失感が、僕に第4巻を書かせてくれたことは間違いありません。失うことは得ることと同じというのは、『クビキリサイクル』以来書き続けている修辞法なので、僕自身がそれを否定するわけにもいきません。なのでその第4巻が2003年の僕が納得する仕上がりになったかどうかと言えば、もちろんなったと断言できます。向こうは向こうでこの最終巻に愕然としていることでしょう。

供犠&りすかのバディで描きたかったこととは

新本格魔法少女りすか イラスト

Q りすかは魔法少女でありながら魔法ステッキの代わりにカッターナイフを持ち、死に直面するほどの血を流すと1分間だけ、17年後の27歳の大人(魔女)になれる。「大人になることの痛み」という青春小説的なテーマが花開いています。りすかが「時間」という種類の魔法を使っていることに強烈な必然性を感じるんですが……ヒロインの設定はどのように固めていったのでしょうか。

A 当時の感覚を再現することは今となっては難しいですが、少年少女が大人に立ち向かい、大人になるというのがどういうことを意味するのかを、両面から書こうとしていたきらいはありますね。のちに「伝説シリーズ」で書くことになった、地濃鑿に代表される魔法少女のほうは、むしろ成長が許されない、ティーンエージャーであることを強制されるグループでしたが、水倉りすかはそうではない。もしも全13話ではなく全50話の小説だったら、大人りすかのヴァリエーションをもっと増やしたでしょうね。未来は可変であり、少年少女はどんな大人にでもなれるというのが、少なくとも彼女が使う魔法の神髄であり、2003年の僕が書きたかった小説なのでしょうから。

Q りすかとタッグを組む供犠創貴は、全人類の幸せのために世界を支配しようとする、いわば「策士」。りすかという駒を手に入れ、「魔法使い」使いとして戦っていく彼は、まさかの10歳!です。供犠の人物像は、どのように造形されたのでしょうか。また、供犠とりすかの関係は、「戯言シリーズ」のいーちゃんと玖渚友のそれと似ている部分もありつつ大きく異なりもする。バディの描き方で意識した点はどんなところですか。

A 2003年の西尾維新にそういう意識はなかったでしょうけれど、振り返ってみれば、供犠創貴は10歳の戯言遣いを書こうとしていたんじゃないですかね。言うなら挫折を知って凹まされる前の「いーちゃん」とでも言いますか。結局「戯言シリーズ」で、「いーちゃん」と玖渚友との出会いみたいなものが具体的に描写されることはなかったわけですが、それはこちらで、供犠創貴と水倉りすかの関係性を一から構築しようと試みていたからでしょう。「世界シリーズ」の語り部である櫃内様刻に関して言えば、挫折を知らずにそのまま高校生になっちゃったルートなんですかね。10歳の頃に病院坂黒猫と出会っていないのは、いいことなのか、悪いことなのか。確かなことは言えませんが、最終巻『ぼくの世界』では、その辺りが描かれるんじゃないですかね。

Q 親と主人公たちとの関係性が力強く前に出ている印象があり、「父殺し」の神話的なムードも、この作品ならではだと思います。主人公バディが10歳の子供であることからの必然だったのでしょうか。

A これはもう完全に2020年の僕の価値観になってしまいますけれど、子供にとって大人って本当に大人だし、親って本当に親じゃないですか。まったく違う生き物で、共感するのがすごく難しいと思うんですよね。だから敵意や反抗期みたいなものはあって当たり前なのでしょう。逆に大人側、親側からしてみれば、誰しも一度は子供だったことがあるわけで、しかも言うほど大人になっているわけでもなければ、親であることがすべてなわけもなく、むしろ精神年齢が子供よりも年下になるときもある。哀川潤がいい例で、『人類最強のヴェネチア』では、娘としての側面のほうが強くなっていました。もちろんこういうことが言えるのも17年後に書いているからであり、必ずしもそんな意図はなかったと思いますけれど、第1話で水倉りすかが「大人になんか、なりたくないの」と言っていたのは、案外的を射ている気もしますね。大人りすかは基本的に凶暴で凶悪ですが、少女のイメージする大人像があれなんだとすれば、そりゃあ殺したくもなるでしょう。

新本格魔法少女りすか イラスト

傷つかないキャラクターなんて死んでるようなもの

Q 手塚治虫はマンガで初めて傷つく身体を描いたと言われることがありますが、西尾作品はいわゆる萌えキャラも血を流すし、傷つくし、死ぬ。特に今作は彼らの「肉体」の感触が通常ラインを半歩踏み越えて描かれている印象があります。自覚的でしょうか。

A まったく自覚はありません、質問されて初めて気付きました。むしろ過保護なつもりでいて、危ない行為や傷つく真似はしてほしくないと願いながら小説を書いています。しかし親の思うように子は育たないように、作者の思うようにキャラクターも動きません。失敗もするし、間違うし、死地に赴く。僕はなんとか邪魔しようと思うんですけれど、そういうとき作者はやっぱり無力ですね。はらはらしながら見守るしかない。成長すること、変化すること、死ぬことまで含めてキャラクターなのでしょう。傷つかないキャラクターなんて死んでるようなものですしね。なのでいずれ、山田風太郎先生の『人間臨終図巻』ではないですけれど、キャラクターの死に様をまとめた本を出したいですね。『な』行の項目に西尾維新が載ってるという。小説が書けなくなって死んだって死因で。

Q 『人類最強のヴェネチア』のあとがきに「ヴェネチアを舞台にした推理小説をいつか書きたいと昔から思っていた」とありました。ヴェネチアだからこその、ヴェネチアならではの謎やトリックが満載ですよね。『りすか』は九州、おもに佐賀と長崎が舞台です。人間と魔法使いの「断絶」の構想は、どのように生まれてきたのでしょうか。

A 今の学説ではまた違うのでしょうけれど、僕が習ったときには、長崎県は鎖国時代に唯一海外に開かれていた土地ということで、独自性を強く感じていました。逆に、そこはもう2003年の僕の至らないところと言うほかありませんが、佐賀県を舞台に魔法少女の小説を書くのであれば、なぜ吉野ヶ里遺跡をフィーチャーしなかったのか、疑問ではあります。元々作中に登場する「六人の魔法使い」は佐賀県以外の九州6県それぞれをテリトリーとしていて、各地の名所でバトルするというような流れを考えていたはずなのですが、それは2020年の僕では無理でしたね。2003年から怒られています。ただし、2003年の僕が抱いていた、47都道府県すべてを旅するという夢は、去年、ようやく叶えることができました。2003年と2020年で唯一得られた合意と言えましょう。なのでこれからは、各都道府県を舞台にした小説を47冊、書きたいですね。最近は旅行がお好きらしい哀川さんが来てもいいっていう自治体、ありますかね?

Q 魔法式や魔法陣、魔法の種類などなど、魔法がある世界観の設定に関してはどのような苦心をされたのでしょうか。

A 苦心はあったはずです。設定を考えるのが苦手なのは、今も昔も変わりませんので。とは言え、当時はまだ、向こう見ずにも苦手分野にチャレンジしようという気概があったようです。今はむしろ、苦手分野をいかに作らないかという方向に力を入れています。書いていないことは決まっていないことであり、世界のすべてを、僕やキャラクターが把握していなくても構わない。いわば17年で失ったもののひとつなのですが、これはどちらのほうがいいのか、よくわかりません。途上ですね。『新本格魔法少女りすか』が完結したことですし、また設定を固めた小説を書いてみるのも面白いかもしれません。

Q 物語は実際どのように書き進めていかれたんでしょうか。最初に全体像を描いていたのでしょうか。供犠とりすかの前に現れる魔法使いたちはどのように創造していかれたのか。供犠&りすかの「天敵」ツナギのことはぜひうかがいたいです。

A シリーズ内で一番好きなキャラクターを挙げるのは簡単ではありませんが、好きな理由を説明しやすいのはツナギですね。全身に牙のある口という装いもさることながら、水倉りすかとは違う形で、少女と大人の両面を併せ持つというのが魅力的です。第4話で彼女が登場した時点で、小説の方向性がはっきりと決定づけられました。お察しの通り、終わりかたはおろか、一話先の展開さえ決めずに全13話とだけ決めてシリーズを書き進めたわけですけれど、2巻以降の軸にあったのはやはり2000歳の魔法少女だったように思います。最近は先の展開を考えないを通り越して、予告編みたいなクリフハンガーを書くことも楽しんでいるので、「忘却探偵シリーズ」あたりでは、ちょっと追い詰められています。『五線譜』と『伝言板』が手詰まりになって久しいです。ただし『メフィスト』で連載していた『伝言板』が手詰まりになったからこそ『りすか』の連載が始まったと言えなくもないので、こうなるとすべてが入念に計画された伏線ですよね。

Q 第1話から「異能バトルもの」としての魅力と魔力が全開です。と同時に、本作は「ミステリ」でもある。荒木飛呂彦イズムをビリビリ感じるのですが、実際のところ『ジョジョの奇妙な冒険』などから影響を受けた部分はあるのか。「異能バトルもの」と「ミステリ」の融合に関して、本作で心がけていたことはどんなところでしょうか。

A これは昔から一貫して変わらないことですが、僕はどんなエンターテインメントもミステリとして楽しんでしまうところがあって、『ジョジョの奇妙な冒険』も、本格ミステリとして読んでいました。謎があって、解決がある。魔法少女とミステリの相性みたいなところはあまり深く考えていませんでしたけれど、そういう人間だから、書けばなんでもミステリの文法になってしまうのは避けられませんでした。だから『魔法少女りすか』ではなく『新本格魔法少女りすか』なのでしょうね。17年の歳月が経過して、新本格ミステリは今やすっかりスタンダードになり、あえてミステリに冠されることはなくなりましたが、そんな時代だから逆に新しいタイトルになったように思います。この4巻を講談社ノベルスから2段組で出版してもらえるというのは、やっぱり嬉しいですよ。

新本格魔法少女りすか イラスト

2020年を舞台にした理由 そして西尾維新の「未来」

Q 今回、第1話の時点で書き込まれていた「17年後」という数字が、まるで魔法式が発動するかのように効いている。既刊3巻の作中において、物語は2003年が舞台である旨の記述はなかったと思います。どこかの段階で、最終巻は17年後の2020年が舞台の一つになる、その年に最終巻を出すという目論見が思い浮かんだのでしょうか。

A 印象深い本は総じて買った書店まで覚えているものですが、それは小説の着想も同じでして、水倉りすか達が2020年にやってくるという展開はなぜか九州ならぬ信州で閃きました。これは実際に17年経ったからこそ思いつくアイデアですよね。2003年に2020年を書こうとはまず思わないわけで。しかし『化物語』を書けたら死んでもいいと思っていた小説家が、こうして今も生きていられるのは、17年後を見据えた小説を、別に書いていたからかもしれないので、いやはや、考えなしに書いておくものですよ。ちなみに、スマホという概念がない時代に始まっている「〈物語〉シリーズ」がこのように長期化した際、常に現代を意識して書くように決めたので、そのルールを適用すると、2003年に書き始めた小説の舞台を2003年と類推することには無理はないと判断しました。

Q 今秋刊行した『デリバリールーム』とのシンクロを思わざるを得ません。“とある”題材に対して、物語作家として心が動く部分があるのでしょうか。

A 書いた順番で言うと①りすか11話→②人類最強のヴェネチア→③デリバリールーム→④りすか12話→⑤りすか最終話、ですね。一度書いた小説を二度は書きたくないと思っているので、同時期に書く小説は、意図的に方向性に差をつけるようにしているのですが、共通する主題が現れることはありますね。ただしここに関しては、更にルーツとなる小説として、西尾維新100冊目の小説である『ヴェールドマン仮説』があります。家族がテーマの小説だっただけに、その部分をもっと掘り下げられたはずという気持ちが、『人類最強のヴェネチア』や『デリバリールーム』、そして『新本格魔法少女りすか』の最終2話に、自然に現れたのだと思っています。ところで③と④の間に『扇物語』を書いていますけれど、『化物語』に対する『傷物語』がそうだったように、「書き切らない」というのも次に繋がるステップなのかもしれませんね。わざとできるようなことではありませんが、『ヴェールドマン仮説』『人類最強のヴェネチア』『デリバリールーム』『新本格魔法少女りすか4』という、違うシリーズ同士の繋がりを読むのもなかなか味わい深いです。

Q 激動にもほどがある2020年の経験は、作家としてどのような変化を導いたと思われているでしょうか。コロナ禍はどのように過ごしていましたか。 

A 『Day to Day』という企画に参加させていただきました。これは緊急事態宣言中、日本を代表する作家達が1日1話ずつ、掌編や随筆をtreeというサイト上で発表し、活字で世界を応援しようという企画でした。世界をというのは決して大袈裟ではなく、発表される文章は、同時に英語・中国語に訳されていたのです。この状況下で小説の力を信じるこの企画に、僕自身が力づけられました。もちろん僕は日本を代表してはいませんが、『筆が速い』という理由で参加させてもらえたので、『掟上今日子のSTAY HOLMES』を書かせていただきました。1月に単行本化されるそうですので、是非、お読みいただければ。

Q 西尾さんはこれまで何度も「最終回」を書かれてきましたが、今回の「最終回」は格別な感慨があったのではないでしょうか。改めて今、『りすか』を完結させたという事実について感じることとは? また、最終話を読み終えた時、心に残ったのは「未来」という言葉の感触でした。「西尾維新の未来」について、最後に一言、コメントを頂戴したいです。

A いつ倒れても平気なように、どんな小説も最終回のつもりで書いているというのはあります。しかし中でも『りすか』の最終話は最終話感が強く、「〈物語〉シリーズ」をここまで続けてきた僕でも、あの続きを書くことは難しいでしょう。感慨無量です。しかしこれを書いてしまうと、「世界シリーズ」の最終巻『ぼくの世界』を書くまでは死ねませんね。未来の話をすると、今は来年に向けて『五線譜』でも『伝言板』でもない、忘却探偵の新作を書いています。タイトルは今のところ『掟上今日子の鑑札票』としておきましょう。あとは『美少年探偵団』をアニメ化していただきますので、そちらも展開したいですね。原作小説は完結していますけれど、あのシリーズは何かは書けそうですし。その後『死物語』を書くつもりです。上巻が暦編、下巻が撫子編で、同時発売を目指します。シリーズではないところでは、『ヴェールドマン仮説』『デリバリールーム』の並びで、年に1冊、完全新作を執筆したい気持ちはあります。目標の半分が目標ですが、いずれにせよ、小説を書いている間は生きていられるので、ひとまずまた17年、がんばってみようと思います。本日はありがとうございました。2021年の西尾維新もよろしくお願いします。

新本格魔法少女りすか イラスト

 

にしお・いしん●1981年生まれ。第23回メフィスト賞を受賞し、2002年『クビキリサイクル』で作家デビュー。同作から始まる「戯言シリーズ」を05年に完結させ、06年、『化物語』を皮切りに「〈物語〉シリーズ」の刊行スタート。ほかの著書に「世界シリーズ」「最強シリーズ」「忘却探偵シリーズ」などがある。

取材・文:吉田大助 イラスト:西村キヌ