「些細な日常を掘り下げるうちに“真実”に辿り着いた4コマギャグ」フランス文学者・中条省平が語る『自虐の詩』

マンガ

公開日:2021/5/15

この記事は『ダ・ヴィンチ』2021年6月号特集「嗚呼、このマンガが好きすぎる」からの転載です。

些細な日常を掘り下げるうち真実に辿り着いた4コマギャグ

 『自虐の詩』は、1985年から1990年まで連載された作品です。この時代、日本のマンガ史に残る傑作が僕の中では少なくとも3つ出ている。大友克洋の『AKIRA』、楳図かずおの『わたしは真悟』、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』。

 3つとも1982年に始まっているんですが、これらは人間の未来や宇宙のような大問題を楽しく読めるように描くという、マンガの王道の傑作、と言えると思うんです。ある意味では手塚治虫が決定づけた冒険の枠組みを使っている。でもその3年後に始まり、ほぼ同時期に連載されていた『自虐の詩』の描き方は、逆。この世の中で生きる〝どうしようもない〞人たちに寄り添い、掘り下げていくうちに人間的な真実が出てきたというマンガです。宇宙の問題も小さな人間の問題も、つきつめていくとある真実に向かうという点においては一致している。

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 『自虐の詩』の連載媒体は、マンガ誌ではなく『週刊宝石』でした。一般の女性の写真を並べて誰が処女かを当てるような今では考えられない企画が載っている、スキャンダリズムを極限的に肥大させたような雑誌でした。だから『自虐の詩』も雑誌に合わせた内容で始まったんです。無職でギャンブルばかり行くヤクザまがいの男・イサオとなぜかその男に尽くし続ける女・幸江の日常を笑う……という残酷な出発点を持っていた。

 イサオが〝ちゃぶ台返し〞をするのが定番のオチ。よほど忍耐強い人じゃないと、それを見続けるのが苦痛で読むのをやめてしまうと思う(笑)。でも、僕もそうだったんですが単行本になったものを読んだ時、この作品がだんだん群像劇として光ってくることに気づくんです。隣の部屋に住んでいる〝おばちゃん〞は、つかず離れずの距離感で、たまにお金を貸してくれて、料理を分けてくれて。でも逃げ腰だったり、二人をちょっと馬鹿にしているところもある。幸江の働いているあさひ屋(中華料理店)のマスターも切ないですよね。幸江に対して一方的な、この上ない純愛を抱いている。でもつらすぎてソープ嬢とつきあい始めたりもする。おばちゃんも、町内会長に恋して、騙されて高いものを買わされたりする……人間的な真実がいろんな人の中にちょっとずつあるのだということが描かれていく。

 ただ、この物語が決定的に変わるのは、群像劇の中に幸江のお父さんが出てきてから。連載が始まってすぐに一度登場してはいるんですが、父子家庭で育った幸江の小学生時代が描かれるようになって、このマンガはある次元を開く。

 幸江はお父さんが借金取りに暴力を振るわれながら、自分を「女郎にでもなんでも売り飛ばす」と言っているのを見るんです。そして借金取りが帰った後に、お父さんは幸江に向かって「父を軽べつするか」って言うんですよね……そういう父を見た娘というのは、人生のある真実を獲得していると思う。(著者の)業田さん本人に聞いたんですが、お父さんをどう描くかはほとんど考えていなかったそうです。こんなにも重要な副人物になったのは、長期連載ならではのおもしろさですよね。

 幸江は家庭がつらいだけでなく、学校でもいじめに遭っている。この作品が『自虐の詩』と名付けられているように、彼女はいじめられるのは自分が悪いと考えていて、自虐の恐ろしい心理まで描かれています。
中学に入ると幸江に「熊本さん」という友達ができるのですが、熊本さんとの友情が描かれるところがクライマックスですね。熊本さんはすごい! 拝んじゃいますね(笑)。彼女もお金がないし学校ではいじめを受けているんだけど、全く動じない。学校から掃除道具と鶏、池の鯉まで持って帰る(笑)。二人の魂の交歓が行われ、幸江は救われました……という話になるのかと思いきや、そうはならないんですよね。藤沢さんという、美しくて性格の良い幸江の理想のかたまりのような同級生が、幸江に声をかけてきて、幸江は熊本さんを遠ざけてしまう。それでも熊本さんは胸をはっているんだけど、路地の奥で、一人になった時に泣くんですよね……われわれも泣かずにはいられない、切羽詰まった感動がある。人間に対する業田さんの眼差しの重層性を感じます。

 ただ、ここでまた幸江の父が登場してくる。女のために銀行強盗をして捕まるんです。さすがの藤沢さんも幸江から離れるけど、熊本さんだけが声をかけてくれて……ここでもう何度目かわからないクライマックスがくるんですが、「ずっと友達でいて」という幸江を熊本さんは殴る。「ごめん」と裏切りを詫びる幸江をさらに何度も何度も殴りながら「ごめんごめんって一生言い続けるか」「殴り返せ」と言う。幸江は石で殴り返すんですが(笑)、彼女が自虐から脱する瞬間ですよね。単に苦しい境遇の二人が慰め合うのではなく、自分の命をかけるような励ましになっている。お父さんの銀行強盗からの十数ページは、日本マンガの一つの極限だと思います。終盤では、イサオが「シャブ中の立ちんぼ」だった幸江を愛し、救い出してくれた人だった……という意外な過去も明かされます。これも業田さんは連載当初は考えていなかったエピソードだと思います。
最初は、個別の人生を描いていたのに、最後には「人間とは何か」という普遍性に達している。幸江の顔も抽象的になっていくんですよね。頬の線が消え、おくれ毛がなくなり、ほくろも小さくなる。作者がだんだん幸江を愛していったからかなと思います。

 それともう一つ忘れてはいけないのが、幸江と母親との関係です。幼い頃に家を出たお母さんの顔を、幸江はどうしても思い出すことができない。でも自分が妊娠した時、思い出すんですよ。誰もがみんな「母から生まれた」と思い至る。自分のお母さんもほかのお母さんも同じで、産んでくれたこと自体が尊いのだと気付いた時、お母さんを許せたんだと思います。

 ラスト、幸江はお母さんに手紙を書くんですけど、これが素晴らしいんですよね……。「この人生を二度と幸や不幸で はかりません」「人生には意味があるだけです」と書いてある。幸福な人生だから意味があるんじゃない、不幸な人生にも意味がある――そういう決定的なメッセージを発している。フランスのベルナノスというカトリックの作家が、まさに同じことを言っているのを思い出しました。人間の根本的な価値観に対して重要なことをつきつけています。

 僕はマンガ賞(手塚治虫文化賞)の選考委員をしているんですけど、最近よく思うのは、題材が両極に分かれている、ということです。最初に申し上げた「大宇宙や人間の神秘に迫るような冒険マンガ」と「人間の日常の些細なことを問題にするマンガ」の二つに分かれている。どちらがいいということではないんですが、人間的な真実を描こうとした時には、些細なことを問題にしたほうが難しいのかなと思いますね。それをやった『自虐の詩』は、あらためて本当にすごいなと思います。それと、作者が伝えたいメッセージを直接セリフで書くマンガが増えた気がして。あまりにも露骨な言葉だと「それは、お説教でしょう?」と僕は言いたくなる。『自虐の詩』のように、物語と絵の力でメッセージを見せるのがマンガなのではないかと思います。

 『自虐の詩』は、今読んでも、〝くる〞ものがあるはずです。いじめの話は、むしろ今のほうがアクチュアルに感じられるかもしれない。ただ、最初のちゃぶ台返しが余りにも、余りにも、なんですよね……だからと言っていきなり下巻から読むのじゃだめなんだよなあ(笑)。ぜひ上巻から読んでみてください。

取材・文:門倉紫麻 写真:種子貴之