平野啓一郎『本心』ロングインタビュー!「強調したかったのは、愛する人が他者であるということはどういうことなのかというテーマです」

文芸・カルチャー

公開日:2021/6/15

※この記事は『ダ・ヴィンチ』7月号「ノベルダ・ヴィンチ」に掲載された「平野啓一郎『本心』インタビュー」のWEBノーカットバージョンです

平野啓一郎さん

 平野啓一郎は分人主義という独自の思想に基づき、「私」の根拠について思考=試行する物語を書き継いできた。20年後の日本を舞台に展開する『本心』は、貧困、格差、「自由死」など二十一世紀的問題群が外挿化された小説である。平野文学の到達点がここにある。

(取材・文=榎本正樹 写真=川口宗道)

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初期三部作、実験的な短編群、そして分人主義の提唱へ

 平野啓一郎は「作風」を重視する作家である。それは自身の作品世界を4つの時期に分け、それぞれの時期で異なる作風の作品をリリースする姿勢からも明らかだ。第1期は『日蝕』(1998年)、『一月物語』(99年)、『葬送』(2002年)のロマン主義三部作。短編小説や実験小説群を特徴とする、『高瀬川』(03年)から『あなたが、いなかった、あなた』(07年)に到る第2期。前期分人主義を唱えた第3期は『決壊』(08年)、『ドーン』(09年)、『かたちだけの愛』(10年)、『空白を満たしなさい』(12年)の長編4作品から成り、多くの反響が寄せられた新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(12年)の刊行を経て、分人主義の思想を細密化した後期分人主義にカテゴライズされる第4期の作品群、『透明な迷宮』(14年)、『マチネの終わりに』(16年)、『ある男』(18年)、『本心』(21年)へと続く。平野文学の特徴は、それぞれの時代区分の中で唱えられた理論を小説という形で実践する、その試み自体にある。

「子供の頃に見た副教材の国語便覧の中に、谷崎潤一郎の文学が悪魔主義時代とか古典主義時代というふうに解説されているページがありました。それを面白いと思ってたんですね。僕の死後、物好きな誰かが僕の文学を時代別にカテゴライズしてくれるかもしれませんが、僕の場合、時期ごとに突きつめたいテーマが大きく変わるので、作家自身の言葉で説明したほうが親切かもしれないと思いました。時期ごとに作風が変わるので、読者が最初に自分の嗜好に合わない本を手に取ると、二度と僕の本を読んでくれない可能性が出てきます。『決壊』が好きな読者は第3期を中心に読んだほうがより満足感が得られるのではないかというような配慮から、読書ガイドの意味も込めました」

 平野文学を読んでいく上で特に重要なのは、第3期以降の分人主義時代の作品群である。『決壊』では分人という言葉は一度も使われないが、猟奇的な犯罪の加害者と被害者が混濁した複雑な状況設定を通して、人格の複数性の問題が考察された。

「ポストモダニズム後に活動を始めた小説家なので、『本当の自分』とか『あるべき自分』への懐疑は当初からありました。近代法では『犯した行為』に対して刑罰が与えられますが、実際には魔女裁判の頃と同じで、個人のアイデンティティの問題に短絡されてしまいがちです。自我の問題を考える上で、犯罪が重要な舞台装置になるのではないかと考えました。当時、僕自身も人格の分化に対して否定的な感情を持っていました。『決壊』の主人公は、本当の自分がわからない空虚感に苦しんでいる設定にしました。『決壊』は絶望的な終わり方をしている小説です。いまの社会をニヒリスティックに懐疑して、破壊するような小説を書いた後に、作家の落とし前として次にどうすればいいのか、という問いに真剣にレスポンスしなければならないと思いました。『決壊』を書くことで、個人の概念で社会システムを説明することには限界があることに気づきました。それで、個人とは異なる新しい概念が必要だと感じたんです。個人が他者との関係ごとに自己を分化させる現象を客観的にとらえ、『本当の自分』という幻想から自由になるための理論を構築することが、『決壊』を越えていく手立てになるのではと考え、<分人>という概念を案出しました」

新しい時代の新しい小説に必要な概念をデザインする

 対人関係ごとに変化する自分の中の複数のキャラクターについて、誰もが思いを抱いたことがあるだろう。自分を統括する人格は一つであるとの考えは強固であり、そうした考えから自由になるのは容易くない。平野さんが唱える、対面する相手ごとに変化する自分の中の多様な個性を肯定する分人主義の考え方は、「本当の自分」幻想から私たちを解き放つ力を持つ。平野さんはテレビや講演など小説以外の場所においても、分人について解説する機会を多く持った。かくして、分人はこの時代を生きる私たちに必須の概念として広まっていった。

「小説以外の場所で分人について語る機会が増えたのは、その後の反響から来たことなんです。分人という概念を初めて提示したのは『ドーン』においてです。なかなかの大著で、小説の中に出てきた言葉であったにもかかわらず、大きな反響がありました。日常的に小説を読む習慣はないけれど、分人という概念を必要としている人たちに向けてわかりやすく解説した読み物にまとめてほしいという要望がかなりありました。そこで小説を手にしない人たちに向けて、新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』にまとめることにしました」

 分人という概念が導入された第3期以降の作品で顕著なのがリーダビリティだ。第1期に見られたようなテキストとの格闘を読者に強いる難解さや、第2期の短編小説群で特徴的だった高度な実験性など、平野作品は必ずしも読みやすさが担保されていなかった。純文学の枠にとらわれない、家族小説や恋愛小説やSF、ミステリーといった多様なジャンルの導入によって、平野作品は格段に読みやすく、物語的にも柔軟性を帯びたものへと変化していった。

「ご指摘の通り、リーダビリティも大きな検討要素でした。第1期の頃から、小説は面白くなければいけない、万人に開かれていなければいけないと考えていましたが、どこかで自分の中の理想的な読者に向けて書いていたような気がします。第2期では実験的な作品に挑みました。21世紀の変化に対応する実験的なスタイルがどこまで通用するのか、読者の反応を見ながら書き継いでいきました。否定的な反応も、重要な情報でした。『決壊』では、なぜ人を殺してはいけないのかという、人類にとって普遍的なテーマに挑戦しましたが、純文学読者の1万人くらいの規模に止まっていてはいけないのではないかと考えるようになりました。最晩年の林京子さんにお会いする機会がありました。林さんは、私の読者は原爆がいかに酷いものかを私が書かなくても知っている、そうしたことを知らない外側の人たちに私の作品は届かなかったとおっしゃっていました。これは文学にとって大きな問題です。『決壊』の頃から、最低でも5万人くらいに届くということを考えるようになりました。小説の世界自体も、バルザックからマルケスに到るまで、20世紀までの世界文学は閉鎖的なコミュニティの中の人間模様をコスモスのメタファーとして描いてきました。21世紀になり、世界中の情報が四方八方から自分たちの生活に押し寄せてくる情報過剰の時代には、新しい小説のフォーマットが必要です。そこには、読みやすさの問題も含まれます。そういうことを編集者と喋っていると、読みやすさを単に読者のレベルに合わせるとか、漢字を少なくするとか、そういう発想にしかならないんですね。

 特に大きな転機は『かたちだけの愛』でした。この作品を書く前段階として、プロダクトデザインについて勉強しました。執筆にあたって、プロダクト・デザイナーの深澤直人さんに助言をいただきました。深澤さんはアフォーダンスという考え方を重視されます。なぜ人が目の前にあるカップを正しく持てるのかというと、カップの形状自体が人間にその持ち方を明示的にアフォードしているからです。深澤さんによれば、説明抜きにカップで飲み物を飲める動作に到る形状を考えるのがデザインであると。コミュニケーションには顕在化していない形が潜在化していて、それに形象を与えるのがプロダクトデザインであるといった話をされていました。分人について考える際にとても影響されました。分人というのは、実は皆がすでに知っていることなんですね。たとえばフッサールの間主観性というような言葉を用いながら解説してゆくことも出来たとは思います。ただ、そういう哲学のタームは、10代の少年少女が日常的に使いこなす概念としてデザインされてはいません。哲学について多くを知らない10代の人たちでも、自分の力で自分とは何かと思考できる形に概念をデザインしなければならないと思いました。

 iPhoneのアプリのように、使う人によって機能を自由に特化できる滑らかで簡便なインターフェースが小説にも必要です。『決壊』まで、様々な出来事が継起的につながっていく構造体としての小説をいかに読んでもらえるかに腐心していました。『決壊』には三島由紀夫や森鷗外について、作中人物が熱心に議論する場面があります。僕の中では、小説全体に密接に関係している議論なのですが、物語に直接関係ない枝葉と感じる読者が少なくありませんでした。また、プロットが複雑になると、読み終わった後にだんだんと記憶の強度が弱くなっていく。結局何の話だったのかわからなくなってしまう。だったら、出来事と出来事が継起的につながるリニアな形態ではなく、物語を積層的にレイアー化していって、表層部分はできるだけシンプルな物語にして、下の層に社会構造とか歴史性とか哲学的な問いを積み重ねて、読者によってはいくらでも深掘りできる構造の小説の形を考えるようになりました」

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