日常にはびこる「男性優位社会」をあぶりだす! 『マチズモを削り取れ』 武田砂鉄インタビュー

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更新日:2021/8/2

マチズモを削り取れ
『マチズモを削り取れ』(武田砂鉄/集英社)

『紋切型社会』(朝日出版社)でデビュー後、社会のムードや空気の中でついサラっと通り過ぎてしまう事柄について常に“考えすぎる”言葉で読者を立ち止まらせてくれるライター「武田砂鉄」が、このたび一冊の本を上梓した。

『マチズモを削り取れ』(集英社)と題した本書は、「このクソッタレな、そしてクソッタレなままちっとも動こうとしない男性優位社会にいつも怒っている」という担当編集者のKさんの檄文を受け取った武田さんが、「男性めっちゃ有利」な日本の社会に強固にこびりついたマチズモ=男性優位主義を現地調査し、「いままでこうだったからこれからもそうしよう」というこの国の体質を浮かび上がらせたもの。2018年から雑誌『すばる』に掲載された同名の連載をまとめた一冊だ。

 そこで、男性ではつい見過ごしてしまうこの社会のマチズモについて武田砂鉄さんに話を伺った。今の世の中の風潮に違和感を覚えることがあったり、少しでも変えたいと感じたりしている人はヒントにしていただけたら幸いだ。

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(取材・文・撮影=すずきたけし)

男性向けに設計された社会の仕組みが整った後の日本で生きている

――『マチズモを削り取れ』を読んで、まず冒頭で武田さんは石垣島のお土産屋さんでシーサーのコースターに目を留め、赤いコースターは「親子シーサー お母さん 福を呼ぶ」、青いコースターは「親子シーサー お父さん 福を逃さない」というシールの文言から、それぞれに役割を与えられているお父さんとお母さんの、何気ない差異について触れています。そして「考えすぎだと感じる人もいるだろう」「考えすぎないから、いまだにこんな感じなんだと思う」として、「この本は、考えすぎてみよう、という本だ」と書いています。マチズモについて「考えすぎてみよう」と思ったのはいつごろからなのでしょうか。

武田砂鉄氏(以下:武田):この本に限らず、“考えすぎてみる”という姿勢でいこうというのは、いつも共通しています。そのコースターの話についても、「さすがにそれは別にいいでしょ」と思う人もいるはずです。しかし、そういった日常的な気づきから、「どうしてこうなっているのだろう」と考えていくようにしています。

 30代後半の私は、この社会の仕組みがおおよそ整った後の時代を生きているので、働くにしても、勉強するにしても、根本的な問題を考えなくてもひとまず生活することができる、便利な仕組みの中で暮らしています。昨今、その仕組みも壊れてきているわけですが……。でも、その整っている状態に対して、「で、これ、なにも感じなくていいのだろうか」という疑いは常に持っていて、とりわけ“男性であること”“女性であること”の差異については、連載を始める前から強く考えてきました。

 様々な社会問題について考えた結果、「女性の社会進出を推し進めくちゃいけないのはわかるけど、オレらはこういう感じでやってきたから、なんとかこのままいけないかな」という態度にぶつかることが多かった。この男性優位主義が、とりわけ日本社会のあちこちに残存していて、血流というのか、循環を止めているのは明らかです。そこへの苛立ち、そして、自分も加担してきたのではないかという疑いなど、様々な思いがこんがらがっている状態を直視しようと取り組みました。

――女性編集者Kさんの檄文から武田さんが現地調査するのがこの本の構成ですが、例えば、女性の立場から見て不安や疑問に感じるようなこととして、駅構内で歩くのが怖い、電車内の男性優先のトイレ事情、部屋探しの内見で他人と密室で2人っきりになるなどに疑問を呈するKさんの檄文から、男性がそれまで考えもしなかった多くのことに気付きがあって、この社会が男性によって男性のために作られたのだと強く感じました。

武田:日常生活の様々な場面が男性向けに設計されています。電車のつり革の位置を考えたときに、150センチの女性よりも170センチの男性向けに考えられていますよね。最近では低く設置されたつり革も増えてきましたが、最初に「このくらいかな」と設置した人は、知らぬ間に「成人男性」を意識して作っていたと思うんです。

『存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』(キャロライン・クリアド=ペレス/神崎朗子・訳)という本の中に、除雪作業でさえ男女差別がある、というスウェーデンのエピソードが紹介されています。朝夕の通勤時の除雪が優先され、無償のケア労働を行い、複数の小さな移動を繰り返す人たちのための除雪は後回しにされ、女性の怪我が多発していると。こういうことがいくつもある。ありとあらゆるところで、男性に合わせた設計・対応が繰り返されてきた。このことを疑っていかなければと思ったのです。

――「いままでそうだったから」というのが本書の様々なケースの中で見られていて、元書店員の私としては書店での作家男女別陳列へのKさんの檄文については痛いほどよくわかりました。本書では体育会系の指導者が「俺はこうして成功してきたから」と言って自分の指導を押し付けるというエピソードがとても色濃く顔を出しています。こういった体育会系のマチズモが社会と強く結びついていると考えることはありますか。

武田:体育会系を一括りにしてはいけないと思いながらも、自分の記憶に残っている、体育会系の部活動特有の理不尽を思い返した時、これを今一度考えなければ、と。理不尽に対してとにかく「ハイっす」と頷かなければならない。これが、社会生活でも、「(決して文句を言わない)オマエ、いいな、話が早ぇな」と機能してしまう。さすがに改善されていると思いつつも、残っている部分に対して疑いを持ちたいんです。トップの責任を部下が背負う政治の世界、あるいは批判する声を受け止めずに強行されるオリンピック、これらなんて、いかにも体育会系の理不尽な部分に根ざしていると感じます。

 例えば、すずきさん(本稿ライター)が書店に勤めているときに「男性作家と女性作家に陳列を分ける必要なんてないのではないか」と提案したとして、上長から「いや、わかるけど、オマエ、男女別の陳列をやめて、これで売り上げ立つの?」とか、「で、その作業、いつやんの? 夜中やんの? 一人じゃできないだろうけど、スタッフ使うのにどれくらいかかるかわかってるよね?」と、いくつも懸案事項を出されるかもしれない。そうすると、「変えたい」という意思を持っていたとしても、どんどんやりにくい方向に持っていかれる。具体的な行動を起こさずに「まぁ確かに色々とうるさい時代ですけど、まあ、でも、わざわざねぇ……」と、それまでの形がただ更新されていくのを見届ける人が組織の中で正しい社会人とされてしまう。

 でも、この数年、CMでも映画でもドラマでも、その表現について、これってどうなのかと問われるような機会も増えてきた。凝り固まったまま更新されてきたマチズモの考え方が、ようやく削り取られようとしているのではないか、という見方もできます。

「こっちも問題だ」と打ち消して終わらせようとする力

――本では痴漢の問題に対して「痴漢冤罪もあるじゃん」という対立になってしまい、問題の本質である痴漢をなくそうよという話になっていないとの指摘がありました。また〈私を甲子園に連れて行って〉の章では、例えば「おにぎり2万個の美談」(高校野球の女子マネージャーがおにぎりを握ることに専念するために、進学コースから普通コースにクラス替えまでしていた)について女子マネージャーが自身のキャリアを犠牲にしたことへの批判と、「本人が選択したこと」として擁護する2つの意見の対立軸がありました。そこには痴漢と冤罪と同じように、男性スポーツの中での女性の安全確保といった問題が置き去りにされている。このように対立軸によって問題の本質がぼやけてしまう状況は感じていますか。

武田:この本で取り上げた様々なテーマに共通することかもしれませんが、できるかぎり選択肢を増やしてそこから選べるようにすればいいものを、「この2つのうち、どっちか選んでくれ」と強いられる。その時、「私はこっちを選んだ」というのは、本当に主体的な判断なのだろうかと。男性が物事を選択しようとしたら5種類もあるのに、女性の選択肢が2種類しかないとしたら、それは「選べる自由が両者にある」ということにはなりません。

 今、仰っていた「痴漢はよくないけど、痴漢冤罪もあるよね」という、なにか問題があったときに「こっちも問題だ」と打ち消して終わらせようとする力が強くある。なんとかして有効な議論に見せようとする。論点をずらすんです。痴漢がなくなれば、痴漢冤罪もなくなります。比較することではありません。

怒っている人が取り残される

――〈「男/女」という区分〉の章では、東京医科大の女性受験者を不当に不合格としていた事件について、友人のMさんがこの件に怒りを表明するとMさんの「距離のあるママ友」に「えっ、Mさんって、お医者さん目指してたんだ!」と驚かれるエピソードがあります。結局は怒っている人が取り残されるということを武田さんは書かれていましたが、ある問題に対して、その当事者ではなくとも第三者が声を上げることについてはどのように感じていますか。

武田この本自体、男女差別が濃厚な社会に対して、当事者として、あるいは第三者としての自分が、どう考えるのか、という問いがベースにあります。自分に関係しているから考える、関係していないから考えない、ではない。痴漢されるのは女性だけとは限りませんが、多くの女性が痴漢被害を受けてきた事実を前に、痴漢を受けた女性は恐怖を感じただろうけど、自分やすずきさんが感じたわけではないので怒る必要がないかというと、そんなことはないですよね。日本社会にひたすら根付いてきた男性優位主義は、あちこちの方向から考えないとその仕組みが自動更新されてしまいます。女性が受ける被害について、第三者が考える、非当事者が考えるってことをしないと、このまま保持される。いや、多くの場合において加害する側の性は男性なのだから、当事者ですね。

「いつもの感じ」をぶっ壊せ

――商社の社食での男性2人と女性2人のグループを例に、男性2人の会話から女性が消されているというのがありました。その中で『マチズモを削り取れ』の具体的な行動として「会話を奪おう」と仰っていますが、これが本書のキモであると感じました。

武田:おそらく、このメンバーで昼食に行く、というのが日々のルーティーンになっているのでしょうが、とにかく、男性上司が話を仕切って、それに対して頷いているだけ、という構図が続いていた。食べ終わって、席を立つタイミングまで、その上司による合図でした。もし、女性がいつもと違う会話をしてみたり、「お先にどうぞ」と言ったりしたら、上司は多少なりとも動揺するはず。これを繰り返していけば、パワーバランスを揺さぶって「いつもの感じ」をぶっ壊せるはずなんです。もちろん、そこにいた女性だけにそれを要請するのではなく、隣にいた男性も、そして、上司自身がそれに気づいて壊さないといけない。

 自分も10年くらい会社員をして、男性であることによる働きやすさを享受してきたし、「いつもの感じ」に合わせていただけ、という反省があります。森喜朗氏の「女性がたくさん入っている会議は時間かかる」という発言が問題視されましたが、あれって、実際に時間がかかるわけではなく、彼自身、女性が話している状態に耐えられない、ということだったのではないかと想像します。会議にしろ、飲み会にしろ、大人数が集った場所では、地位の高い男性が会話を占有することが多い。これを奪いたいんです。

――最後にこの『マチズモを削り取れ』をどんな人に読んでほしいですか?

武田:どんな人にも、と思いますが、やはり男性に読んでほしいという気持ちは強いですね。「いい加減考えないと」と感じている男性はいると思います。この本には、処方箋や解説が書いてあるわけではないので、読んで劇的に変わるとは思ってはいません。だけど、読んでいただいて、日常生活の中で、「武田のあの本に、そういや、あんなこと書いてあったなと」と、その断片を思い出してもらって、「これってどうなのか」という考える起点にしてもらえればと思います。

武田砂鉄(たけだ・さてつ)

1982年、東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年よりライターに。『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす』で第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。他の著書に『日本の気配』『わかりやすさの罪』『偉い人ほどすぐ逃げる』などがある。週刊誌、文芸誌、ファッション誌、ウェブメディアなどの媒体で連載を多数執筆するほか、近年はラジオパーソナリティとしても活動の幅を広げている。
(※集英社 『マチズモを削り取れ』紹介ページより

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