「罪悪感から救われる人たちを描きたいという意識が強かった」『星のように離れて雨のように散った』島本理生インタビュー

小説・エッセイ

更新日:2021/9/10

島本理生さん

〈あなたが、わたしを愛してるって、どういうこと?〉と、社会人の恋人・亜紀にプロポーズされた春は、そう問い返す。幼いころ、一通の手紙を残して失踪した父と、父の信じていた“神さま”にまつわる記憶は、彼女に“愛すること”と“信じること”を不確かにさせていた――。

(取材・文=立花もも 撮影=冨永智子)

「最初に浮かんだのは、亜紀くんがプロポーズした温泉宿のテラスに立つ二人の姿でした。土砂降りの雨のなか、世界から切り離されたように二人だけが静かにたたずんでいる。幸せなんだか孤独なんだかわからないけれど、不思議な明るさの漂う情景……。そのときはまだ春がどんな子かもわからなかったけれど、一度ちゃんと読み解いてみたいと思っていた『銀河鉄道の夜』や、幼いころに失踪した私自身の父への想い、キリスト教の罪の概念と愛の関わりに感じていた恋愛小説との近似性、といった潜在意識にあったものたちが少しずつ浮かびあがり、ひとつの物語へと繋がっていきました」

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 日本文学科の大学院修了を控える春は、『銀河鉄道の夜』を修士論文のテーマに選ぶ。熱心な法華経信者として知られる彼が、キリスト教の影響を強く受けていたことを読み解いていく過程は、ひとつの作品論としても読みごたえがある。

「キリスト教への興味は『アンダスタンド・メイビー』を書いた際に神学科の先生にお話をうかがったのがきっかけですが、もともと罪悪感から救われる人たちを描きたいという意識が強かったので、共鳴するものがあったんだと思います。それが宮沢賢治と結びついたのは……子どもの頃、ますむらひろしさんの描くアニメ『銀河鉄道の夜』を観たとき、こんなにも唐突で理不尽な物語に人はなぜ惹きつけられるのだろう、と不思議だったんですが、一方で、銀河の暗闇に眠っている誰かの大切なものや忘れ物があるんじゃないか、ということを言外に感じとってもいたんですね。それで大人になってから読み返したとき、宮沢賢治はキリスト教に対する造詣がとても深く、適切な距離感と的確な理解をもって創作していたことがわかった。家族に法華経への改宗を迫るほどだった彼がなぜ?という純粋な疑問が発端でしたが、宮沢賢治への理解を深めつつ、過去と現実に向きあっていく春を描くことで、他者を真に尊重し、ともに生きていくとはどういうことなのか、私自身も探ることができたんです」

コロナ禍が結びなおした大切な人との関係性

 未完の小説である『銀河鉄道の夜』を、春は副論文のテーマに選んだ。主論文として提出予定だったのは“創作”。彼女もまた、小説を書きかけていたのである。それは、小説家志望だった春の父が完成しない小説を抱えたまま消えたことも影響しており、3つの“未完”は物語のなかで重層的に折り重なっていく。

「私の父も小説家志望で、似た作風の方がデビューしたために書き上げられなかった、というのを母から聞いたことがあって。完成させられなかったもの、改稿を重ねていく過程で映し出されていくその人の記憶や意識、みたいなものにも興味があったんです。これまでの小説でも、近しい肉親がいなくなってしまう、ということをときどき書いてはきましたが、それがいったいどういうことなのか、物語の筋立てとは別に、主人公の心に寄り添って書くということも一度ちゃんとやってみたかった。

 ただ、最初はもう少し暗い物語になるかと思っていました。ここ数年の私が書いてきたのは、主人公たちが自分のなかに巣食っていた不快なものや不要なものを手放していく物語。その過程で彼女たちは成長するし、前よりもいい状態を手に入れるんだけれど、結果的に独りになるから、書き終えたあとはどうしてもさびしさが残ったんです。それが私にはとても、つらかった。でも春は、確かに手放していくんだけれど、いま目の前にいる人たちとの関係をもう一度結びなおしていった。亜紀くんだけでなく、友人たちとも改めて深くわかりあうことで、自分の輪郭を新しく知っていく彼女の姿を描けたことは想定外の喜びでした」

 2020年のコロナ禍を舞台にした影響も大きいという。

「去年の緊急事態宣言明け、友人たちが仕事場に遊びにきてくれたんですが、ふだんは大勢の集まりで会うばかりだった彼らと、少人数の距離感で話していると、知らなかった魅力に気づかされることが多くて。コロナ禍によって止まってしまった時間と限定された空間が、すでに知っているはずの人と出会いなおさせ、関係性を更新してくれたというのは印象的な経験でした。亜紀くんと春の恋愛感情が、問題はあれど最初から揺るがなかったおかげで、恋愛以外で人と関わる姿を丁寧に描けた、というのも大きいかもしれません」

罪悪感を押しつけられた誰かを救うのは恋愛ではなく

 愛する、ということの意味を見つけられないまま、亜紀との関係に依存する春に、同級生の売野さんはこんなことを言う。〈女の子って、恋愛でなんでもすべて解決できると思いすぎちゃうかなあ〉。

「若いころは、自分のことは自分で救うしかない、みたいな言説を聞くと突き放されたような気がしたし、恋愛でいつかは救われるんじゃないかと信じていた。でも歳を重ねた今、本質的な問題が恋愛で解決したことなんて一度もないと気づいてしまった(笑)。だからといって一人でどうにかしてきたかというとそれも違って、女友達の些細な一言や恋人の存在感、仕事相手との信頼関係から得た断片的な喜びを繋ぎあわせることで、自分で自分を救う強さを手に入れてきたんだ、と思います」

 そうして、春が恋愛以外の場所から得た強さは、やがて亜紀のことも救っていく。

「運動ができて、一見、男社会に溶け込んだ亜紀くんのような人を、私はこれまでステレオタイプに押しこめたまま、内面の繊細さや抱えている傷についてあまり考えてこなかったんですよね。春のまわりにいるのは、感情を言語化したり分析したりするのに慣れた人たちばかりだけど、そういうことが得意でない亜紀くんのような人が不安やおそれを払拭するため、たとえば結婚というわかりやすい結論に状況をむりやりあてはめ、関係性を歪めてしまうことってあるかもしれない、と気づいたとき、そんな彼に春が何をしてあげられるだろう、というのがもう一つのテーマとして浮かび上がってきました。

 人はなぜか、迷惑をかけられたり苦しい思いをさせられたりするほど自分のせいにして罪悪感を抱き、過去にとらわれ抜け出せなくなってしまう。作中では春に罪悪感を抱かせてきた象徴として父親と叔母を描きましたが、亜紀くんもまた“何か”を抱えて深い森をさまよっていた。だけどそんな、勝手に押しつけられた罪悪感なんて受けとる必要ないんだよ、と私は言いたかったし、彼らを森の出口まで導くために必要なのは、似たような罪悪感を持つ人からの同調ではなく、ただそばにいて、深く話すことのできる、気の合う人たちからの優しさなんじゃないか、と思いました。

 人は弱くて脆いから、自分だけの神さまをつくりだして切実に縋ってしまう。だけどその神さまを、大切な人と同一にする必要はないし、誰のなかにも自分だけの神さまがいるのだと理解することが他者と生きていくということなのだと、書きながら私も気づくことができました。寄りかかるのではなく寄り添いあうための糸口を見つけてようやく、テラスの二人の次に思い浮かんだ情景……夏の晴れた日に空高く放物線を描いてボールがあがるあの瞬間に、辿りつけたような気がします」

 

島本理生
しまもと・りお●1983年、東京都生まれ。著書に『リトル・バイ・リトル』(野間文芸新人賞)、映画化された『Red』(島清恋愛文学賞)、『ファーストラヴ』(直木賞)など。本作のように情景として森を描きたくなることはめったになく、女性同士の友情が鍵であることも含め、自著『生まれる森』とのリンクを感じたという。

 

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