マキタスポーツは“自意識”をどのように解消したのか? 初小説『雌伏三十年』に見る過去との決別

文芸・カルチャー

公開日:2022/3/29

 28歳で芸人として遅咲きデビューした後、ミュージシャンとしても本格的に活動を開始。さらに俳優、文筆家としても活躍し、幅広い分野で才能を発揮しているマキタスポーツさん。『雌伏三十年』(文藝春秋)は、そんな彼が初めて書いた小説作品だ。この小説で、何者かになろうとして必死にもがいていた自らの過去、自意識の葛藤を赤裸々に語ったマキタスポーツさんに執筆の背景、込めた思いを聞いた。

(取材・文=橋富政彦 撮影=中 惠美子)

生涯に1回しか書けないものを書いた

――マキタスポーツさんの小説家デビュー作となった『雌伏三十年』は、もともと文芸誌『文學界』で2015年から2016年にかけて連載されていた作品ですが、どういう経緯で小説を執筆することになったのですか。

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マキタスポーツさん:『文學界』の担当編集者に「何か書いてみませんか」と声をかけてもらったことがきっかけです。当時はそんなど真ん中の文芸誌で小説を連載するような芸人っていなくて、ある種のフロンティアになれるかなっていう、割とよこしまな気持ちで引き受けたんですよ。でも、そのすぐ後に又吉くん(又吉直樹)が芥川賞を獲ったんで「全然フロンティアじゃなくなったじゃん」っていう気分になりましたけど。

――自分の過去をモチーフにした自伝的な内容の作品です。とてもユニークでありながら同時に普遍的な青春期の葛藤がリアルに描かれている小説だと感じました。自分の過去を描いた理由は?

マキタスポーツさん:いわゆる純文学みたいなものはとても書ける気がしなかったし、自分の実人生とそれに絡んできたものとか、当時の自意識の葛藤みたいなものなら書けるかなと思ったんですよ。でも、自分の人生がそんなドラマチックなものとは思っていないし、これが人様にとって面白いものなのかどうか、そういうことはあまり考えて書いていなかった気がしますね。

 ただ、同郷の林真理子さんと対談したとき「すごく普遍的なものが描かれている」なんてことを言ってくださったんです。自分ではそういうことを意識していなかったので、そうなのかなって改めて思ったぐらいですけど。振り返ってみると本当に片道燃料で書いたっていうか、生涯に1回しか書けないものを書いたという感じはあります。

――本作の主人公・臼井圭次郎のエピソードの多くは、マキタスポーツさん自身の体験がベースになっていますよね。読者もまた両者を重ねて読むと思うのですが、現実とフィクションのバランスはどのように考えて書いたのですか。

マキタスポーツさん:いや、そんなに冷静に書いていなくて、そこはもう混同してましたね。その当時、レギュラーが増えてきた頃で、その間を縫うように役者の仕事をやっていてすごく忙しかったんです。そんな状況の中で空き時間を見つけて書き始めると、なんかタイム・カプセルを開けたような気分というか、背中から翼がひらいて平成の最初の頃に飛んでいっちゃうような感じで止まらない。1回につき1万字ぐらいを目安にと言われていたんですが、ふと気づくと2万5000字とか書いていて。事前にプロットや拾えそうなエピソードなんかも考えてはいたんですが、もう流れのままに書きました。あれは不思議な体験でしたね。

書いていてだんだん腹が立ってきた

――圭次郎は「こいつらと、自分は違う」「これは本当の自分ではない」「俺はこんなところで、こんな奴とくすぶってる人間じゃない」という焦りを抱えながら、ろくに大学に行かずに歌舞伎町で酒浸りの日を送ったり、ハンバーガーチェーンの研修で空回りする失意の日々を送ったりしています。こういう圭次郎の姿はどのくらい当時のマキタスポーツさんと重なるのでしょう。

マキタスポーツさん:圭次郎の焦りはみたいなものは、もうすべて僕の当時の偽らざる気持ちですね。焦ってるならもっと行動しろよって今なら思うんですが。今の位置からだと、もうこいつがただのドジにしか見えなくなってくるんですよ。自分が遠回りしてることにすら気づいてないというか。笑えないMr. ビーンみたいな。なんか同じような失敗をずっと繰り返していて、僕も自分で書きながら「バカ野郎、何やってんだお前」みたいな気分に何回もなって、だんだん腹が立ってきましたね(笑)。ムカつく野郎だなって。でも、それも過去の自分自身なんですよ。

――ハンバーガーチェーンの仕事に挫折した圭次郎は、エッセイストになりたいと親に言って山梨を出て再び上京します。やっぱり東京に出るということが重要だったのでしょうか。

マキタスポーツさん:エッセイストって、めちゃめちゃぼんやりしてますよね。あれもフィクションじゃなくて、本当にあったことなんです。親に「どうするつもりなんだ」って詰められて、答えに窮して「俺はエッセイストになる!」って。ストレートにお笑い芸人になる、ミュージシャンになるとか言えば良かったんですけど、それを親に言えなかった。そういうところが、ダメな自意識というか。とにかく山梨から出て上京するということがめちゃめちゃでかくて。当時の自分の気分を言うと「ここは俺には狭すぎる」っていう感覚。本当に不遜なんですけど。圭次郎もそうやって上京するんですけど、それでも結局、本腰で勝負ができないでジクジクしているんです。

――そうした“大いなる準備期間”に「子分芸五箇条」「ビートたけしベンチャー企業説」「カレーと音楽の共通点」といったマキタスポーツさんらしい文章や当時のサブカルチャーへの言及が随所に入ってくるのも本作の面白いところです。実際にエッセイスト的な視点がありますよね。

マキタスポーツさん:自分の頭のクセというか。何かを必要以上に分析したくなるんです。当時からどこに発表するわけでもないことをひたすら考えたり、文章にしてみたりしていました。でも、そういうことをフィードバックして自分の行動に活かすとか、そういうことはしてないんですよ。

 当時の自分の感覚でいうと、東京に出てきて、自分の中でサブカルチャーというものがすごく花開いていたんです。生まれ育った山梨には本屋は一軒しかないし、映画館はひとつもない。僕も本なんか全然読んでいなかったし、完全に田舎のヤンキー文化なんですよね。

 だから、東京で初めてヤンキー文化とは違う面白いものを見つけて、その盛り上がりを目の当たりにして必死に貪っていたミーハーだったんです。でも、そういう準備期間も全部必要なことだったと思います。

――本作では音楽も重要な存在です。どの章にも具体的な楽曲について語られていて、マキタスポーツさんの自作の曲も含めて多くの歌が引用されていて、歌詞も掲載されていますね。

マキタスポーツさん:使いたい曲の候補はいっぱいあったから、常に自分の中でトーナメント戦をしていましたね。載っているのはそれを勝ち上がった歴戦のつわものたちですよ。当時は洋楽を聞いている自分が好きだったんですけど、それでも引っかかる邦楽もあって、そういう曲をいろいろ引っ張ってきたというところもあります。

 例えば、当時は光GENJIの残像がすごかった頃でSMAPもまだキラキラしたアイドルグループっていうイメージだったんですけど、その「正義の味方はあてにならない」って曲に強いシンパシーを感じたりして。そういう当時の仲間内では言えなかったような気持ちも正直に書いています。自分の曲は時系列がちょっと違うものもあるんですが、それも書いた内容を象徴するものを引用していて。やっぱり自分のセンスや感覚が音楽の中で生きてきたものなので、自分の過去を題材にした小説を書くうえで、そういう曲や歌詞を載せるのは自然なことでした。

―圭次郎は「ダダダダイナマイト」という音楽ユニットでデビューを果たしますが、そこでも思うような活動ができず右往左往している。このあたりもマキタスポーツさんの芸歴と重なるところなのでしょうか。

マキタスポーツさん:僕は28歳でピン芸人としてデビューしているんですが、その前に実はバンドをやっていて、それがうまくいかなくなって漫才をやって、それもダメになってひとりぼっちになってピン芸人になったんですよ。デビュー後、4年ぐらいしてまたバンドを結成するんですけど。

 圭次郎は音楽だけをやりたかったのに、ひょんなことから薄毛をネタに笑いを取れるようになって、テレビタレント化していく。そのときの圭次郎が感じている自分のやりたいことが思うようにできない心のモヤモヤは、実際に自分の中にあったものだし、圭次郎がやったように自分を売り出すためにセルフプロデュースで大きなイベントを仕掛けたこともありましたね。

この小説と向き合ったことで歌がうまくなった

――その後、結婚して子どもが生まれても圭次郎はずっと同じような思いを抱いて生活し、「あくまでこれは仮の姿」とあがいているわけですが、なぜ圭次郎は変われないのでしょう。

マキタスポーツさん:やっぱりずっと「仮面をつけている」っていうことかな。自分自身に向き合ってないし、現実にも目を向けてない。子どもが生まれて、手放しにかわいくて、ほうっておけない存在っていうものに向き合うことで自分の中に起こる変化を味わえばいいのに、なんかちょっと距離を置こうとする。そうこうしているうちに世界は回り始めているわけで。そういうところなんだよ! って自分でも思うんですけど(笑)。つまらないこだわりというか、自分をプロテクトしようとしてヤキが回っている感というかね。そういうことでロスするものってあるんですよね。

――そんな圭次郎にもやがて変化が訪れて、自意識との戦いも前向きな終わり方をします。そこにどのような心境の移り変わりがあったのでしょう。また、マキタスポーツさん自身が抱えていた“圭次郎的な自意識”はどのように解消されたのでしょうか。

マキタスポーツさん:圭次郎は髪の毛が薄いことがコンプレックスで、「臼井圭次郎」という名前はその背負ってしまった十字架の象徴みたいなものなんです。だから、上京してからずっと本名以外の名前で活動してきたんだけど、名前を偽るってことは自分自身を受け入れていないってことで、ようやくそれを受け入れることができたっていうことかな。

 僕の場合は、実際に自分のやりたいことを認められて、売れてくることでわかったことが大きかったと思います。戦わなくちゃいけないことは外側にちゃんとあって、そのためには自分のつまらないこだわりとか余計な自意識を削り取って、アイデンティティみたいなものに向き合わないとつまんねえなって。売れたことで、そういうところまで逆に追い込まれた。

 結局、僕も田舎のお山の大将で格好つけてたんですよ。男前気取りのまま人生いけると思ってたんだけど、いざ売れて蓋を開けてみたらおじさん役者みたいになってて、なんなんだそれって思うんですけど、そこで外側から自分を見られた。初めて鏡を見た猿みたいなものですよ。でも、それでこれも自分だっていうことを受け入れることができた。だから、圭次郎のこともああいう形で書けたんだと思います。

 装画に使っている絵は、僕の若い頃のそんなタチの悪いナルシシズムみたいなものがすごくうまく出ていて気に入っています。これは娘が描いてくれたんです。絵のタッチとか何も注文せずに「お父さんの若い頃を想像して描いて。バンダナをつけてね」としか言ってないんですが、この目つきとか顔つきがすごく真に迫っているんですよね。彼女には何か見えたのかな。

――こうして一冊の本として出来上がって、どのようなお気持ちですか。

マキタスポーツさん:連載が終わった後は、ちょっとこれと離れたかったんですよ。それだけ自分をさらけ出していたから。実際、担当編集の方が体調を崩されたり、タイミングが合わなかったりで、本になるまで結構間が空いちゃったんですけど、僕としてはそれで助かったという気持ちもあって。だから原稿の推敲は久しぶりにやる筋トレみたいにうっとうしい気分でした(笑)。

 それでもペースができてくると俯瞰的に見られるようになって「こいつドジでどうしようもないけど、だんだん笑えてくるな」って。すごく複雑だけど、愛おしいとも思えるようになりましたね。ある種の脱皮作業ができたのかな。それと、この本に向き合うことで歌がうまくなったと思うんですよ。

――歌がですか?

マキタスポーツさん:はい。心の入れ方とか自分の作品に対する没入の仕方とか、すごい訓練ができた気がするんです。ネタでも歌でも自分で作ったものを時間を置いてから見直すと、もう違ったものになったりすることってよくあって、それと向き合うのがまたわずらわしいんですけど、今回はそれの一番面倒くさいやつだったな、と。

 でも、その作業をすることで、自分の書いたものではあっても、改めて人間の機微だとか、感情だとか、心のひだみたいなものを拡大鏡で見たり、遠くから客観的に見たり、点検をするように向き合うことになった。それが結果的に歌とか他の表現にもすごく役立つことになったんです。もう、こういう文章は二度と書かないでしょうし、書けないですね。このタイミングでこういう本が出せたことも何かの必然だという気もしています。

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