書くこと、読むことが拓く可能性。葉真中顕が示す現代小説の到達点『ロング・アフタヌーン』インタビュー

小説・エッセイ

公開日:2022/4/6

葉真中顕さん

“小説はその本を手にした者が読むことによって完成する”。古今東西、書き手となった人たちが発してきたその言葉が示すところとはいったい何なのだろう。書くこと、読むことの間ではどんなシナジーが生み出されているのか。

(取材・文=河村道子 撮影=TOWA)

 ロスト・ジェネレーション世代が抱える壮絶な闇を抉った『絶叫』、日系ブラジル移民の間で起きた分断を描く『灼熱』をはじめとする作品群から社会派作家として知られる葉真中さんが本作で分け入ったのは、フィクションが人に及ぼす作用の深淵にあるもの。

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「作家には、生み出したキャラクターが自身に憑依する人とそうでない人がいると思うのですが、これまでの私は圧倒的に後者でした。自分のなかに多視点を用意し、それを合議させ、キャラクターたちを俯瞰しながら動かす、という書き方をしてきた。けれど“小説家になりたい”と、私のなかに現れたひとりの女性を書いていくうち、これまで得たことのない感覚で“彼女”は私に憑依してきた。自分とは属性的に距離のある、たとえば更年期障害があるとか、身体的にも絶対に経験できない感覚すら持つ人だったのですが、彼女の求めている、書くこと、フィクションをつくることは、私にとっても切実なこと。その部分で創作上のキャラクターとシンクロしたのかなと」

 物語はその女性、志村多恵の書いた短編小説『犬を飼う』から幕が開く。保護犬をもらい受けた近未来の少女の物語。以前の飼い主に虐待を受けたその犬との交流が温かな筆致で描かれていくのだが……。

「読売新聞オンラインでの連載中も、“最初からびっくりした!”という意見を多くいただきました。終盤に大きなツイストがあるのですが、作中作であるそこから、ミステリーは始まっていきます」

 ラスト一文の残響。その音のなか意識が向かうのは、“この物語の作者とはいったいどんな人物なのか?”という問い。そして舞台は一変し、視点人物は、その短編を新人文学賞の応募作として大賞受賞作に推した編集者・葛城梨帆になる。彼女はこれまでに二回、志村多恵と電話で短いやりとりをしている。一度目は『犬を飼う』が最終選考に残った吉報を告げるために、そして二度目はその落選を伝えるために。“新しい作品を書いたら、送ってください”と梨帆は自分の名を多恵に告げていた。そして7年後の2020年年末、梨帆のもとに『長い午後』と題された原稿が届く。

作中作が提示していくジェンダーとフィクション

「“書く人”志村多恵が現れたとき、では“読む”のは誰だ?と考え、対照的な立場で、かつ本をつくるという同じ方向性を持つ、編集者が出てきました。志村多恵との空白の7年の間に、梨帆の勤める出版社は出版不況により、小説が出せなくなってしまった。ポジティブな気持ちで携われない本づくりにも向き合わざるを得なくなってしまった梨帆ですが、そうした場面は、出版の現場で時折耳に入ってくる編集者の声や事情を集めながら書いていきました。ゆえに梨帆のパートは、ある種のお仕事小説としても読めると思います」

『長い午後』は、50歳の誕生日を前にした専業主婦の“私”が、高校時代の友人・亜里砂と数十年ぶりに再会するところから始まる。結婚なんて何がいいのかわからないと、キャリアを重ねてきた亜里砂との会話はすれ違い、“私”は殺意を募らせていく。その殺意の根にある複雑に絡まったものが、『長い午後』から浮かびあがる─。梨帆は気づく。この作品の舞台は『犬を飼う』を投稿してきたまさにその年。これは、志村多恵の私小説なのではないのかと。

「本作でクローズアップしてみたかったことのひとつはジェンダーの問題です。作中作の多恵という人はこれまでも今も家父長制の抑圧のようなものを受けている。彼女は2020年に57歳になる設定なのですが、今、ドラマや小説の主人公として描かれる女性の多くはもう少し下の世代。男女雇用機会均等法制定前後に社会に出た多恵や亜里砂の視点は、これまで隠れがちだった視点だと思うんです。その視点で、家父長制やジェンダーを語りなおすことは、今、必要なことではないかと」

 その法律が制定された1986年に生まれた梨帆は思いを巡らせる。“私はどうだろう? もし“私”や亜里砂と、つまり志村多恵と同じ時代に生まれていたら─”と。女性の就職は「結婚までの腰掛」とみなされていた時代に生きていたら、と。今、女性の選択肢は増えているはず、でも─。梨帆は自分が囚われているものを黙考する。PMSに悩まされる身体、敵と味方をつくり、その分断のなかでヘイト本を書き続けるようになった担当作家・風宮華子のこと、一昨年、経験した離婚、答えの出せないその理由……。

「作中作を用いた構造のなかで著わしてみたかったことのもうひとつは、フィクションをつくることって何だろう?ということ。フィクションを読んだとき、自分とはまったく関係のない人の話なのに、“これは私の物語だ”と思える、奇跡のような瞬間があることを私は信じたくて。フィクション=人間の想像力の産物が誰かを支えたり、救ったり、人と人をつなげるということを。多恵と梨帆、二人の主人公を立てたフィクションは、その視点を交互に書いていくうちに想像もしなかったような厚みが物語のなかに生まれてきました」

万人が正しいということに共感できない瞬間はある

『長い午後』がクライマックスを迎えようとするとき、衝撃的なひと言が登場人物から放たれる。それはまさにひとつの“覚醒”だ。梨帆にとっても、この本を読む者にとっても、そして“こうでなければならない”という思考が蔓延する現代社会にも。

「このひと言のために、私はこの小説を書いたのかもしれません。そのフレーズは、絶対的に正しいと世の中で言われることに対する疑いのようなものから出てきました。それは何かと言うと、ひとつが命で、ひとつが愛。もちろん生命や愛情みたいなものを否定してしまったら私たちの社会は成り立たない。ただ万人が素晴らしいことだということに、どうしても共感できない、うさん臭いなと思ってしまう瞬間って、生きていくなかで必ずある。道徳的、倫理的に絶対、反論できないところにどうしても乗っかりきれないというところを私は書きたかった。そして小説というものは、それができるものであると確信しました」

 世間からそれは間違っている、悪であると断定されるようなことを選ばざるを得なかった女たちがフィクションを媒介に共鳴し合う。だが、彼女たちが進んでいく姿に感じるのは、清々しい解放感だ。

「取り返しのつかないことってある。でもそれで“あなたの人生、失敗でしたね”というのはあまりにも残酷。否定すべきは否定するけれど、何か先に進めるようなテーマを語ることもフィクションの存在意義だと思うんです。ラストの方で、もうこの人と一緒に本は作れないと思っていた作家・風宮華子に、梨帆が電話をするシーンがあるのですが、そこで梨帆が気付いたこと、二人の会話のなかに生まれてきた熱のようなものが、私は大好きで。梨帆がそういう風になったのは、間違いなく『長い午後』を読んだからなんです」

 そして『ロング・アフタヌーン』を読んだ人もまた、きっと──。

「この作品を完成させるのは、作者の私ではなく、読んでくださる方であるということが、きっとわかっていただけると思います。ぜひ皆さんの『ロング・アフタヌーン』を完成させてください」

 

葉真中顕
はまなか・あき●1976年、東京都生まれ。2013年『ロスト・ケア』で第16回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、デビュー。19年『凍てつく太陽』で第21回大藪春彦賞、第72回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞。著書に『Blue』『W県警の悲劇』『そして、海の泡になる』『灼熱』など。

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