BiSHモモコグミカンパニー初小説! 何者でもない現実の自分と虚像の自分。その狭間で“居場所”を探す人々の物語『御伽の国のみくる』

小説・エッセイ

公開日:2022/4/8

葉真中顕さん

 自分たちで作詞や振り付けを行う“楽器を持たないパンクバンド”BiSH(ビッシュ)。昨年末、NHK紅白歌合戦出場の夢を叶えようとしていた矢先、2023年をもってのグループ解散を発表し、世間の度肝を抜いた。結成以来のオリジナルメンバーであるモモコグミカンパニーは、BiSHの楽曲でもっとも多くの歌詞を手がけている。エッセイ集を2冊刊行するなど、文筆家活動も積極的におこなってきた。その事実を知っている人ならば、彼女が小説家デビューしたと聞いてもすんなり納得できるだろう。しかし、彼女自身は「あり得ないと思っていました」と言う。

(取材・文=吉田大助 撮影=依田純子)

「昔から小説が大好きで、楽しむだけではなくて、救われてもきました。文章を書くことは好きだし空想することも好きだから、短編小説っぽいものを書いたことがあるにはあるんですが、小説というジャンルに自分なんかが手を伸ばすなんて、おこがましいと思っていたんです」

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 それでも手を伸ばした理由は、グループの解散が決まったことだ。

「残された時間で自分は何がしたいか考えた時に、これまでいろいろな仕事をやらせてもらった中で、書くことが好きだなと思いました。だったら、すごく怖いけど、小説を書くことに挑戦してみよう、と」

 勢いのまま書き上げた習作2編を、以前作家と対談した際に挨拶を交わした編集者に送ってみたところ、片方を長編化することが決まった。それが、小説家デビュー作『御伽の国のみくる』だ。

「エッセイはBiSHの活動の中で感じたことを言葉にしていきました。小説では、BiSHの活動自体が直接的に反映されてはいません。でも、BiSHの活動があったからこそ書けた作品だと思っています」

秋葉原にはどんな人も受け入れる優しさがある

 物語は、主人公の友美がアイドルグループのオーディションを受けるシーンから幕を開ける。面接官は大きな溜息をついて言った。「最近は、君みたいな子が多すぎて困ってるんだよ。何もできないくせに、自分には価値があるって思い込んでる」。逆なのに、何もないからなのに……という思いは、彼女に反発心ではなく羞恥心を呼び起こす。〈私という存在は、恥ずかしいものだ〉。友美が抱えているものの重さ、厄介さをあざやかに描くオープニングだ。続く第一章は、秋葉原のメイド喫茶で「みくる」として働く友美の姿が綴られていく。茨城出身で実年齢は25歳、身長164センチ、体重67キロの「ぽっちゃり体形」というプロフィール。ほぼ唯一の固定客(ファン)である“ひろやん”の存在……。

 実は、第一章の書き出しの台詞「みくるんは、僕となんか似てるんだよなぁ」が小説の出発点だったという。

「男の人がお店のカウンター越しに、女の人にこの言葉を投げかけている風景がパッと浮かんだんです。そこはメイド喫茶かもしれない、言われている女の子はメイド喫茶でバイトしながらアイドルを目指していて、心の中では男の人に対して『どこがだよ』と思っていて……と想像を膨らませていくうちに、主人公のイメージが固まっていきました」

 秋葉原やメイド喫茶には詳しくなかったため、取材に行ったそう。

「秋葉原以外の街だったら“え?”となるかもしれないけれど、メイド喫茶がコンビニくらいいっぱいあって、メイド服を着た女の子が路上でビラ配りをしている。その状況が普通というのが本当に面白いなと思いましたし、メイド喫茶にいる人たちはもちろん、街を歩いている女の人も男の人もみんなが生き生きしているように感じました。この街には、どんな人も受け入れてくれる優しさがあると思ったんです」

 しかし、秋葉原という「御伽の国」に居続けることは難しい。第一章のラストの一文は、〈この場所だけが、友美のすべてではないのだ〉。友美は六畳一間のアパートに暮らしており、部屋に転がり込んできた売れないバンドマンの翔也から、高圧的な態度を取られている。

「自分に自信がない子ほど、何かに過剰にしがみついたり依存してしまう。翔也は友美のことを大事にしないし人間的にも薄っぺらだけど、そんな人にもしがみついてしまう彼女の弱さを書きたかった」

 秋葉原とは違う街で偶然目にした、「ご主人様」ではないひろやんの素顔も友美を動揺させる。

「メイド喫茶にいる友美は“みくる”として別の自分になれる。ひろやんはひろやんで、現実とは違う自分でいられるからメイド喫茶に通っている。その関係性ってウソっぽいと言う人もいるかもしれないけど、すごく尊いものだと私は思うんです」

BiSHに入る前まではしがらみに絡め取られていた

 友美とは違いたくさんのファンがついていながらも、店を辞めて恋人を選んだリリアと二人でお茶をする場面がある。リリアは恋人が望む服を着て、髪型も変えていた。そうやって恋人の心を繋ぎ止めているのだ、と。それに対して友美は──〈彼女の顔を見て、醜いと思ったのは初めてだった〉。スリリングな一文だ。

「自分にはないものをいくつも持っていて人生ラクチンっぽく見える人にも、どこかしらには苦しみがある。リリアの場合は、本当は自分らしく生きたいって気付いているのに、“女の子の幸せはこっちだから”と強迫観念のように思っているんです。幸せのあり方って一つではないし、自分なりに肯定したり納得できる道って、他にもいろいろあるはずなのに」

 こんなところにも、「BiSHの活動があったからこそ書けた」という言葉の実感が宿る。

「私自身、他の人と比べすぎてしまって、自分という存在がイヤでしょうがない時期がありました。特に、背が小さいことはずっとコンプレックスで。自分の体って人生から引きはがせないというか、一生引きずっていかなければいけないものだから、もうどうしようもないんだろうなと思っていました。でも、BiSHに入ってからは“小さい方が目立っていいじゃん!”と、嫌いだった部分が自分の個性だと感じられるようになったんです。その時、いかに今までの自分はいろいろなしがらみに絡め取られていたか、改めて気付かされる感覚がありました」

『御伽の国のみくる』の登場人物たちは、様々なしがらみにまみれている。そのままならなさが、暴力として溢れ出してしまうこともある。

「例えば私が怪我をしたら、私を……モモコグミカンパニーを大切に思ってくれている人は悲しんでしまう。ということは、私の体は自分だけのものじゃない。私のような活動をしていなくても、本当にひとりきりで生きている人ではない限り、その人の体や心が傷ついたら誰かしらが必ず悲しむ。そのことを想像すれば、自分のことを今より少しだけ大切にできるんじゃないかなと思う」

 自分の虚像を相手の瞳に、そして相手の虚像を自分の瞳に映し合う群像劇は、終盤で怒涛の展開へとなだれ込む。「あなたの思っている私は私じゃないの」。この台詞でエンディングを迎えていたら、ただの「面白い物語」で終わっていた。

「そこを結論にするつもりは全くありませんでした。そのセリフの先にあるものが、この小説で一番書きたかったことだったと思います」

 その先にあるものを噛み締めた時、読者もきっと己の「しがらみ」から解き放たれる感覚を抱くことだろう。

「活動中だから主人公に私を重ねられるリスクはあるとも思ったんですが、活動中だからこそ、普段あまり小説を読まない人もこの本を手に取ってくれるかもしれない。そんな素敵なことが起こるなら、私が小説を書く意味はあったのかなと思います」

 

モモコグミカンパニー
ももこぐみかんぱにー●2015年3月、“楽器を持たないパンクバンド”BiSHの結成メンバーとして活動を開始。グループ内では『JAM』『まだ途中』『ぶち抜け』など楽曲の歌詞を数多く手がける。文筆家としては18年に『目を合わせるということ』、20年に『きみが夢にでてきたよ』と、2冊のエッセイ集を刊行。オフィシャル個人サイトでブログを更新中。

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