「忠臣蔵」の討ち入りにかかった経費は8300万円だった!?

社会

更新日:2012/12/11

 年末の時代劇の定番といえば「忠臣蔵」。

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 浅野内匠頭が江戸城中「松の廊下」で吉良上野介を相手におこした刃傷沙汰からはじまり、大石内蔵助率いる総勢47名の赤穂浪士による吉良邸への討ち入り、そして切腹によって幕を閉じるこの一連の出来事、正しくは「元禄赤穂事件」と呼ばれている。事件当時から武士の「忠義」の美談として多くの人に語られ、現代まで伝わってきている。

 じつはこの有名な赤穂浪士の討ち入りに、現在の紙幣価値に換算すると、8300万円もの費用がかかっていたというのである。そもそも「忠臣蔵」の山場である「討ち入り」が行われるまでに、どれくらいの経費がかかったか? なんて考えたこともない人がほとんどだろう。

 この驚愕の事実が書かれているのが、『「忠臣蔵」の決算書』(山本博文/新潮社)。事件の中心人物である大石内蔵助が、討ち入りまでに使用された経費を記した会計帳簿『預置候金銀請払帳』を中心に、経済的側面という、類のなかった切り口で「忠臣蔵」の深層に迫っている。

 会計帳簿を遺すあたり大石内蔵助の生真面目さが浮かび上がってくるが、それはともかく、本によると御家再興や討ち入りのために用意した費用は金691両で、本に基づいて換算すれば約8300万円。この金を浪士たちの生活費や武器の購入費、薬代などにあてていたのだ。

 なかでもおもしろいのが、御家再興のための「工作費」。有力な寺院の僧に浅野家再興の嘆願をしてもらうために、総計で金65両をあてたと書かれている。換算すれば、およそ780万円ほど。再興の望みは薄かったはずであるが、それでも大切な軍資金の約10分の1をあてるほど、その願いを強く持っていたのである。

 また、江戸で滞在する同士たちひとりあたりに、食費補助として1ヶ月金2分、およそ6万円をわたしていたという。というのも、同士たちは職にあぶれた「浪士」。現代でゆうところの「無職」はいいすぎなので、「フリーター」といったところか。一定の収入がないので、日々の食費にも困る有様だったのだろう。そんななかで、1日あたり2千円といえども、この食費補助は、かなり助かったはずである。また、そんな状況なので、病気をした場合も薬代すら払えない。なので、このときも薬(朝鮮人参)代として金2分を補助していたという。こうした苦労を積み重ねて「討ち入り」という悲願をなしとげたかと思うと、感慨もひとしおだ。

 なかには無駄になった出費もある。江戸に設けようとしていたアジトである。屋敷を買い取り、それを修理して使おうと金70両、約840万もの金を使ったのだが、付近で火事があり、件の屋敷は無事だったものの、将軍の別荘が類焼してしまった。そのため、周辺の町屋は、別荘の修理のための御用地になる可能性が出てきてしまったのだ。これによって、屋敷の修理ができなくなり、あわれ屋敷は活用されないままになってしまった。こればっかりは運が悪すぎるとしかいいようがない。浪士のなかに、厄年の者でもいたのだろうかと心配になってしまう。

 ほかには、討ち入りにあたっての武器の購入費用も出されており、当時、武器がどれくらいの値段で買えたのかがみれておもしろい。たとえば鎗が1本金2分(6万円)、長刀が1本金1両(12万円)とある。また防具も鎖帷子と鉢金が合わせて金1両2分(18万円)ほどだったというから、人数分揃えようと思えば、膨大な金額になったことだろう。大石内蔵助も「アジトの件がなければ苦労しなかったのに…」と悔やんだに違いない。

 志だけでは討ち入りはできない、やっぱりそこには先立つもの、つまりお金が必要なのである。この本は、そんなことをわからせてくれる。

 この本を読んだ後では相当な知識がついているはずなので、あんな場面ではこんなに金が使われていたなんて、「忠臣蔵」を見ながら誇らしげに家族や恋人に語ってみるもいいかもしれない。