『細雪』のラストが下痢!? ラスト1行で名作が楽しめる本

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/25

 名作文学を読まなきゃ……そう思いながら、なかなか読みはじめられない人は多いと思う。情報過多なこの時代、話題の新刊を早く読みたいし、ネットを見ているだけで活字欲求が満たされたりもして、なかなか重厚な文学作品に手が出ない。だけど、一生に一度は読んでおきたい名作は星の数ほど。そんな人にオススメしたいのが斎藤美奈子の『名作うしろ読み』(中央公論新社)だ。

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という川端康成の『雪国』の書き出しはあまりに有名だが、ラストの一文はあまり知られていない。作品全体をどう締めくくったかは、作者の美意識や作品のテーマを浮き彫りにすることも多く、実に重要。これまであまり語られてこなかったのは、未読の人にネタバレを配慮する遠慮もあっただろう。しかし、斎藤美奈子はあえて言う。「それがなんぼのもんじゃい」と。昨日今日出た新刊書ならまだしも、時を超えて語り継がれる名作は、たとえ結末を知っていても魅力が損なわれるものではないのだ。作品への入り口が「お尻(ラスト)」であってもいいじゃない、というわけだ。

advertisement

 森鴎外や三島由紀夫といった日本の作品から、ヘミングウェイやドストエフスキーなど海外の作品まで古今東西の名作132冊をラストの一文から読み解いた本書は、元々新聞連載とあって、コラムを読むようなテンポで気楽に読めるのでご安心あれ。さすがにサブカルチャーや現代事情にも詳しい文芸評論家だけあって、的をえた目からウロコの解釈が痛快だ。

 たとえば夏目漱石の『坊ちゃん』は、「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」と締めくくられているのだが、これにより、題名の意味がようやくわかるという寸法だ。作中では「おれ」が語り部をつとめる一人称小説で名前は一切出てこない。終生「おれ」の味方だったばあやの清が「坊ちゃん」と呼んでいたことが最後に記されることで、痛快な勧善懲悪劇という『坊ちゃん』のイメージが、突如として清への追悼文の意味合いを帯びるのだ。そして、「大好きなばあやの前で懸命に虚勢を張る男の子」という主人公像が浮かび上がってくる。

 また、梶井基次郎の『檸檬』の文末は、「そして私は活動写真の看板画が奇体な趣で街を彩っている京極を下って行った。」というもの。短編なので読んだことがある人も多いかもしれない。洋書や輸入文具を扱う丸善という店の本棚に檸檬を置くだけの話で、それがどうした? と思った人も少なくないはず。しかし、今あらためて読み返すことで著者は「格差社会を撃つ小説」ととらえ直す。「丸善の美術の棚」というセレブな世界と、「活動写真の看板画」というコントラストにより、『檸檬』はがぜん社会性を帯びはじめる。難解な文芸作品のようでありながら、実は現代の青年にも通じる衝動が描かれているのだ。

 きれいごとで終わらせない独特の視点が持ち味の作家も少なくない。代表的なのが谷崎潤一郎だ。大阪船場の旧家の四姉妹を描いた『細雪』の最後の一文は、「下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた」というもの。ラストが下痢……!? 物語は三女の雪子の見合いを軸に進行する、いまどきの言葉で言えばアラサ―女性の婚活小説。「下痢」は婚礼に対する無意識の抵抗と解釈できるが、著者の「やっぱ谷崎は変態だわ」という結論には笑ってしまった。

 こうして最後の一文から斎藤美奈子はズバズバ名作を一刀両断。高尚そう、難解そう、と思い込んで敬遠していた小説も「そういう話だったのか」と逆に読んでみたくなる。もちろん実際に読んだ感想は違っていてもいいだろう。芸術文学云々……というのではなく、好き放題語り合った方が名作は面白いのだ。

文=大寺 明
(ダ・ヴィンチ電子ナビより)