恋愛のつもりがセクハラと訴えられた! 男の「勘違いの構造」とは

ビジネス

2013/6/28

 『NEWS ZERO』に出演するフリーアナウンサー・山岸舞彩や女子柔道の騒動など、業界を問わず後を絶たないセクハラ問題。しかし、セクハラが表沙汰になった際、必ずといっていいほど出てくるのが「なぜ女性は拒否しないのか」という“疑問”だ。場合によっては、加害者とされる男性が「同意の上」「付き合っていたと思っていた」と証言することも多く、ネット上では“被害女性の後出しジャンケンに巻き込まれて災難”と、加害男性に同情する意見もしばしば見受けられる。

 セクハラが問題化したとき、どうして被害者と加害者で見解が食い違ってしまうのか。その謎を解き明かしているのが、先日発売された新書『部長、その恋愛はセクハラです!』(牟田和恵/集英社)だ。著者は、セクハラという言葉が広く流通するきっかけとなった日本初のセクハラ裁判にかかわり、セクハラの問題に実践と理論の両面から取り組んでいる社会学者である。

 本書では、セクハラのひとつのパターンとして“自分は恋愛だと思っていたのにセクハラで訴えられてしまった!”というケースを紹介しているのだが、実際に起こったセクハラ事件で「相手の女性の方が積極的だった」と言う加害男性の証言を要約すると以下のようなものだ。

 “新入社員の彼女を取引先に同行したあと、暑いからちょっと休んでいこうと、名所である渓谷に向かった。そこで彼女は川辺に足をつけ「アー気持ちがいい」と楽しげ。さらにスカートを持ち上げた。これは性的なサインを送ってるな、と思った”

 上司に川辺へ連れて行かれたら、楽しげに振る舞うのも礼儀のうち。川に足を入れようとするならスカートが濡れないように多少持ち上げるのも不自然な行動ではない。これを「性的なサイン」と解釈されては、女性としてはたまったものではないだろう。しかし、この男性は「まったく本気のよう」だったという。

 このように勘違いや妄想で相手が困っていることに気付かない男性たちに対し、著者も「ほんの少しですが、気の毒な気がする」と同情を寄せている。というのも、こういう場合、男性は中高年で、相手は「自分の部下や取引先の女性、指導している学生」といった若い女性。男性にしてみれば、頼りがいのある存在として尊敬のまなざしで自分を見つめ、アドバイスを一生懸命聞く若い女性に好感を抱かないわけがない。さらに、こうした中高年男性は「自分で仕向けておいて気付かないことが多い」らしい。たとえば、「俺の誕生日を誰も祝ってくれない」と愚痴れば、世話になっている女性は気を利かせてメッセージ付きのプレゼントを贈ることもあるだろう。なのに男性は“自分が催促したこと”もすっかり忘れ「やっぱり…!」と舞い上がる。げに恐ろしい展開だ。

 ここまで読んで、男性のなかには「嫌なら楽しげにしたり、思わせぶりな態度をとるなよ」とお怒りの人もいるはずだ。なぜ女性は「ノー」と言わないのか。もちろん、ノーと断わることで上司や指導教員である男性から報復されることを恐れている女性も多い。しかし、それだけではなく、たとえば男性から手を握られても、女性は「偶然かもしれない」「自意識過剰かも」「恥をかかせてはいけない」と“無視”してなかったことにし、「自分が無関心であること」を示すことで心のうちにある「ノー」をあらわそうとするという。男性にしてみれば「内心の不快感を押し殺してにっこりしているだけ」とは気付かないだろうが、女性にとってはそれも相手への配慮。とくに女性は幼いころから気配りや感じよい振る舞いを教え込まれるから、はっきりと抵抗することが難しいのだ。

 また、いくら男性が「悪意はなかった」と言っても、相手が上司の女性や社長夫人だったらどうなのか? と本書は問う。どんなに鈍感な男性でも、まさか上司の太ももを触ったりするだろうか。相手がどんなふうに受け取るかを考えて、言葉や態度を選び、配慮するはずだ。すなわち「相手の女性を軽く見る気持ち」があるから鈍感でいられるというのだ。

 著者が指摘するように、仕事をしていれば上司や取引先、客などに対してはらわたが煮えくりかえるほど腹を立てることがあるだろう。だが、その感情をいちいち顔に出していれば、サラリーマンはつとまらない。それと同じように、セクハラを受けている女性も内心を押し隠しているのだ。いくら自分に気があるように見えても、絶対に調子に乗らないこと。そして慎重に相手の気持ちを推しはかること。それがセクハラ上司にならないための第一歩になるはずだ。

(ダ・ヴィンチ電子ナビより)