富士山には県境がない? 日本国内の領土問題「県境未定地」はなぜできた?

社会

更新日:2013/7/16

 誰もが社会科で習った、1871年に明治政府が行った「廃藩置県」。藩を廃止し、新しく「府」と「県」を置くことで、近代的な中央集権的統一国家が確立されることとなったが、『知らなかった! 「県境」「境界線」92の不思議』(浅井建爾/実業之日本社)によると、その姿は現在の47都道府県の体制とは大きく違ったものだった。

 その廃藩置県の3年前、1868年4月に明治政府はまず「府藩県三治制」という地方統治制度を取り入れる。旧幕府の領地を没収して政府直轄地とし、そこに3つの府と41県を置いたが、まだ全国には藩が割拠して藩主が絶対的な力を握っていた。そこで1869年に「版籍奉還」を行い、各藩から版(土地)と籍(領民)を朝廷に返還させたが、この時に知藩事として任命された藩主の特権がほぼ従来通り認められていたことから、一向に中央集権体制は進展しなかった。そこで打ち出されたのが、1871年7月の「廃藩置県」だったのだ。

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 これによって中央集権体制が確立したのだが、当初は3府302県(沖縄県は1879年に設置)という膨大な府県が成立した。しかし数が多すぎるということで、同年11月にすぐに統廃合が行われて3府72県となり、さらには1876年には3府35県に激減する。これは財政基盤の弱い県を隣県に併合した結果なのだが、住民感情無視の再編に各地で不満が噴出、紛争にまで発展してしまうことになった。その後、政府は各地域の状況に応じて分県を認め、1888年に3府43県となってようやく改変作業は完了した。しかしまだまだ現在の形とは違っていて、東京府が「都」になったのは1943年、北海道が府県と同格の自治権のある自治体になったのは戦後の1947年のことだ。そしてアメリカの統治下にあった沖縄県が日本に返還された1972年に、ようやく現在の1都1道2府43県となった。今と同じ行政区分になったのは、たった40年ほど前のことであり、その間にあっちへ行ったり、こっちへ併合されたりした地域は無数にあるのだ。

 こうした幕藩体制~明治維新という、境界をめぐってのすったもんだの歴史があることから、県境や市町村境にはあいまいなまま、今も境目が決まってない場所がまだたくさんある。県境がはっきり決まっていない「県境未定地」というのは20都県にあって、その面積は13399平方キロもあり、これは長野県とほぼ同じ大きさで、日本の面積の約4%にあたるという広大さだ。さらに市町村境の未定地はこれ以上あるというのだから恐ろしい。ちなみに県境や市町村境が100%確定しているのは、栃木県、福井県、奈良県、島根県、山口県、徳島県、愛媛県、高知県、長崎県の9県のみ。これ以外の都道府県は、隣り合う自治体と何かしらの「領土問題」を抱えているのだ!

 その境界線、有名なところだと世界遺産となった富士山の山頂(県境)や、銀座の外縁にあった川を埋め立てて作られた高速道路の下にある商業施設(区境)、名古屋の港にある埋立地のポートアイランド(市町村境)なども帰属が決まっていないという。それ以外にも、河川改修工事によって境目が変わった地域や、幕藩体制がその主たる原因という飛び地、漁業権や入会権を巡る攻防によって島や山の真ん中を走る県境など、境目には様々な要因があるという。また複雑に入り組む境目の真上に建っている駅や自衛隊の駐屯地、旅館などもあるそうだが、その場合の「帰属」はどう決められるのか、本書を読むと「へー!」と思うに違いない。

 47都道府県中、27都道府県にあるという境界線の決まってない場所。本書を参考に、境界が決められた歴史と、その背景を探求してみるのも一興だろう。

文=成田全(ナリタタモツ)