断捨離に次ぐ断捨離、彼女が「物を捨てたい病」を発症した理由

生活

更新日:2014/4/15

 一時のブームは落ち着いたけれど、いまだに続々と「断捨離本」の新刊が発売され、人々は新たなバイブルを片手に断捨離に挑み続けている。それでも捨てきれないモノに囲まれた人の多いこと。

 そう、みんな失敗している。

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 そんな中、もうどうしようもなく断捨離しちゃった人──それが、漫画家・ゆるりまい。

 世にごまんとある「断捨離本」の中にあって、ひときわ異彩を放ち、圧倒的な人気を誇る断捨離コミック──『わたしのウチには、なんにもない。』(1&2巻/エンターブレイン)の作者だ。

 グラフィックデザイナーとして働く傍ら、写真と文章でこじゃれたお家を紹介する「なんにもないブログ」で大人気となった彼女は、その『なんにもないウチ』を手に入れるまでの汗と涙の日々をコミック化し、一度は諦めた『漫画家』という夢もつかんだ。そして、筆者の心をもつかんだ。

 『わたしのウチには、なんにもない。』のいったい何が、他の断捨離本と違うのかというと、この作者・ゆるりまい氏が、もともとは「汚部屋(あるいは汚屋敷)」の住民であり、「なんにもないウチ」に住むために、どのような経緯があったのかを、体験談をもとに描いている点だ。

 ゆるりまい氏の断捨離の原点は高校時代。初めての彼氏ができた彼女は、甘い恋をうたった日記をしたため、彼氏と一緒に見た映画のチケットの半券や妙ちくりんな贈り物を大事に保管し、一緒に取った大量の写真を思い出の証とする、普通の「モノを持っている」女子高生だった。

 しかし、彼氏との別れが訪れ、絶望の毎日の中「死にたい……」と本気で考えるうち、その豊かな想像力は「自分の死後」へとエスカレート。遺品整理で「ラブラブ日記」や写真などを家族に見られるかもと思ったら「死んでも死にきれん」と、“恋の遺品整理”を始め、悩みぬいたあげく「日記」を捨てた。すると……、

「悲しいはずなのに……気持ちいい!!」

 彼女は、モノを捨てることの快感を知った──“モノを捨てたい病”の発症である。

 そこから彼女は、次々とモノを捨て始め、自分の居場所をキレイにしようとするのだが、そこには「モノを捨てられない病」の祖母と母という強敵が待ち構えているのだった。

 そう、この祖母と母の存在がこの本の第2のポイントだ。「もったいない」「捨てられない」2人がゆるり氏と戦うことで、断捨離がうまく行かない読者も「そうなんだよね」と読み続けられるのだ。

 しかし、そのすべてをひっくり返す事件が起こる──2011年の東日本大震災である。宮城県で暮らすゆるり氏の実家も、あの震災で崩壊してしまい、そのことがきっかけで「本当に必要なものとはなにか?」を、改めて考え直すことになったというのだ。

 これが第3のポイント。ただ片付けたいだけではなく、命の関わる状況をベースにモノの要不要を判断することができるからこそ、今まで捨てられなかったものも思い切って手放すことができるのだ。それは、あの震災を経験した人なら容易に共感できることでもある。

 そうして、崩壊した家を手放し、最愛の旦那さんと共に新しい家を建築することになった彼女は、「なんにもない」を実現するために再びモノを捨てていく。やがて、モノを捨てられなかった祖母や母も、モノのない暮らしの快適さ、美しく片付いたウチの素晴らしさに気づいて行く。そこがまた感動的でもあり、捨てられない読者も「自分だって変われるんだ」と更なる共感を呼ぶのだ。

 1巻では、ゆるりまい氏が「なんにもないウチ」を手に入れるまでの経験談が描かれ、2巻では「捨てるための実践方法」が様々に紹介されている。この2冊の“感染力”は凄まじく、筆者はこの本を読んだ直後に40リッターの大型ゴミ袋で4袋分のモノを捨てられた。2巻冒頭に出てくるこの言葉によって。

──もったいないを理由にしない。

 日本人の美徳とされている「もったいない」ではあるけれど、断捨離を成功させたいのであれば、しばし忘れてはいかがか? あ、でも、断捨離を成功させたいのであれば、『わたしのウチには、なんにもない』を読まないのは、もったいない。

文・水陶マコト