『遠くでずっとそばにいる』番外編が読める! 狗飼恭子書き下ろし新作を無料公開

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更新日:2014/2/6


とある広場で“あの人”

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今月の“あの人”は…『遠くでずっとそばにいる』

大島 薫(おおしま かおる)

『遠くでずっとそばにいる』 狗飼恭子 / 幻冬舎文庫

朔美は会社を退職した日に交通事故に遭い、10年分の記憶をなくした。心は17歳なのに、実年齢は27歳。高校時代の美術部の友人の助けを借りながら、今の「私」の現実を辿っていくと、見えてくるのは、性格も趣味も仕事も受け入れがたい孤独な自分だった。空白の10年の間にいったい何があったのか─。愛することの苦しみと切なさを描いた著者初のミステリー。2013年に映画化(主演/倉科カナ 監督/長澤雅彦 脚本/狗飼恭子)。大島薫は、朔美の友人で美術部の同期。

番外編

心の距離なんて実際の距離にくらべれば、【第一話】狗飼恭子


©Getty Images

 ある恋愛小説家が、恋をひとつ失うと一本の恋愛小説が書ける、と言っていた。

 では恋を失った絵描きは、一体何枚の絵を描くのだろうか。

 いや、絵描きなんていう自分勝手な生き物は、恋愛の行方に左右されたりしないのかもしれない。世界を平面に捉えるだなんて傲慢なことを平気でしているやつらだから、そう簡単に、他者に影響されないのだろう。

 そういえば、ピカソは二人の恋人に喧嘩をさせて、それを眺めながら絵を描いたって話を聞いたことがある。いや、本で読んだのだろうか。絵描きは自分勝手な生き物だ、なんて出鱈目を平気な顔で書いてしまえるのが、作家という生き物なのだ。そう思ったら少し笑えた。

 友達を失った日にネットで衝動買いした二十号のカンヴァスは、埃をかぶったまま、もう一年以上部屋の隅に置き去りにされている。

「なんで描かないの? 高校時代美術部だったじゃない」

「なにを描けばいいのか分かんないんだよ」

「好きなものを描けばいいじゃないの。馬鹿ね」

「好きなものなんかなんにもないよ」

 じゃああたしを描けばいいじゃないの、とは、さすがに彼女も言わない。そういうところがたぶん、一緒にいて楽なところなんだろうな、なんて思う。恋人とさえ三日いるとうんざりしてしまうおれと、長いこと一緒に暮らしていただけのことはある。

 急に薫ちゃんの顔が見たくなって。

 突然この町に帰ってきた彼女は、そう言ってずかずかと部屋に上がり込んできた。もちろんアポイントメントも手土産もなしだ。

「殺風景な部屋ねえ。本とベッドしかありゃしない」

「パソコンもあるよ」

「色がないわ。黒と灰色だらけ。独房みたいじゃないの。せめて花でも飾ったら?」

「花を飾る一人暮らしの人間なんか、本と映画の中とパリくらいにしかいないよ」

 なんでパリなの? と彼女は小首を傾げたけれど、適当に喋った皮肉を説明するのは骨が折れるので答えなかった。花が駄目なら絵は? そう言いながら彼女が指さしたのが、部屋の隅のカンヴァスだった。

 ベッドの上に投げ捨てていたパジャマ代わりのTシャツで、カンヴァスの上の埃を払う。舞い散った埃が、昼を少し過ぎたばかりの冬の太陽をあびて煌めいている。悪くない。こういう、いらないものが美しく見える瞬間が人生の醍醐味なんだよな、なんてハードボイルドぶってみたらくしゃみが出た。

 イーゼルがないので椅子に縦に立てかけて、少し離れて眺め、煙草を一本手に取って火をつける。二十号のカンヴァスは永遠みたいに広い。

「あたしにも頂戴」

「あれ、吸うんだっけ」

「家を出てから吸い始めたの。淋しくて」

「淋しくて?」

「煙草の匂いを嗅ぐと、誰かがそばにいてくれるような気分になるのよ」

 なにそれ、安いメロドラマみたいな台詞。

「それに煙草を吸ってるときって、素の自分に戻れる気がしない?」

「どっちかっていうと、探偵小説の主人公になった気がする」

「なんでそんなものにならなきゃいけないのよ。探偵なんか、殺人事件に巻き込まれてばっかりじゃないの。面倒くさい」

 相変わらず趣味も感性も合わないけれど、並んでくゆらす煙草の煙は、同じ色だ。

「煙草の煙も白いもんねえ。部屋を彩ってはくれないわ、残念」

 煙はふわりと広がって、すぐに消えた。

 煙草をくわえたままクロゼットを開き、高校時代に使っていた油絵セットを引っ張り出した。

 古い油の匂いがする。絵の具は固まってしまっていて、使えそうにない。木炭を探したけれどちびたかけらしか入っていなかった。仕方なく鉛筆を手に取り、カンヴァスに走らせる。あらわれたのは、画面いっぱいの円。線はよれて、楕円に近い形に見える。

「なにを描きはじめたの」

「分からない。描いてみれば好きなものが分かるかなと思って」

「面白いじゃない。続けてよ」

 楕円の中に、円をもう二つ描く。サイズを変えて、大きいのと小さいの。

 くわえていた煙草の灰が落ちそうになって、慌ててガラスの灰皿に押しつけ、消す。赤い火が、小さく抵抗しながら消える。

「なにかしらね。月とクレーター?」

「月なんか好きじゃない」

「あら珍しい。月を嫌いな人なんて狼男くらいじゃない?」

 狼男は人じゃない。これもまた面倒くさいので指摘はしないでおく。彼女は片目をつむったり映画監督みたいに両手の指で四角を作ったりしてみながら、カンヴァスの上の三つの楕円をいろいろな角度から眺めた。

※リンク先のJT「ちょっと一服ひろば」は、満20歳以上のばこを吸う方に向けたウェブサイトです。作品の他、たばこに関する情報が掲載されています。


いぬかい・きょうこ●1974年、埼玉県生まれ。高校在学中より雑誌に執筆し、『オレンジが歯にしみたから』(昨年復刊)でデビュー。小説『好き』『温室栽愛』、エッセイ『ロビンソン病』など著書多数。映画『ストロベリーショートケイクス』『七夜待』『スイートリトルライズ』『百瀬、こっちを向いて。』などの脚本も手がける。