『校閲ガール』の番外編が読める! 宮木あや子書き下ろし新作を無料公開

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2014/4/5


とある広場で“あの人”


今月の“あの人”は…『校閲ガール』

本郷大作(ほんごうだいさく)

『校閲ガール』 宮木あや子 / KADOKAWA メディアファクトリー

憧れのファッション雑誌の編集者を目指して、総合出版社・景凡社に就職した河野悦子(こうの・えつこ)。だが、彼女が配属されたのは校閲部だった。原稿の誤りや不備を正すのがこの部署の役目。落胆した彼女だったが、仕事は仕事として完璧にこなすというスタンスで、入社2年目とは思えぬ高飛車な態度ながらも、校閲担当としての信頼を得ていた。そんな悦子の周りでは、たびたびちょっとした事件が起こって……。独自の感性で難題を切り抜けていく悦子の姿に元気がもらえるワーキングガールズエンタメ。本郷大作は、悦子を校閲に指名したエロミステリーの大御所作家。

番外編

皇帝の宿【第一話】宮木あや子


©Getty Images

 ――あなたの浮気相手達にお会いしてきます。

 一行の書き置きを残し、妻の亮子が家を出て行った。本郷が留守にしていたときでも風呂に入っているときでもなく、朝起きたら亮子の姿はなかった。昔フランスへ行ったとき本郷が買ってやった古いスーツケースが物置から消えていて、クローゼットを開けるとところどころ冬物の衣服を持ち出した形跡があった。

 さて、どうしたものだろうか。

 誰に見られているわけでもないのに本郷は平静を装いつつクローゼットの扉を静かに閉め、しかしながら動悸は明らかに激しくなっており、脇の下は汗に湿ってゆく。

 浮気相手などいない。何度本郷が説明しても許してくれと懇願しても亮子は信じなかったし許さなかった。過去に一度だけおかしたあやまちはもう何年にも亘り亮子の心を蝕みつづけていたのだろう。

 こういうときどうすれば良いのか、相談する相手が本郷には存在しなかった。出身大学のミステリ同好会の同窓たちは、プロのミステリ作家としてデビューし、以来三十年以上ものあいだ作品を上梓しつづけている本郷のことを母校の誉れだと讃えながらも、彼らにとっては手の届かぬ聖地である文壇から同輩がドロップアウトするのを未だに今か今かと待っている。もし本郷がそこに戻れば、ほら見ろやはりおまえには「本物の才能」なんてなかったんだ、と、ぬるま湯の中で勝ち誇った顔を見せるのだろう。女同士の嫉妬は恐ろしいと聞くが、男同士のそれのほうがもっと根深くややこしいものだと思う。表面上は仲良くしている同ジャンルの作家たちも、友人とはいえ商売敵だ。仕事の話以上に私生活に踏み込んだ会話は交わしてこなかった。

 壁に立てかけてある全身鏡に映った灰色のシャツ姿の自分の脇が汗で変色しているのを見て、とりあえず一旦落ち着く必要がある、と本郷は一階のリビングへ向かい、椅子に座り煙草に火をつけた。そしてダイニングテーブルの上に置きっぱなしになっていた黒革のスケジュール帳を開く。

「凶器・ドライアイス」「凍傷の温度?」「死亡推定時刻に変化はあるか?」

 ……間違えた、こっちはネタ帳だった。誰に見られているわけでもないのに精一杯平静を装い、何食わぬ顔をしてネタ帳をテーブルに戻すと、改めてもう一冊、似たようなデザインのスケジュール帳を開く。とくに意味もなく近日の予定を確認し、ある一点に気づき本郷は眉間に皺を寄せた。

 ……まずい。

 明日、明壇社の編集者がゲラを届けに家に来ることになっている。

 ふだん編集者が来宅するときは亮子が彼らをもてなす。風邪をひいて接待ができないとでも言えば大丈夫だろうが、今までは風邪をひいていようがインフルエンザに罹患していようが、亮子は彼らに顔を見せていた。そのせいで編集者にインフルエンザが伝染ったこともある。あのときは悪いことをした。

 本郷は短くなった煙草を灰皿に押し付け、先端から完全に朱色が消えるのを待ったあと、仕事部屋となっている書斎に向かった。パソコンを立ち上げメールソフトを開き、亮子がインフルエンザで臥せっているから、ゲラは持ってこずFAXをしてくれと明壇社の担当編集者にメールを打った。たしか前回亮子に伝染されたのもこの男だった。送信ボタンを押したあと、ゲラになって届く予定の原稿のテキストデータを開き、なんとなく確認するポーズを取っていたら五分後くらいに、承知いたしました、と返信があった。タイムスタンプは十二時十五分。編集者にとっては朝である。

 さて、どうしたものだろうか。

 もう一度本郷は心の中で呟き、天井を仰いだ。と同時に電話が鳴る。数回のコール音ののちにFAXに切り替わる。執筆机の端に置いてあるコンパクトレーザー複合機が吐き出したA4用紙は、週刊誌のコラム連載のゲラだった。それを手に本郷はふと思う。

 ……インフルエンザって、たしか薬をきちんと飲んでいれば一週間くらいで治っちゃうものじゃなかったか?

 果たして一週間で亮子は戻ってくるのか? 万が一戻ってこなかったら、編集者たちになんらかのことを勘繰られ、業界内では「愛妻家」として名高い自分の面目丸つぶれになるんじゃないのか? ただでさえ業界は狭く、編集者の口は締め切り直後の作家の心身のごとく軽いものだ。

 どうしようか、と思ったと同時に、妻が出て行ったことよりも必死に保身の術を考えている自分に軽く嫌気が差した。ひとまず一時間ほどは精神的に仕事にならないであろうことを予想し、郵便物入れの中から昨日届いたばかりの文芸誌を取り出し、ペーパーナイフで封を開ける。目次を一瞥し、あれっと思う。連載陣の中に有森樹李の名前がなかった。そして端のほうに小さく、体調不良による休載の断り書きがあった。

 ……そうか。その手があったか。

 本郷は立ち上がり、携帯電話と財布と煙草をポケットに仕舞い、ベッドルームに向かうと何枚かの下着とシャツをバッグに詰めた。

※リンク先のJT「ちょっと一服ひろば」は、満20歳以上のばこを吸う方に向けたウェブサイトです。作品の他、たばこに関する情報が掲載されています。


みやぎ・あやこ●1976年、神奈川県生まれ。2006年に『花宵道中』で、第5回女による女のためのR-18文学賞の大賞と読者賞をダブル受賞し、作家デビュー。著書に『群青』『野良女』『憧憬☆カトマンズ』『学園大奥』『官能と少女』『婚外恋愛に似たもの』『あまいゆびさき』など。13年『セレモニー黒真珠』で第9回酒飲み書店員大賞を受賞。デビュー作の『花宵道中』が映画化、14年秋に公開予定。