まずは根気よく坐ること! 心の不安を捨てられる「坐禅」のススメ

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更新日:2014/4/7

 最近、なぜか坐禅への興味が高まっている。誰しもが持つ“とりとめのない不安”が、人々を坐禅に向かわせているのかもしれない。“今までと違う自分になりたい”などという思いもあるだろう。

「坐禅は万能の魔法ではありません。坐禅をすれば、すぐに心が晴れ、すべてが整理され、確実に強くなる、というものではありません」

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 『心がみるみる晴れる 坐禅のすすめ』(平井正修/ダイヤモンド社)の冒頭に、こんな言葉がある。著者の平井氏は、東京・谷中にある臨済宗国泰寺派全生庵の住職。毎週日曜日に坐禅会を開いており、毎回大盛況だという。

 では、坐禅とは一体何なのか。何のためにするものなのだろうか。

「坐禅とはただ坐るだけのこと。(略)坐禅は何かを身に付けるものではなく、逆にどんどん捨てていくもの。(略)そうしているうちに、生まれたときから持っているもの、いってみれば、まっさらな裸の心に気付くのです。余計なものを捨て、本来の自分の姿に帰る。坐禅とはそういうものだ、と私は考えています」

 “無の境地”のような超人的なイメージがあったが、案外単純なもののよう。とにかく我慢して根気よく坐ること。そして、今までの生きてきた中で得た思いやしがらみ、とりとめもない不安は“捨てる”こと。

 坐禅では「調身、調息、調心」と教えられる。言い換えると、姿勢と呼吸、心を調えようとすること。ただ、実体のない心は教わって正すことができないから、すぐに体得するのは難しいかもしれないが、姿勢と呼吸さえ調えば、自然とついてくるという。

 坐禅を行う際には、正しい形から入り、それを身体で覚えることが大切とされる。まずは、寺の座禅会や坐禅道場で教えてもらうことが一番の近道だ。坐禅ができる寺は、意外と身近にある。料金がかかるところもあるが、無料のケースも多い。一連の所作は、下記の通り。

【姿勢】
・坐禅は坐蒲(ざぶ)という厚めの敷物を敷いて、その上に座る。
・足は胡坐をかいた状態から、右足を左の太ももの上にのせ、次に左足を右の太ももの付け根にのせる(「結跏趺坐(けっかふざ)」)。難しい場合は、左右どちらかの足をももにのせる「半跏趺坐(はんかふざ)」でもOK。
・手は右の手のひらを上にして、足の上に置き、左手をその上にのせ、左右の親指を軽く合わせて卵型の空間をつくる(「法海定印(ほっかいじょういん)」)
・頭を天井から吊るされているようなイメージで、姿勢を正す。耳と鼻、そして鼻とへそが一直線になるような意識を持つ。

【呼吸】
・鼻から細く、長く息を吐くことを意識する。

【目線】
・目を閉じず「半眼」の状態。
・目線は1.5~2メートル前方。
・焦点を合わせず、見るとはなしにぼんやり見るという感じ。

 実際、私も近くの寺の坐禅会で教えてもらい、実践してみた。「何分くらいたったろう?」「スタバのホワイトモカが飲みたい」「足が痛い」…。心に浮かんでくる思いは尽きない。しかし、住職さんによれば、この浮かんでは消え、浮かんでは消えすることこそが“捨てる”ことなのだという。

 また、坐禅をしているときだけが、坐禅ではない。そのときの心を持って、すべてのことにあたる、すべてのことをなしていくことが肝要だ。修行僧は、朝起きるときも、起きることに全力を注ぐのだそうだ。こう考えると、少し大げさかもしれないが、一挙手一投足も大事にしなければならないのだなと思う。

 なんとはなしにテレビがついていたり、音楽が流れていたり、現代の私たちは、静けさとは無縁の生活だ。姿勢を正し、呼吸を正す。そして、毎日少しでも静けさの中に身を置く時間を作れば、心が穏やかになっていくのかもしれない。

文=廣野順子(Office Ti+)