【花子とアン】朝ドラが“朝ドロ”になる!? 花子の腹心の友・蓮子のモデル「白蓮」の正体

社会

公開日:2014/5/26

 高視聴率となっているNHK連続テレビ小説『花子とアン』。『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子の生涯を描くドラマだが、花子の「腹心の友」である葉山蓮子(演じるのは仲間由紀恵)が出てきて俄然面白くなってきたと話題になっている。その蓮子のモデルは戦前の日本を「白蓮事件」で驚かせた歌人、柳原白蓮だ。生前の白蓮を取材したことがあるという作家の永畑道子氏が白蓮の関係者を探し出し、丁寧に取材を重ねた『恋の華 白蓮事件』(永畑道子/藤原書店)(本書は1982年に出た本の新版なので、取材当時はまだ関係者が存命だった)から、彼女の人生を探ってみよう。

 白蓮の本名は柳原燁子(やなぎわらあきこ)。藤原北家の流れを汲む公家で、後に伯爵家となった元老院議員(外務卿も務めた)の柳原前光(やなぎわらまえみつ)伯爵の妾腹の子として、明治18年(1885年)10月15日に誕生した。母は没落士族の娘で、芸者をしていた奥津りょう。没落といっても、りょうの父・新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)は江戸幕府の遣米使節団の代表を務め、母は大久保彦左衛門の家系の出である(当時、没落士族は珍しいものではなかったそうだ)。りょうは姉と一緒に柳橋で芸者をしていたのだが、美人で有名で、柳原伯爵と落籍(芸者から身を引かせること。身請け)を競ったのがあの伊藤博文というから驚く。しかし父の敵でもあった長州藩出身の伊藤を袖にして、おりょうは16歳で柳原伯爵に囲われる身となる。そして2年後に生まれたのが燁子だ。この柳原前光伯爵は大正天皇の生母である柳原愛子(やなぎわらなるこ)の兄なので、燁子は大正天皇の従妹になる。

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 燁子は生後7日目で柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍する。これは妻と妾(りょうとは別人)が同じ屋根の下に住んでいた柳原家での女の争いが背景にあったそうだ。娘と引き離されたりょうはその後病弱となり21歳で亡くなっているが、燁子は産みの母を知らず、華族の娘として育つ。そして華族の慣例にならってすぐに里子に出されて、小学校入学まで乳母に育てられ、小学校入学の7歳で柳原家に戻るが、9歳で北小路家へ養女に出されることになる。これは北小路家の跡取りである資武に嫁入りすることが前提だったそうだ(家同士の事情が複雑に絡み合っている)。7歳年上の資武に迫られ、嫌がる燁子は「妾の子を貰ってやるのだぞ。生意気いうな」と言われ、ここで初めて出自を知ることになる。その後15歳で結婚して16歳で子を生むが、20歳で破婚。しかし世間体を気にして別宅に幽閉されてしまう。ここで燁子を世話したのが、腹違いの姉・信子(夫は昭和天皇の東宮侍従長だった入江為守)。信子から差し入れられる本を読んでもっと学びたいと願うようになり、23歳で東洋英和女学校に入学。ここで村岡と出会い、歌人佐佐木信綱の竹柏園歌会に入門して本格的に歌を学ぶようになる。ちなみに「白蓮」という雅号を使うことを勧めたのは佐佐木だそうだ。

 26歳で筑紫の炭鉱王・伊藤伝右衛門(当時52歳)と再婚。ドラマでは窮乏する伯爵家を救うために嫁に行ったという設定だが、柳原家には裕福な宇和島伊達家出身の初子がいるため実際に金に困っていたことはなく、伝右衛門も「俺としては柳原家に鐚(びた)一文送つたことはない」と語っている。永畑氏は、燁子が美女であったこと、出戻りとはいえ元公卿の家柄、見合いの話を持ってきたのが伝右衛門の仕事に関係する三井鉱山の実力者であったことが結婚の理由ではないか、と推測している。福岡に移り住んだ燁子は、最初の歌集『踏絵』を出版(装丁と口絵は竹久夢二)するなどしたが、36歳のときに社会運動家の宮崎龍介と出奔(燁子は龍介の子を妊娠していた)。新聞紙上で夫に別れを言い渡すという、姦通罪のあった時代に大スキャンダルを起こす。これが「白蓮事件」だ。当初は伝右衛門も新聞紙上で反論するなどしたが、その後「弁明無用」との態度を貫き、夫からの親告罪である姦通罪に問われることはなかったそうだ。これは燁子が天皇家に縁があることからなんらかの圧力が働いたのではないか、と言われているという。恋多き女性と言われた燁子だが、肉体関係のあったのは龍介だけで、「三十六歳のそのときまで、燁子は、女になり得ていなかったのかもしれぬ」と永畑氏は記している。

 その後、息子を産んだ燁子は柳原家によってまたしても監禁状態になるが、大正12年(1923年)の関東大震災がきっかけとなって龍介と一緒に住み始め、華族から除籍されて平民となる。しかし龍介の結核が再発、宮崎家の家族や食客らを養うためペン1本で働きながら、40歳で娘を出産。しかし学徒出陣していた長男は太平洋戦争で戦死。燁子も昭和34年(1959年)に脳貧血で倒れ、さらに緑内障が悪化して両眼を失明してしまう。燁子は龍介に支えられ、歌を詠むことを命としながら、昭和42年(1967年)2月22日、81歳で亡くなった。燁子は相模湖近くの顕鏡寺に、戦死した息子と一緒に眠っているそうだ。

 またスキャンダルは燁子だけではない。腹違いの兄で、柳原家当主となった貴族院議員の義光は白蓮事件で貴族院議員を辞職することになったり(だいぶゴネたそうだ)、新派の元役者の男性との同性愛スキャンダルがあったりした。また義光の娘・徳子は不良華族事件(ダンスホールを舞台にしたセックス・スキャンダル)を起こすなど、大正から昭和にかけて日本を騒がせた一族だったのだ。

 ゆくにあらず帰るにあらず戻るにあらず生けるかこの身死せるかこの身
 われはここに神はいづくにましますや星のまたたきさびしき夜なり

 この白蓮の詠んだ二首の歌が白蓮事件を取材するきっかけとなったという永畑氏。そして白蓮は晩年に「境遇というのは、ふしぎなものね、まわりからしだいに、よせてくるものがある。そこへ追いつめられたとき、動くほかない。切羽つまるというか、宿運なんでしょうけど」と語ったそうだ。壮絶という言葉だけでは語り尽くせない彼女の人生、ドラマの後半で再登場することになると思うが、果たしてどこまで描かれるだろうか?

 2002年に「たわしコロッケ」で話題となった昼ドラの原作である、菊池寛の『真珠夫人』の主人公モデルとも言われる白蓮の人生に興味を持った人は、多くの関係者が貴重な証言を残し、詳細な背景や、事件に至るまでの経緯が書かれている本書をじっくりと読んで欲しい。いやはや、それにしてもすごい人生!

文=成田全(ナリタタモツ)