専門的な勉強を受けなかった彼は、どうやって一流の装丁家になったのか?

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/21

書店で一目惚れして買ってしまう本がある。作者も知らず、内容も知らず、ただ書店に平積みされていたのを見ただけで、心をつかまれる本がある。

日本で1年間に発行される新刊書籍は約8万点。毎日210冊ほどの新刊が世に出る計算だ。溢れかえる本の中のたった1冊に出会う偶然において、「本のデザイン」の持つ役割は大きい。

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この数年、出版業界だけではなく、一般の人たちも、本のデザイン─すなわち「装丁」に注目している。テレビや雑誌でも、装丁家や小さな出版社が取り上げられている。

矢萩多聞氏も、今をときめく装丁家のひとりだ。本を書き、イラストを描き、本のデザインも行う。多才で多彩に活躍する矢萩氏だが、「デザインも絵もすべて独学で、そもそも学校と名のつくものにろくに行ってない」と言う。では、一体、どのようにして矢萩氏は自らの道を切り開き、一流の装丁家になったのだろうか? 矢萩氏の近著『偶然の装丁家』(晶文社)に、その生き方・考え方を探った。

矢萩氏は、小学生の頃から先生と反りが合わず、不登校となった。中学1年で学校を辞め、インドで暮らすようになる。絵を描くことが大好きだった氏は、日本で個展を開いて絵を売り、得たお金でまたインドに行く、という生活を繰り返した。20歳の時に本を出版したのをきっかけに、本のデザインもするようになった。今では装丁家として350冊以上の本を世に送り出している。

なかなか他では経験できない人生だが、矢萩氏を今の場所へと運んできた最大のポイントは「出会い」だ。

まずは両親との出会い。どんなときでも息子の味方として、思うままに生きる道を共に考えてくれた。

矢萩氏を「問題児」として見切ってしまった先生がいる一方で、恩師・石井先生と出会い、「学ぶこと」の本質を知る。「すべての勉強は、自分が今生きている世界と地続き」で、「自分から学びをはじめなければ、何もおもしろいことは見つからない」と。

大好きな絵を、学校の授業という枠組みの中で描くことに苦しんでいたとき、展覧会で「ミティラー画(インド画の一様式)」に魅せられ、インド人画家ガンガー・デーヴィ女史と出会い、「絵を描くことが祈り」だと知る。

中学という社会に見切りをつけ、インド・ヒンドゥー教と出会い、「他者受け入れ、祈りを楽しみ、工夫することを忘れない」という考えを持つようになる。

父親の友人の画家・星野鐵之氏には個展開催を後押ししてもらい、銀座の老舗額屋の岩松信親社長には額装を教わった。そして、実家のタバコ屋に客として来ていた春風社の三浦社長は「多聞くんの本を作りたい」と声をかけた。

本のことを知らなかった矢萩氏は「自分が楽しめる本を作ろう」と、対談集を提案し、そこでも矢萩氏は様々な人に出会う。装丁も手探りで行うことになったが、素人だからこその発想が、面白い装丁を生み出す結果となる。「装丁家」としての第一歩だ。

その後、伝説の編集者・安原顯氏や、政治学者・歴史学者の中島岳志氏との仕事を通して本作りの面白さと重みに気付いて行く。

数々の出会いと状況の中で「おぼろげに自分のカタチが浮かび上がる」と考える矢萩氏が大切にしている言葉がある。

「装丁家は手のひらの中の掌(たなごころ)のようなものだ」

尊敬する装丁家のひとり、杉浦康平氏との対談での言葉だ。

「親指は著者、人差し指は編集者、中指は印刷所や製本所、小指は書店、というように、一冊の本にはいろいろな人がかかわっている。その人たちの思いを本というカタチにつなぎとめるボンドのような役目、それが装丁家だ」と。

重要なのは自己の仕事のアピールではない。「その本を必要としている人に、ちゃんと届くようなカタチにするのがぼくの役割」なのだと、矢萩氏は必ず人と会って打合せをし、修正要望も自分の中で一度消化してから、ベストのカタチを再びつくり上げる。

あくまでも自然体で、変化を恐れず、自分が楽しみ、最高の結果を残すことで、次の出会いと仕事を呼び込んでいるのだ。

指と掌がつながっているように、装丁の先は必ず人とつながっている。そのつながりに気付く「出会い」を大切にし、出会いによって「変化」する自分のカタチを楽しむことができたとき、「偶然の装丁家」が生まれた。

決して特別なことではない。「偶然のあなた」は、もう存在している。

文=水陶マコト